:デ・ラ・メア『ヘンリー・ブロッケン』


W・デ・ラ・メア鈴木耀之介訳『ヘンリー・ブロッケン―豊かで不思議な、想像を絶するロマンスの領域におけるその旅と冒険』(国書刊行会 1984年)

                                   
 デ・ラ・メアの最初の長篇小説で、31歳の時の作品。この本は珍しい造りで、本作は半分強の180頁、残りに80頁ほどのレナード・クラークという人のデ・ラ・メア論、50頁ほどの訳者のデ・ラ・メア論、最後に三段組で30頁強の年表がついています。付録が本作を圧倒しているという感じ。

 「ヘンリー・ブロッケン」は、両親に早く死に別れた若者が、書物で親しんだ遥かな国への憧れを胸に、ロシナンテという痩せ馬に乗って旅に出る話。旅物語という点では、この前読んだ『三匹の高貴な猿』と似ていますが、一言でいうと、ブッキッシュな観念小説です。いたるところに書物からの引用がちりばめられ、詩や物語の人物が旅の途中に次々と現れます。持っている知識をできる限り詰め込もうとする若書きの印象はぬぐえません。

 何が出てくるかと言うと、ワーズワースの詩の主人公「ルーシー・グレイ」、「ジェイン・エア」、ヘリックの詩の仮想の恋人たち、シェイクスピア真夏の夜の夢」の登場人物、眠りの森の美女、「フウイヌムの国」のガリヴァーバニヤン天路歴程」の寓意的人物、ポーの「アナベル・リー」、チョーサーの物語の女主人公「クリセイデ」等々。それらが独立した途切れ途切れの章の形で出てきます。なかでは、朽ち果てた館のなかで全員が眠りこけている眠りの国の夢幻的な描写や、ガリヴァー「馬の国」の馬同士のリアルで迫力ある戦いのさまが印象に残りました。しかし、馬の国とその前後に描かれている眠りの森の館と天路歴程の村とが、少し川で流された程度だったり、跛を引いた馬で行けるぐらいの近さという設定はあまりにも不自然。


 文章の特徴は、観念小説にふさわしく、全体的に茫洋とした雰囲気の中に、格言めいた短文がところどころに挟まれ、詩的なイメージに富んだフレーズが散見されました。いくつか引用してみます。
「旅人はどうやって曠野を越えて行くのかな?」・・・「星を頼りに行く人もあれば、月を頼りに行く人もあるわ」(p25)
わたしは、まだ知らないから知りたいのではなく、よく知っていることを知りたかったの(p38)
生きるとは、記憶すること。死ぬとは―ああ、誰が忘れたいかしら!(p56)
そのとき、分かったような気がした。だが、何が分かったのかもいまでは忘れてしまった。/p56
こんな繊細な生きものを夢のなかでも押しつぶすのは、月光をたぐりよせるように不可能なことだった。(p59)
夜の声しか聞いたことのない耳に、きみの声がどんなに奇妙にひびくか、まあ考えてもみたまえ(p72)
 この本にも、「人影がじっとこちらを見ている」とか「耳を澄ませる子どもたち」とか、デ・ラ・メア特有のイメージが出てきます。


 付録のレナード・クラークのデ・ラ・メア論で、新しく知り得たのは、
デ・ラ・メアが母ルーシーから童謡や伝説、お伽話を聞かされるなど多大な影響を受けていて、彼の詩や小説には何度もルーシーという名が出てくること(p195)。
②彼の詩は、シェイクスピアと、クリスティーナ・ロゼッティに影響を受けていること(p210)。

「あらし(The Storm)」と「静かになって(Now Silent Falls)」を例にとって、詩の技巧を説明している部分はすべて理解できたとは言えませんが、大いに参考になりました(p230~239)。「あらし」では、鳥たちの増えていくのが数学的な累積で表現され、それと嵐との関係が反比例し、騒がしさと静けさが絡み合っていく様子が的確に解釈されていました。子守歌である「静かになって」ではwやbの音の多用が眠りを誘う効果があると指摘されていました。言及されてはいませんでしたが、頻繁に出てくるlや18行目のmの頭韻も同様の効果があるように思います。

 また同感だったのは、デ・ラ・メアの作品が大人向けなのか、子ども向けなのかというはっきりした性格づけをしようとはしなかったと書いていることです(p197)。


 鈴木耀之介の解説は、幅広い視野でデ・ラ・メアの全体像を描いた秀逸な解説だと思います。次のような点が目につきました。
①「彼が認める現実とは、想像力によってしか理解され得ないものである」という言葉に見られるように想像力の重要性を指摘していること(p269)。
②「彼の詩はほとんどエロティシズムを欠いており、また楽園をまったく期待しない」(H・リード)(p278)、楽園は『三匹の高貴な猿』で描かれていたり、詩のなかにも妖精の国が描かれているので当たらないとしても、エロスの欠如は私も感じていたことで、ジャン・ロランやレニエのような雰囲気が付け加われば、デ・ラ・メアの作品はもっと面白いものになったのではと思う。
③「『ヘンリー・ブロッケン』は実験であり、物語と呼ぶには心象が多すぎる」というフォレスト・リードの言葉(p286)には同感。
デ・ラ・メアフロイトよりもハヴェロック・エリスの『夢の世界』に強く惹かれていたこと(p294)。
⑤「一日一ペニー」という物語からの引用文が魅力的(p299)。「グリゼルダは・・・老人が瞼を縁どっている睫のいっぽんを抜きやすいように、しっかり両目を閉じた。彼女は太く短い土くさい指が睫をこするのを感じただけで、ほかには何も感じなかった。しかし、ふたたび目をあけてあたりを見まわしたとき、まわりの風景はすっかり変わって―庭や家、城壁や崩れた小塔、崖や海、そして岩穴が―すべて消えてなくなっていた・・・」。
⑥同時代の作家に見られる奇矯さや狂気、無頼や遊蕩とは無縁な品行正しい生活をしながら、老熟期に、悪夢の文学というべき作品群を生みだしたデ・ラ・メアの異様さを指摘しているところ(p316)。
⑦『三匹の高貴な猿』が幼児向きではなく、少なくとも10歳以上でないと、登場者たちの性格づけが理解できないと指摘しているところ(p280)、18歳以上と言いたいが同感。


 訳者による最後の年表は、デ・ラ・メアの生涯、出版作品を網羅した上に、世界文学の潮流と、日本におけるデ・ラ・メア受容、英国を中心とした出来事を併記していて、なかなかの労作。この本が出版されたのが1984年で、1984年の項目にこの本の出版が記されているのはかろうじて理解できるとしても、未来の1985年の項目まであって、サンリオ文庫版の日夏響訳『デ・ラ・メア幻想傑作集』が出たと書かれている。そんな本は見たことがないが、本当に出たんだろうか。