:MAURICE RENARD『UN HOMME CHEZ LES MICROBES』(モーリス・ルナール『ミクロ世界へ行った男』)


                                   
MAURICE RENARD『UN HOMME CHEZ LES MICROBES』(MÉTAL 1956年)

                                   
 モーリス・ルナールはこれで3冊目。この本には、タイトルと同じ中編「UN HOMME CHEZ LES MICROBES」と短篇2篇「L’IMAGE AU FOND DES YEUX(目の奥底の残像)」「L’HOMME QUI VOULAIT ÊTRE INVISIBLE(透明人間になろうとした男)」が収められていますが、後の2篇は『L’INVITATION À LA PEUR(恐怖への招待)』ですでに読んでいました(2012年8月3日記事参照)。

 この人の作風は、H・G・ウェルズやR・マシスンのような今から見るとやや滑稽な想像力に溢れた初期科学小説のスタイルで、可愛らしくも感じられます。大衆小説らしく登場人物が典型的な性格を帯びているのと、読者を飽きさせないユーモアがちりばめられているところも特徴でしょうか。

 おおよその話の筋は次のとおり(ネタバレ注意)。フランスのある地方に住む若い医者Ponsのところに友人で弁護士見習中のFléchambeauが遊びに来る。彼は相思相愛になった裁判所長の娘Olgaの家へ結婚を申込みに行くが断られる。背が高すぎるということらしい。そこでPonsは身体を縮める薬を開発する。それで目標の背まで縮みめでたく婚約が成立したが、夜の宴席のデザートあたりでまだ背が縮みつづけているのが分かって、PonsとFléchambeauは逃げ出す。Fléchambeauはどんどんと縮んで、PonsとOlgaが見守るなか、子どもの大きさから、操り人形、鼠、そして顕微鏡でしか見ることができなくなって、最後には見えなくなってしまう。(ここまでが第一部)

 失意のあまり旅に出て帰ってきたPonsは、老衰で瀕死の老人となったFléchambeauを発見する。手記を読めという。(以下手記)気がつくとベッドに寝かされていて、老人の医学校長Agathosから、縮むのを留める処置をしたと聞かされる。そこはミクロの世界だった。人間とほぼ同じ格好をした生き物がいて、頭に房がありその房を通じて第六感の働きで意思疎通をしている。Fléchambeauは彼らと脳で考えていることを直接伝える装置を通じて話しあう。そのうち、かつて茸と死闘を繰り広げたというこの国の歴史を知る。その茸はサンプルをひとつだけ博物館長が保持しているらしい。Fléchambeauは外部世界の人間であることを隠すため頭に偽装の房をつけてもらうが、博物館長に正体を見破られる。AgathosはFléchambeauを逃がそうと元の大きさに戻る薬の開発に取りかかり、その完成に60年を費やす。ようやく薬ができた時Fléchambeauはすでに老人でミクロの世界にも愛着が出てきたので戻る気がしない。そんなある日、博物館長がFléchambeauの頭を解剖しようと襲い、博物館長がポケットに入れていた茸のサンプルが落ちたことで茸が爆発的に増殖し、ミクロの世界にも終焉の時が来る。Fléchambeauは身体を大きくする薬を飲んでミクロの世界を脱出する(ここまでが第二部)。

 Ponsは何カ月かしか旅に出てなかったのに、ミクロの世界では時間の進むのが早かった。すっかり老人になったFléchambeauは誰にも見分けられず、婚約者がまだ若い姿で道を歩いているのを見て、自分は姿を現わさないほうがよいと部屋に籠っていたのだ。Ponsがノートを閉じたとき、Fléchambeauはそんなに風を起こしたらミクロ世界が吹き飛んでしまうじゃないかと注意した。Ponsが「我々も神の一吹きで吹き飛んでしまう存在かもしれない」と呟いた途端、本当に風が巻き起こりFléchambeauや家や村もすべてが吹き飛ばされてしまう。(以上エピローグ)。

