ジャック・フィニイ『ふりだしに戻る』

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ジャック・フィニイ福島正実訳『ふりだしに戻る(上)・(下)』(角川文庫 1991年)


 時間旅行をテーマにしたフィニイの長編を読んでみました。あとがきで訳者も書いているように、『ゲイルズバーグの春を愛す』などの短篇のテイストがあり、それを目いっぱい拡大し読者を堪能させようとこの作品を書いたと思われます。久しぶりに巻を措く能わずの境地に引き込まれました。

 その魅力をもたらしているいくつかの特徴がありました。
①文章の喚起力の力強さ。とくに時空を超えて新しい世界に一歩足を踏み入れたときの、息遣いが感じられるほどの現実感が凄い。1882年のニューヨークへ3回(とくに最初と2回目)移動した主人公が見た世界と、逆に1882年の女性が現代へ入りこんだときの驚きの世界。普通の小説空間ではこんなにリアルには感じられないが、どうしてだろう。フィニイが本当に描きたかったのはこのシズル感ではないか。

②レニエの過去への偏愛と異なるのは、レニエの場合は、過去の栄華が古び凋落していく姿を愛するのに対して、フィニイの場合は、過去の生き生きとした現実感を求めているところ。古書に対する感覚を例に取れば、レニエが愛でるのは一般の古書愛好家と同様に古色を帯びた古書だが、フィニイの主人公は、出版された当時の新刊のきれいな古書に驚嘆するのである。

③物語を本当らしくみせるために、ニューヨークの当時の姿を図書館などで克明に調べており、ホテルや劇場、公園、郵便局などの地図上の正確な位置はもとより、建物の看板や中に入っている事務所、当時の人物や事件を再現し、新聞記事なども織り交ぜながら報告している。

④その一環として、小説の中に、写真やスケッチを挿入しているのは、実験小説的な面白い試み。単なる奇抜さを装っているのではなく、物語のなかでの必然性があり不自然さは感じさせないようになっている。逆に写真を見つけてからそれを物語のストーリーの中へ反映させたということだろう。

⑤タイムトラベルものは、器械の中に入って移動するというイメージがあったが、この作品では、過去の事物に取り巻かれる環境を作り、しゃべり方や当時の話題など行く先の時代の疑似体験を積み重ね、時代を全身で感じる想像力を訓練したうえで、最終的に自己催眠をかけてその時代に居ると信じることで移動するところが面白い。


 時間旅行や歴史に関するフィニイの考え方がところどころ表明されていました。
①われわれはふつう、過去は過ぎ去ったもの、未来はまだ起こってないもので、現在のみが実在すると思っているが、過去は実在する。1894年の夏はいまでも存在するのだ。今年やってくる夏とまったく同じように存在する(上巻p87、104)。

②過去から伝わってきたものは、博物館の展示に代表されるように古びているということが特徴で、遺物と感じさせるが、実際は生きていた人間がそれを使っていてピカピカしたもののはずだ(上巻p132)。

③過去への干渉は未来に影響を及ぼすので、タイムトラベルものでは禁止事項としてあげられている。未来の人間が簡単に過去を修正することには反対だが、しかし、現在においても、ある決断をするということは未来に対して大きく影響を及ぼすことであり、人間はすべて一生のあらゆる瞬間において、そういう選択をしてきたのである(下巻p96)。


 私の理解の足りなさからか、変な感じを受けたり、綻びと思えるような箇所がいくつかありました。小説なので細かな詮索はナンセンスだと思いますが、小説本来の面白さを損なうことはないと思うので、書いてみます。
①何年かの間であればまだ分かるが、どうしてある決められた正確な日時の過去に戻ることができるのか。また現在において過去の当時の姿がそのまま残っている場所が過去へ通じる道となるということだが、場所は同じと言っても、実は微妙に古びていて、同じではないのだ。

②物語の最後の方になって、突然、プロジェクトリーダーたちが豹変するのが不自然。どうしてそれまで慎重に事を運んでいて、好意的な描かれ方をしていたのに、急に悪人のようになってしまうのか。

③どうして自己催眠などの訓練もまともに受けていない1882年の女性ジュリアが、しかも発作的に、事前に考えられた場所でもない所からやすやすと過去に戻れたのかも不自然。

④未来が過去に及ぼす影響のところで、ウィルスのことがまったく考慮されていないのに驚く。コロナ禍で地理的な検疫が必要なことがより鮮明になったが、それ以上に時間的な検疫が重要だと思う。その時代になかったウィルスを持ち込んで感染症の大流行を招くことになる。


 二つのビルがまたたく間に火災で崩れ落ちる場面は、9.11のワールドトレードセンター崩壊の縮小版を思わせるところがありました。