前田速夫『異界歴程』


前田速夫『異界歴程』(晶文社 2003年)


 とにかく「異界」という言葉のついている本をどんどん読んでます。この本は一種の奇書で、日本各地を経巡りながら、民衆の中の怪しげな信仰、特別部落など、日本の暗部の歴史に光を当てようとしています。全8話あり、それぞれ場所も題材も異なりながら、通底するテーマが感じられ、底辺で黙々と生きてきた人々への思いが一貫して感じられました。巻末の対談で、谷川健一が指摘しているように、学問的探究とルポルタージュ的叙述が融合した面白い読み物となっています。

 特殊な職能の呼び名として、おどろおどろしい言葉がたくさん出てきます。誤解があるかも分かりませんし説明も省略しますが、順不同で羅列してみますと、鉢屋、遊部、陰陽師、博士、穢多頭、非人頭、山椒大夫ノロ、ユタ、ニンブチャー、毛坊主、イタコ、手傀儡、長吏、番太、ごんぼう衆、無頼、尸者(ものまさ)、造綿者(わたつくり)、宍人者(ししびと)、俗聖、下級神人、唱門師、歩き巫女、白拍子、猿飼、三味聖、七道者。これだけでアングラ芝居が三つぐらいできそうです。

 全8話の題材は、以下のようなもの。ジプシーの血を持つ流謫の人ラフカディオ・ハーンの被差別者への目線を語った「山の者のバラード」、信州鼠宿のネズミの意味を探究する「ネズミの話」、伊豆諸島の孤島の二つの悲劇を綴った「青ヶ島の新神」、東北・北海道を巡った菅江真澄の正体を推理する「白太夫の家」、奄美大島に伝わる伝説を追った「南海の平家伝説」、奥飛騨の怪異な伝説を泉鏡花円空と絡めて語る「魔法の谷」、かつて鎮魂呪術を行いながら突如歴史から姿を消した集団のその後を想像する「影の一族」、ポルトガル宣教師アルメイダの生涯からマラーノ的なものを考える「マラーノ来日」。

 ただ、各篇の記述のまとまり具合に差があるように思いました。「山の者のバラード」を皮切りにしばらくは、話の運びが物語的で構成がよく練られていると感じましたが、「魔法の谷」、「影の一族」あたりは若干冗長で行き当たりばったりの散漫な印象。そのスタイルが自然だという風に考えられたのかも知れません。それで、筆の勢いで、急に現実的な話題が出てくるところが面白い。自暴自棄になってカラオケを歌う話や、長嶋引退試合をテレビで見た話、それに嫁さんへの気遣いを白状するところ、また「麻雀で言えば四暗刻をツモったようなもの」という表現が出てきたりする。

 いろんな話が出てくるので、頭が整理できませんが、各篇を貫いて大きくいくつかの主張があるように見えます。
一つは白山信仰に関するもので、著者が白山信仰に並々ならぬ関心を持っていることが分かります。8世紀初頭、修験者泰澄(たいちょう)が加賀白山を開山したことに発するとされるこの信仰について、著者は、黄泉平坂でイザナミに追われたイザナギが禊をする直前に現われた菊理姫が白山神の主神になっていることや、擬死再生の儀礼である奥三河花祭りの白山行事、オシラ様のイタコが白山姫命と書いた御神体を持っていたことから考えて、明言はしていませんが、死者の再生にかかわっていることをほのめかしています。また、被差別部落が白山神を祀ったり、円空白山信仰の修験者であったこと、さらに白山信仰奥飛騨の一部の地域で盛んになった仕掛けなどにも記述が及んでいました。

もうひとつは、天皇の殯の際、墳や棺を造り、葬に必要な祭器を用意し挽歌を歌ったり、また歌垣で活躍していて、平時は遊居したため遊部と称した部民が居たが、「東大寺奴婢帳」に751年に名前が出てくるのを最後に、歴史の表舞台から忽然と姿を消したと言います。大化薄葬令で殯が天皇以外は禁止され、しかも形も隋・唐の模倣となり、また歌垣も宮廷の行事として制度化されていったため、遊部の居場所がなくなったのが原因のようです。中国においても、最高の聖職者であった「祝」が、祭政形態の衰頽とともに地位が低下し王朝滅亡後は賤官となったように、古代天皇陵の陵戸だった人々が賤民とされ、以後被差別地域になってきたというのが著者の推理のようです。

三つ目は、文芸雑誌の編集に長く携わっていた人らしく、文章や伝承の力を称揚しているところが一貫していました。物語や伝承のなかには人間の矛盾もあるが真実も詰まっているもので、近代の歴史家が史実を伝承より上位に置いているのは一種の傲慢だと言います。文学を民俗・歴史で解釈、逆に民俗・歴史を文学で解釈というのでもなく、また両者を補完するものと捉えるのでもなく、両者が緊張を保ちつつ火花を散らし合うような第三の道を進むべきだとしています。また、柳田国男折口信夫ももとは文芸から出発した人だから文章に惹きつけられるわけで、イメージの喚起力や、優れた感性がなければ、作品が魅力のあるものにはならないとも述べています。