 ストーリーの細かい部分にいろんな紆余曲折があり面白いので、こうやって省略してしまうとその魅力が激減してしまうのが、なんとなく罪作りなような気がしてしまいます。例えば、体が縮む薬もはじめは猫で実験し、うまく行ったと報告していると、Fléchambeauがやおらその薬を飲んでしまうといういきさつや、身体が縮んでいく過程で眼鏡が掛けられなくなったり、入れ歯が合わなくなったり、ダニと戦かったりなどの細かいエピソード、登場人物もOlgaの妹や恋敵Bargoulin、ミクロの住人KalosやKala嬢などいろいろと出てきましたが、割愛せざるを得ませんでした。


 第一部は現実世界のできごとで、縮んでいく過程が克明に描写され、物語の動的な展開にわくわくしました。一転して第二部のミクロの別世界の話になると初期SFの偽物臭さが充満してきました。住人は人間とほとんど同じ形ですが違うところは、指が12本あること、鼻が大きくその嗅覚で世界を認識していること、帽子を取って挨拶する代りに靴を空に投げて挨拶すること。また外周が車輪になっていて中の座席部分が水平に保たれる水陸空兼用の球体の乗り物が出てきたり、音楽を匂いで奏でるオーケストラがあったり、住人たちは男性女性中性の3人一組でダンスをし、結婚も3人一組であることなど。

 この手の異世界ものは、その世界に入って行く段階ではその世界(この話では微小世界)が奇異に感じられても、次第にその異世界が当たり前になって、結局人間世界と同じ感覚で見てしまうようになり(等身大の世界の感覚)、面白くなくなってしまうのが欠陥だと思います。つねに新鮮な刺激が必要なのです。著者自身も微小世界であることを忘れてしまって、途中で「何メートルもの」という表現をしてしまっているのがおかしい(p179)。

 滑稽小説の趣きもあり。「背の高いFléchambeauは髪の毛が赤く、帽子を被ると蝋燭の火を消したようになる」(p8)といった比喩、「猫がもう少しで兎料理になるところをPonsの家に逃げて来た」(p10)と言ってみたり、房の矯正具を発見した博物館長が頭に偽の房をつけている主人公を見る目つきを「靴屋が足のない人を見るかのように」(p124)と描写するなど、ところどころ面白い表現が目につきました。

 鮮烈な印象を残す場面もいくつかありました。このミクロ世界では黄色と紫色の二つの太陽が入れ替わるだけで夜がないので、人工的に灯台から闇を放出して夜を作っていますが、この暗闇を放射する灯台というイメージが凄い(p129)。また、主人公が身体を元通りの大きさにする錠剤を飲んで微小世界から脱出する際、ずっと世話をしてくれた医学校長Agathosも一緒に薬を飲みますが、Agathosの身体は大きくなるにつれて薄くなり透明になって消えて行き、別れの挨拶をする手だけがうっすらと影になって見えたという場面。この部分がこの物語のピークではないでしょうか(p186)。


 ミクロの世界が時間の流れが速くて、地球上の何カ月の間に60歳以上齢を取ってしまったというのは、ケルト神話をはじめ世界のいたるところにある浦島太郎に似た話です。老人になった主人公は誰からも見分けられず、またかつての恋人が若い姿のまま村を歩いているのを見ます。浦島物語など普通は何百年も経ってしまいますが、ここでは60年なので、悲劇がより生々しく感じられます。

 著者のいくつかの考え方に共鳴しました。「この国の人たちが怪物のような印象を与えるのは、彼らが我々と違っているからじゃなくて、我々と似ているからだ」(p143)という言葉。怪物が怖いのは、われわれに身近で親しい部分が変形しているというところにあるのでしょう。

 ミクロの世界を語りながら「地球もひょっとしたら巨大な生物の血管のなかの微小な存在に過ぎず、その中で『何世紀も』だとか、『宇宙の無限』だとか言っているだけなのかもしれない」(p132)という世界を相対的に見る考え方をちらっと披露しますが、これは結末の神の一吹きにつながる文章です。