佐久間隆史『詩と東洋の叡知』

 

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佐久間隆史『詩と東洋の叡知―詩は、計らいの、遥か彼方に』(土曜美術社出版販売 2012年)

 

 これまで読んできた海外ハイクについての本のなかで、「西洋では、俳句は見えないものが見えてくる瞬間をスナップショットのように捉えるものであり、禅と共通点があるものと考えている」という指摘がありました。この本には、禅のような神秘的東洋的な知と、詩との関係に触れる部分があるかとの興味から読んでみました。

 少し曲解を交えているかもしれませんが、おおよその感じは次のようなものです。

①食事に没入している時は歯を意識していないように、また上手な卓球選手どうしの試合では視覚による認識よりも反射的な反応によるように、詩作においても、想念をめぐらすのではなく、ものごとの本質にじかに触れるあり方が肝心。

②「すぐれた詩的イマージというのは理性や精神の類推によらない偶然の力によって構成される」(西脇順三郎)ものであり、美しいものを打ち立てようともがいているうちに、ある瞬間、美しい詩行となって訪れるものである。

③「シナの灰色の牛が/背骨を伸ばすと/同じときに/ウルグヮイの牛が/誰か動いたなと思って/ふりかえる」というシュペルヴィエルの詩で、シナの牛とウルグヮイの牛とが時空の差をこえて同時に捉えられているが、これは常識的な分別・理性ではとらえられない関係性であり、そこに真の詩がある。同様の詩に、「張公、酒を喫して、李公、酔う」(禅僧の言葉)とか、「もろこしの山の彼方に立つくもはここに焚く火の煙なりけり」(嵯峨天皇の妃壇林皇后)がある。

④「想像力とは、まず、哲学的な方法の外にあって、事物の内面的でひそかな関係、照応と類似とをみとめるほとんど神聖ともいうべき能力」であり、「直喩や隠喩や修飾語は普遍的な類推という汲めども尽きぬ深い宝庫からくみとられている」(ともにボードレール)。

⑤禅僧趙州が「仏とは何か」と問われて、「庭前の柏樹子」と、理に対して事をもって答えている。これは「なぜ」を忘れた無心のあり方であり、自己の存在や行為・行動の必然性にひたりきっている状態である。これは詩作の心に通じるものがある。

 あまり悪口は言いたくありませんが、「故郷の喪失」を扱った2篇以外の11篇は似たような内容であり、どの篇を読んでも同じ引用文があり、同じフレーズが何度も出てきます。いろんな雑誌に発表したものを一冊にまとめたものと思われますが(出所を書いていない)、重複が多いのに驚いてしまいました。辛抱して読み進めば少しは深まっていくかというとそうでもありません。同じ所に停滞しているので、貴重な思想であっても平板な印象になってしまっているのは残念です。ほかにも引用の際に、本のタイトルと出版社名はあるのに、翻訳者の名前が記載されていないのは、翻訳者への敬意が欠けているように思われます。これらはすべて本の作りの問題なので、編集者に責任があるわけですが。             

 詩の神秘性、偶然性と禅や仏教との親和を、正面から論じようとしている点は評価しないといけないと思います。「断片であり、謎であり、恐ろしい偶然であるものを、一つに圧縮し収集すること、それこそわたしが日夜肝胆を砕いていることである」という『ツァラトゥストラ』からの引用がありましたが、私にも同じような関心がありますので。 

 他に、有益だったのは、日本人で朝鮮で生まれ育った齋藤怘(まもる)という詩人を知ったことです。悔恨、喪失を歌った抒情的な作風に見えましたが、引用だけではよく分かりませんでしたので、いつか手に入れて読んでみようと思います。