:吉田健一の幻想小説


富士川義之編『日本幻想文学集成 吉田健一』(国書刊行会 1992年)

                                   
 以前、吉田健一の小説を何冊か所持していましたが、ろくすっぽ読みもせず、文章が読みにくいからと処分してしまいました。『怪奇な話』や『金沢』、『絵空ごと』だったように思います。今にして思えば残念。というのは、今回この本を読んで、とくに「沼」、「邯鄲」などは日本の幻想小説の最上の部類に入るのではと思ったからです。

 文章の分かりにくさも、小説であればそれが一種の味わいとなって美を醸し出すのは、埴谷雄高モーリス・ブランショ他の例でも見られるとおり。吉田健一の文体は幻想小説に向いていると言えるかもしれません。

 前回、吉田健一が晩年になって文章が分かりやすくなったようなことを書きましたが間違いで、「海坊主」、「饗宴」などは昭和30年頃の作品でも普通の文章で、「酒の精」、「道端」などは昭和50年で後年の作品なのに、句点がなく読みにくい。少ししか読んでないので全体像はつかめませんが、作品によって文体を変えているのか、あるいはむしろ歳とともに自分の文体を分かりにくい風に磨いていったのかもしれません。

 前回読んだ『汽車旅の酒』でも酒が中心の作品が多かったですが、今回も解説で富士川義之が指摘しているように酒が重要なテーマになっていて、「海坊主」、「邯鄲」、「酒の精」は酒や酩酊が直接題材になり、「逃げる話」では冒頭延々とバアが舞台で、酒の上の妄想で話が展開しているとも取れるし、「沼」はまったく酒は出てきませんが内容は酩酊そのものの世界。昔酩酊小説アンソロジーなるものを考えたことがありますが、「海坊主」、「邯鄲」などは間違いなくその中核となる作品だと思います。

 この本では、先にあげた「沼」と「邯鄲」が絶品。「沼」は、縮尺の異常から水溜りの虫を古代の海の怪物と幻視するところから始まり、西洋中世の恋愛や、海底大陸、日本の泥道など連綿と話題が続き、想像力が全開した面妖な一篇。「邯鄲」は、金沢でこつ酒をしこたま飲んで、翌日芦原温泉へ行き、華麗な宴席で珍妙な料理に舌鼓を打ち、気がつくと新潟で狐が化けた美女と酒を飲んでいて一緒に雪道を傘をさして歩き、また一転してパリらしき店でワインを飲んでいて、次にはアラビアで婆さん相手にカレイを食べていて・・・目が覚めると金沢の蒲団で寝ていたという、邯鄲の夢のような話。東坡肉(トンポーロー)のような味がする踊る小人の料理など細部の幻妖な描写が光っています。

 次に面白かった作品は、どんどん梯子酒をして最後に相方の超自然的な変貌を目撃する「海坊主」、バアで昼間暇潰しに飲んでいる話から徐々に狂想に駆られクレッシェンドしていく「逃げる話」、珍しく吉田健一の戦時の傷心がうかがえる「空蝉」、我々の生きている場と時間を論じた一種の哲学的随筆「時間」。

 「或る田舎町の魅力」と「道端」が『汽車旅の酒』、「ホレス・ワルポオル」は『ヨオロッパの人間』に収められていて再読。それ以外の作品もどこかで読んだような気がしてなりませんでした。