世界紀行文學全集『フランスⅡ』(修道社 1971年)
『フランスⅠ』に引き続き、三段組442頁の大部の本を読みました。この本でもっとも惹きつけられたのは、新感覚派的文章が冴えている岡本かの子、ミシュレを引きながら歴史への熱情を感じさせる中村光夫、物語あり観察ありでなかなか読ませる村松嘉津。
とくに中村光夫は、フランソワ一世を中心としたフランス・ルネッサンスを称揚し、明治以来の日本の社会の大変革は、一般的によく比較されるフランス革命より、この時代の方に多くの類似点があると指摘しています(p257)。また旅について、「この眼の前にある美しいものを、おそらく一生のうちにもう二度と見るおりはあるまいという気持・・・こういう白日夢に実際に生きられるのも或いは旅の特権かと思われます」(p263)と書いていて、杉捷夫も「人生が一度限りのものであることを、旅ほど痛感させてくれるものはないことに改めて気がつきました」(p353)と書いていますが、この本で読む限りでは能天気でガサツな大岡昇平が「・・・旅行者には快い。しかしそれだって、一度僕が日本へ帰ってしまえば、何の関係もないことには変わりない。旅なんて淋しいものである」(p341)という言葉と何という違いでしょう。
ついで面白かったのは、本間久雄、辻潤、正宗白鳥、福原麟太郎、岩田豊雄、林芙美子、嘉治瑠璃子、小堀杏奴、新村出、島崎藤村、桑原武夫、野上豊一郎、杉捷夫、中川一政、宇野千代、佐藤朔、土岐善麿、ちと多すぎましたか。正宗白鳥の地下の秘密酒場潜入記、小堀杏奴が描く街角のふとしたドラマ、新村出が短歌で綴るパリの春の魅力、桑原武夫が克明に紹介してくれている神秘のブルターニュ、と書いていると字数が多くなりすぎるので他は割愛。
あまり悪口は書きたくありませんが、野上夫妻の文章は、夫の野上豊一郎が歴史に対して真摯に考えているのに対し、妻の野上弥生子が浅薄なブルジョワ的なはしゃぎぶりを見せているのが対照的。また小泉信三、村松梢風の文章に如実にあらわれていますが、パリを訪れた要人たちを接待するのに走りまわる大使を筆頭とした大使館の人たちを交えたブルジョワ的生活は鼻につきます。
この本でも、意外な人との出会いがあったり、いろんなことを知ることができました。上田敏の父親の妹の息子が吹田順助であること、そのことを書いている嘉治瑠璃子という人は上田敏の娘らしいこと(p102)、マルセイユで柳田国男と新村出が古本屋まわりをしていたこと(p116)、島崎藤村がパリでトスカニーニのコンサートを聴いていること(p148)、横光利一が岡本太郎に連れられて、トリスタン・ツアラの家に行き、そこでロジェ・カイヨワやジャコメッティと会っていたこと(p162)、武者小路実篤がピカソ、マチス、ルオー、ドランに会っていること(p172)、石井好子がパリのキャバレーで踊り子をしていたこと(p365)など。
イヴル・イズーという若いユダヤ系詩人が文字の音感だけで詩を作る「字感主義(レットリズム)」というのを提唱していることを高田博厚が書いていました(p283)。はなもげらの先駆者がヨーロッパにもいたんですね。
『フランスⅠ』『フランスⅡ』と読んで、もうフランスは行き尽したような気分になってしまいました。