岩﨑昇一の詩集二冊

f:id:ikoma-san-jin:20200108072006j:plain    f:id:ikoma-san-jin:20200108072050j:plain

岩﨑昇一『無みする獣』(日本図書刊行会 1997年)

岩﨑昇一『藍染の家』(ふらんす堂 2011年)

 

 以前、『無みする獣』を買ったとき、簡単な感想を書いたら、著者の方からお礼のコメントをいただきました(2014年10月18日記事参照)。今回、イロジスム(非論理)の詩の最終回として、最近買った『藍染の家』と一緒に取り上げてみます。この二冊はテイストがずいぶん違いますが、手法はよく似ていると感じました。

 

 『無みする獣』は、きわめて個性の強い詩集で、強烈な毒気を発散しています。音楽で言えばブルースか。「ことわる」「なれあう」というように動詞をタイトルにした32の詩篇からなっていますが、各篇が同じ雰囲気を持った連作詩のような形で、どれがどうつながっているのかはよく分かりません。全篇通じて言えるのは、主人公がモノローグとして語るなかで、強烈な感情がくっきりと描き出されているのに対し、その原因であり背景となる具体的な出来事はぼんやりとしか浮かび上がってこないところに、よじれるような感覚があります。

 

 主人公は、どうやらやっかいな組織のなかにはまり込み、にっちもさっちも行かなくなっているようですが、その組織は、「前任者とはなしをしたい」(p4)「投函した/移動具申を」(p6)というように普通の会社組織のようでもあるが、「丸山町の路地うらだった/ふいを狙って斬りつけたのがいけない」(p16)「足をあらいたかった」(p17)「箍のはずれた若い手合いが/すごんで詰め寄ると」(p52)というように、やくざ的な組織のようにも思えますし、「ビラをばらまき煽動する」(p57)「追っ手は すでに/・・・/ほらあの黒い背広の/柔和なおとこもそうだよ」(p58)というように、かつての学生運動の過激なセクト、あるいは「朝の/あいさつからしてなっていない/分別ゴミの処理ができていない」(p59)みたいに町内会のようなところもあります。

 

 全篇、内輪揉め、裏切り、密告、恫喝、蔑み、騙し合いのような状況が、怨念と呪詛に満ちて語られています。口語的な言葉の一つ一つがどぎつく力を持っています。例を挙げると、「これまでの経過はチャラにする」(p4)「みせしめにせよということらしい」(p13)「やらなくてはこちらがやられる」(p16)「かさにかかってつつきにかかる」(p22)「そういうことなら/あんたらどうする気ねと」(p48)「手めえの口にする半分も生きてみろと」(p53)「地獄までつれこまないことには/おさまりつかない恨みの」(p63)「いまさら/聞いてねえよはないだろう」(p83)「おどらせやがったな/すずしい顔して あいつ」(p89)「そこいらの椅子を蹴ってけつれつを/ちらつかせるが」(p93)。最後の方の詩篇は男女間の揉め事のようなところもあります。詩と現実の作者は関係ないものと分かっていながらも、いったいどういう経歴の人なのか気になってしまいます。

 

 

 『無みする獣』の詩篇は一種独特な閉鎖的な世界の出来事を語っていましたが、『藍染の家』は、いくつかの違った世界が混在していて、開けた感じがすると同時に、その分さらに難解になりました。全部で25篇からなり、『無みする獣』と同様、連作のような雰囲気があります。おぼろげに分かることは、どうやら茶道が話題になっていること、それで器のことが出てきたり、お点前とか稽古、茶室という言葉も出てきます。家が藍染をしているなど、伝統的な世界がベースにあるようです。そこに、家族や隣人が出てきますが、父は認知症、その父の世話をしているらしい母も途中から死んでいたり、兄は幼いころ溺死、その責任を感じた祖父が自殺したり、近所で殺人があったりなど、死が至る所に顔を覗かせています。

 

 いくら読んでもよく分からない部分があり、それがまた魅力とも言えます。冒頭の「故人のように」では、「ように」というからには死んでいないらしく、「病にでも伏しているのか」(p6)という言葉が出てきますが、「弟子が火箸で鼻を突付いていてみたが」(p8)という火葬場らしき情景もあって違うのかなと思えば、「床も寝返りも 息もくさる」(p9)という最後の詩句で病床に戻るといった感じです。その伏せっている人物が話者であるのか父親かよく分かりません。また次の「故人Ⅱ」では、「今朝何者かに開封された手紙を/路地に見つけたときには/すでに殺害されていたことになる」(p10)とあり、誰かが殺されたことが分かりますが、それが誰かよく分かりません。続く「おさない養女はもう帰ってこない。/誘拐された痕跡をさがすが」(p12)というフレーズでは、殺されたのが養女のような気もしますが、誘拐されたということは死んではいないようでもあります。「隣人」という詩では、近所の河原で二十歳の女性が殺されたことが分かり、養女との関連が気になりますが、最後に「(このまま隠し通せるか)」(p21)という独白があって、話者が犯人かという疑いも生じてきます。

 

 個々の詩については、他にもいろいろありますが、切りがないのでこれくらいにします。単に私の読解力のなさによるものかもしれません。もうひとつ全体の構成として不思議なのは、「故人」と「藍染の家」はシリーズのようになって、作品番号がついていますが、それが番号順に並んでおらず、「故人」ではⅡ、(Ⅰ)、Ⅳ、Ⅲ、「藍染の家」ではⅡ、(Ⅰ)の順に並んでいることです。これは雑誌へ発表した順番を、詩集に編集する際に変更したということなのか、もし書下ろしでこの順番とすると、この番号が時系列になっているということを示そうとしたのでしょうか。

 

 

 イロジスムの詩については、これまでも、意味が通らない中で惹きつける力を保つには、つながるものがなければならないと考え、シンタックスやリズムにその役割を見たり、単語の反復や比喩の技巧を見たりしましたが、逆に意味を通らせないという点からも考えてみないといけません。

①イロジスムの詩には、難解の美学とでも言えるものがあり、それは謎としての魅力で、謎自体が読者を惹きつけるのである。隠すことによって姿を彷彿させる一種の象徴主義神秘主義と言える。

②イロジスムの美は意味が次へ続こうとする瞬間に、読者の期待をずらすところから生まれる。ずらすということは、それまでは意味のある世界が築かれていなければならない。

吉岡実が「能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」と書いたように、意味をずらした後、何ものかでつなぎ止めつつ、また意味をずらすという反復運動のなかに美が生まれる。