:戦後間もなく渡仏した人の二冊

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加賀乙彦『頭医者留学記』(講談社文庫 1988年)
龍野忠久『パリ・一九六〇 Paris・1960』(沖積舎 1991年)


 1957年、1960年にそれぞれ日本を後にしてフランスに向かった二人の書いた本。片方は体験を元にした小説、片方は回想と、形は異なりますが、ともに異国での奮闘ぶりを伝えていて、興味深く読みました。

 『頭医者留学記』は、著者が東大の医学部を出て東京拘置所精神科医として働いた後、フランスへ留学した時の体験を綴ったもので、著者が「あとがき」に書いているように、「思い切ったフィクションを加え、自分の体験を茶化してしまうことで、自由な反省や考察が可能になると考え」(p213)て小説にしたものです。一種の青春小説。「おれは」で語られる一人称小説で、話者の目から登場人物が戯画化されて描かれているところは、漱石の「坊っちゃん」を思わせます。この作の最期に出てくる北の町サンヴナンでの体験が後の出世作『フランドルの冬』に結実したということです。

 感心したのは、医学部出身なのに、哲学者のように深く物事を考え、フランス語の小説をものすごいスピードで読みまくっていることです。リーヴル・ド・ポッシュの薄いのだと1日で2冊読んでしまうというからびっくり。しかも古典よりも戦後の小説で、そこには小説を教養として読むというより、現代を知るために読むという考えがあるからと言います。さらに日本の場合、当時の現代小説が、酒や女に入り浸る特殊な世界に戯れる文士たちの自己満足ばかりなのはおかしいという手厳しい批判もありました(p208)。

 とてもクレバーな人のようで、フランス文学者が例えば「スタンダールが専門」というような言い方をするのを捉え、「専門」とはどういう意味か、どういうご利益があるのかと問い詰め、結局、その作家を崇拝しているという意味なだけだと喝破したり(p15)、旅というのは名所旧跡を観光するだけでそこで人間との触れ合いがなければ大した感銘がないとか(p17)、パリの石造りの堅固な家々、規則ずくめの生活、外国人をフランス人と区別する感覚などを見て、牢獄と比較したり(p96)、永井荷風がパリを理想郷とみなし、島崎藤村が異国に慰藉と解放感をおぼえ、横光利一が反撥と尊敬をせめぎあわせ、遠藤周作が劣等感と違和感に悩んだと、過去の文学者のフランスとの対峙の仕方を整理したりしてもいました(p115)。


 『パリ・一九六〇』は、著者が、大学での恩師山内義雄の仲介で勤め始めた時事通信社をあっさり辞めた後、ぶらぶらしているところを親に説得されてパリへ遊学した時の回想録。航海の途上立ち寄ったボンベイでカツアゲ集団に付きまとわれたり、パリへついて早々に深夜警察署に留置されたり、梅田晴夫氏と古本屋で遭遇し2,3日パリを観光しながら一緒に過ごしたり、エール・フランスのスチュワーデスさんたちを下宿に招いて料理を教えたり、パリ郊外の貴族の館で過ごしたりといった体験を記しています。

 大学時代は「殉皇菊水党」という右翼グループに属していたらしく、一本気で、議論好きな所がうかがえますし、通信社に働いていただけあって、文章もこなれていました。が少し学生気分が抜けていないというか、師の山内義雄が辛抱強く支えてくれたおかげで、なんとか世過ぎができているという認識が薄く、また親の金でパリに留学できた恵まれた環境についてはあまり気にしていないという気がしました。

 面白かったのは、パリの古本屋のことが書かれていたこと。「もともと日本と違って娯楽本位や読み捨ての本は古本屋には出回らない」(p67)というのはその通りだと思いますが、「店の中に入ると、薄暗い奥から主人がのっそり現れて、不愛想に『何をお探しですか』と尋ねてくる」(p65)と書いていたのは、最近はずいぶん変わってきたようで、私も何軒か追い出されるような目に遭いましたが、ほとんどの店では自由に本棚を見せてくれました。

 あと情報として、山内義雄早稲田大学で文学部と派手な喧嘩別れをして、法学部へ移り、その後文学部には一歩も足を踏み入れなかったことや(p187)、石川淳、井上勇が山内義雄の一番弟子だったこと(p187)、私にとって謎の人物椎名其二について言及されていたのが(p191)有意義でした。著者がフランスへ渡航する直前に、山内義雄に勧められて、その頃たまたま日本に帰ってきていた椎名其二にフランス語を習いに行ったということで、その様子が描かれていました。アナーキスト対右翼が対面したうえに、二人とも喧嘩っ早くて、なかなか大変だったみたいです。