:『近代日本と仏蘭西』


三浦信孝編『近代日本と仏蘭西―10人のフランス体験』(大修館書店 2004年)


 日本人のヨーロッパ体験の本を読んでいますが、今回は、複数の人物のフランス体験を少し時代を広げて検討した本。東京日仏会館創立80周年を記念して行われたシンポジウムの記録です。次の10人について、異なる評者が論じています。渋沢栄一中江兆民西園寺公望黒田清輝永井荷風、大杉榮、九鬼周造藤田嗣治金子光晴横光利一。人物として面白かったのは、渋沢栄一永井荷風九鬼周造。評者の巧みさに感心したのは、鹿島茂渋沢栄一を論じた)、鳥海靖(西園寺公望)、坂部恵九鬼周造)、林洋子(藤田嗣治)。

 渋沢栄一の活躍ぶりには目を見張るものがありますが、鹿島茂の紹介は、資本主義のあり方を背景の文化から考え、渋沢栄一の事業の奥底にあるものを大きなスケールで把握しようとしたものです。フランスは当時の銀行の保守的な体質のために、イギリスの産業革命に遅れを取っていましたが、産業投資や鉄道敷設に積極的なサン=シモン主義に共鳴していたナポレオン三世が一気に改革を推し進めたということで、渋沢栄一はその時代に渡仏したので、その影響を受けたと推理しています。また渋沢は金儲けと倫理を両立させる理念を持ちプレイング・アンパイアとして活動したので、自ら株主になり500以上もの会社を次々に創っていくことができた論じています。

 九鬼周造についてもあまりよく知りませんでしたが、坂部恵の文章を読んで、いちど読んでみたいと思いました。坂部氏は九鬼周造の特徴として、①ハイデガーが言葉を大切にしたように、日本語をじっくりと考えることで思索を深めている、②九鬼周造の資質が萩原朔太郎折口信夫とほぼ同世代であり、ボードレール愛好者でもあって永井荷風デカダンスに通じるものを持っている、③代表作『「いき」の構造』は花柳界出身の母親に対するオマージュであり、日本への望郷の書である、④九鬼は才能と学識の割に書いた分量は少なく、モデストな人であった、⑤九鬼は「いき」や「偶然性」を論じる際に、バロックの性格である二元的緊張というものを見ており、バロックのスタイルを身につけた思想家といえる、と指摘しています。


 まとめていくのは面倒なので、新しく知ったこと、印象深かったことのいくつかを列記してみます。
江戸時代は、士農工商として身分は固定されていたと言われているが、江戸の末期には、武士の位は金やコネで手に入れることができ、身分の移動はかなりあった(p27)。
以上、鹿島茂渋沢栄一」より


1872年パリの留学生監督が入江文郎だった(p70)。→この人は『死面列伝』に出ていたモンパルナス墓地に葬られた人。
以上、井田進也中江兆民」より


「自由」という言葉は中世からあり、手前勝手という否定的な意味で使われていた。それが幕末に徐々にプラスのイメージをもって使われるようになった(p110)。
江戸時代には血のつながりはあまり重視されていなかった。公家や大名は血がつながってないものが多く、商家でも娘婿に継がせたり養子を取ったりすることが頻繁だった(p116)。
天皇を神聖不可侵とする観念はヨーロッパの立憲君主制憲法から来たもの(p117)。
以上、鳥海靖「西園寺公望」より


黒田清輝が住んでいたフォンテーヌブロー近郊のグレーは、ロワン川のほとりで豊かな自然があり、近代日本の洋画家たちにとって聖地のような場所であった。現在「黒田清輝通り」というのがある(p147)。
黒田は、物語としての歴史画よりも、抽象的な主題を持つ寓意画を高尚なものと考え目標としていたが(p156)、黒田自らまた黒田直系の留学した画家たちもその分野は不得意であり、逆に留学しなかった青木繁らが「わだつみのいろこの宮」などでそれを達成した(p165)。
以上、三浦篤黒田清輝」より


荷風の父親永井来青(久一郎)は明治初期の代表的な漢詩人だった。荷風の『下谷叢話』は、江戸末期の漢詩人たちの伝記であり、詩を引用しながら詩人たちとその時代を語った美しい本である(p187)。→ぜひ読んでみたい。
荷風の江戸文化というのはフランス文化の代用品ではなかったか(p193)
以上、加藤周一永井荷風」より


大杉榮を逮捕し満州で暗躍した甘粕大尉が服毒自殺したときの辞世の句。「大博打 身ぐるみ脱いで すってんてん」(p241)。→自虐的というか無責任というか、何とも言えない。
以上、鎌田慧「大杉榮」より。


九鬼周造和辻哲郎らが学生時代に影響を受けた哲学の先生ラファエル・ケーベルは、ロシア生まれで音楽を学び、チャイコフスキーと友人だった(p258)。
以上、坂部恵九鬼周造」より


高橋由一ら油彩画の先駆者の世代が西欧の伝統技法の忠実な習得を目指したのに対し、藤田は西洋と日本の技法や素材の混合をためらいなく試みたことが重要(p292)。
日本特有の百貨店での美術展というシステムの起源は、藤田嗣治が日本に凱旋帰国した時、個展開催用の美術館というものがまだなく、特別に百貨店が場所を提供し大成功したあたりにありそうなこと(p302)。
1930年代の中米、とくにメキシコはヨーロッパからシュルレアリスト共産主義者が訪れるなど、文化的に大いに活況を呈した場所だった(p304)。
藤田嗣治は父親親戚に陸軍関係者が多く、戦時下に描いた絵はほとんどが軍部からの注文によるものだった。軍医総監であった父親への親孝行という思いがあったようだ(p314)。
以上、林洋子「藤田嗣治」より
(要約は原文をかなり変えていますので、慎重を期する方は原本を当ってみてください)。