粕谷栄市の現代詩文庫二冊と『鏡と街』、『化体』

      
『粕谷栄市詩集』(思潮社 1976年)
『続・粕谷栄市詩集』(思潮社 2003年)
粕谷栄市『鏡と街』(思潮社 1992年)
粕谷栄市『化体』(思潮社 1999年)


 やはり異界が多く舞台となっている粕谷栄市の散文詩を2回に分けて読もうと思います。まず初回は、処女詩集『世界の構造』、未刊の『副身』、『霊異記』拾遺、初期詩篇を収めた『粕谷栄市詩集』と、『悪霊』、『鏡と街』抄、『化体』抄、拾遺詩篇を収めた『続・粕谷栄市詩集』、それと、詩集『鏡と街』、詩集『化体』。彼の詩作の前半にあたる部分です。

 『続・粕谷栄市詩集』の解説で、横木徳久が「粕谷栄市らによって確立された散文詩形式は、確かに幻想的な異界や謎めいた物語を創出するのにきわめて有効な形式であった」(p139)と書いているように、粕谷栄市の詩には、どの作品にも、現実世界の風景や論理をすっとばしたような不思議な感覚が感じられます。夢の世界、狂気の世界ですが、これは詩の論理によって巧みに張り巡らされた眩惑的な世界と言ってもいいでしょう。本人もエッセイ「さびしい生存」で、「全て、美しいものには妖しげな何かがある。非常に、わけのわからない曖昧なものが。つまり一切の理由を超えたものが」(『粕谷栄市詩集』p92)と書いているように、おそらく詩人本人も何故かは分からないまま、その世界を展開している(展開せざるを得ない)のだと思います。

 前回読んだ高柳誠と違って、詩集としての意識はあまり感じられず、そのときどきに溜まったものをまとめたという印象です。違った詩集に収められているどの詩にも同一の味わいが持続しています。一貫して同じテーマを追いかけているようです。本人も、エッセイ「卵」の中で次のように書いています。「私は、同じような主題、同じような題名、同じような表現を、繰り返し、自分の作品に登場させる病気がある・・・一度だけ、そのことを検討して、私は、それを怖れないことにした。結局のところ、私は、『いい詩』が書きたいのであり、自分にとって、それが必要であれば、何度、同じことを試みても、構わない」(『続・粕谷栄市詩集』p113)

 作品から受ける不思議な感覚がどこから来ているのか、覚束ないまま、いくつかの要素を考えてみました。
①「病気に罹って以来というもの、私は、鯨を、一頭、所有している」(「鯨または」)とか、「死人と一緒に、一軒の家にくらしていると、誰でも、料理をつくるのが上手になるものだ」(「厨房」)とか、だいたい冒頭に、あり得ない状況が提示され、それをきっかけに話が展開される。

②その後の話の筋道も、非論理的、ナンセンスな展開があり、私など凡人の思いもつかない想像力の飛躍がある。それが深刻さとおかしみとの混じった禅味のような感じをもたらしている。(「真贋」、「死法」、「長靴をはいた男の挨拶」、「らっきょうと昼」など)

③一つの世界の中に、入れ子のようにまた別の世界が嵌め込まれる話がある。例えば、「五月」では男の夢の中に出てくる女がいて、またその女が夢見ているなかにその男が出てくるという相互に入り組んだ設定であり、「部屋のなかの馬」では、曇天の街で、苦痛に喘ぐ馬の居る部屋の隣に、その馬のことを考えている繃帯で顔を覆い二つの穴のような眼をした男のいる部屋があるが、その曇天の街自体がその馬の内臓のなかにあり、男の顔の繃帯を剥ぎ取ると、二つの穴は、馬と男の居る二つの部屋だったという複雑な入りくりがある。

シュールレアリスム絵画のワンシーンのような情景がところどころに出てくる。「満開の桜のしたで、琵琶を抱いた、百人の法師たちが、笑っている」という「霊弧」、「黒靴を履き、正装して、一輪の蘭の花を持った男が、淋しい夜明けの街の血の色の空間を、墜落している」という「幻花」、鉢から男の生首がひょろひょろと伸び、隣の鉢から、その隣の鉢からと、まわりじゅうの鉢から生首が伸びる「転生譚」、老人たちが同じ帽子をかぶり同じ外套を着て街の中空のそこかしこに立ったまま眠っている「幻月」など。

⑤分身テーマの作品が散見される。「私の顔をした犬が、犬の顔をした私を咬み殺す」(「刑罰」)とか、「反世界の小さな田舎町で、もう一人の私である男が、彼の妻とくらしているのを、私は知っている」(「副身」)とか、「おれと瓜二つの、最新の流行の服を身に着けている」(「復活」)とか、「その舞台の卵の顔が、自分の顔であったことに気がつくのだ」(「奇術」)とか、「ある夜、鏡を見ていて、突然気がつくのだ。自分が探し続けていた男が、自分であったかもしれないことに」(「梯子あるいは人生について」)とか。

⑥変身譚がたくさんある。老人が小さくなって、「鈍く錆びた鋏になりかけていた。その柄の部分に、もう、僅かに、白髪の頭や手足の一部が残っているだけだった」という「老人の話」、「半ば、その椅子に抱きつく格好で、背凭れの部分に顔を押し付けているのだが、彼の身体の椅子と接しているところは、完全に、椅子と溶けあっていて、どこからが彼なのか、不明である」という「迷路の街について」、「顔だけは、未だ、人間の顔をしているが、からだは、もう、すっかり、虫になってしまった奴だ」という「昆虫記」、顔が大きな卵となる「奇術」、馬になった男の「曲馬」、毛布になってしまう「毛布あるいは死について」、そのほかいろいろ。

⑦喩の特徴としては、「~のようなもの」が効果的に使われている。通常の比喩ではなく、わざと明示せず幻想的なあるいはユーモラスな雰囲気を醸成しているのでは。例えば、「西瓜のようなものが、本当に、西瓜であるかどうか」とか、「満月のようなものが、驚愕のように、上ったのだ」(ともに「真贋」)という表現法。また、「~のように」の「~」の部分に抽象語を入れて理解を混乱させるやり方、例えば、「贋造の月光は、歴史のように、彼女を照らす」とか、「死のように、一つの櫛が落ちている」(いずれも「櫛」)。また「無数の水仙が、常に咲き乱れる、恐怖のようなところ」とか、「絶叫のような美しさ」(いずれも「水仙」)という普段使わないような使い方。 

 他にいくつか目につく特徴は、石原吉郎の作品に似て、情感的なものを削ぎ落とし物に即した表現があり、断言命令的な口調があるところです。そこまでならまだいいですが、殺人や撲殺、殴打、銃殺、拷問など、残酷な言辞がさらりと抽象的に書かれているのは、個人的には受け入れにくいところがあります。


 個々の作品で、とくに凄さを感じたのは、「邂逅」、「世界の構造」、「啓示」(以上『世界の構造』)、「真贋」、「死法」(以上『副身』)、「冷血」、「霊界通信」、「五月」、「老人頌」(以上『悪霊』)、「部屋のなかの馬」(『鏡と街』)、「転生譚」(『化体』)。

 佳篇は、
『世界の構造』:「脱走」、「水仙」、「喝采」、「鯨または」、「旅程」、「堤防」、「甲板」、「櫛」、「幽霊」、「礫山」、「箒川」
『副身』:「白鳥」、「厨房」、「副身」、「悪夢」、「労働」、「仙境」、「忘恩」、「満月」、「氷山」、「孤島」
「初期詩篇」:「紐」、「ホテルにて」、「病人」
『悪霊』:「復活」、「奇術」、「梯子あるいは人生について」、「霊狐」、「敬礼」、「悲歌」、「繋船」、「植物記」、「燻製にしん」、「古い絵」、「天路歴程」、「絶叫」、「伴侶」
『鏡と街』:「長靴をはいた男の挨拶」、「夢の女」、「厨房にて」、「半ば潰れて消えかけた顔の男」、「老人の話」、「跳びはね男」、「らっきょうと昼」、「幻花」、「安眠」、「霊験」
『化体』:「化体」、「春歌」、「幻月」、「養老」、「壜詰男」、「迷路の街について」、「突堤」。


 何かまだ書き足らない気がしますが、思いつけば次回に。