:Marcel Brion『Algues―Fragments d’un journal intime』(マルセル・ブリヨン『海藻―ある日記の断片』)


                                   
Marcel Brion『Algues―Fragments d’un journal intime』(ALBIN MICHEL 1976年)

                                   
 久しぶりにブリヨンを読んでみました。ブリヨンのフランス書を読むのはこれで10冊目になるでしょうか。この本は面白いと聞いていましたが、少し部厚めなので敬遠しておりました。

 読みましたと言っても、やはり細かい部分で分からないところが頻出し、そいういうところは飛ばし読みしたので、えらそうなことは言えません。前回読んだデュマと違って文章が長く、込み入っていたのが原因です。

 辞書を引かずに音読したとき、はじめは意味が取りやすいのに、読み進むにつれて何が書いてあるかごじゃごじゃになってきます。これは、一つは、緊張感が持続せず集中力が途切れてくることにあると思いますが、もう一つは、はじめは文脈を形づくる背景の舞台が分かっているので、少々意味不明の文章に出会ってもおよその意味は推察できているのが、分からない文章が次から次へと出てくるうちに背景の舞台が徐々に崩壊していって、推し量ることが難しくなってくるからでしょう。2回目に辞書を引きながら読むときは、一つの単語の意味が分かっただけで、次々に他の文章が目からうろこのように分かって来て、全体の情景がくっきりと浮かんでくるようになります。これが外国語の本を読むときの愉しみですし、文章理解にとっていかに背景となる地が重要かということです。


 この物語は、他のブリヨンの小説と同様、小説の醍醐味であるドラマティックな筋立てやハラハラするような謀略や策略はなく、主人公の目から見た物事の経過が散文詩のように淡々と描かれています。舞台は海に築かれたヴェニスを思わせる運河と迷路の町、雪が降ることや登場人物の名前などからは北欧の町のようでもあります。旅で訪れた主人公が、ホテルの用箋に日記の形でこの物語を綴るという設定です。町の海藻マニアOlovsenという男の娘との冒険を軸に、いろんなエピソードを絡ませながら、全体としては徐々にこの町が海に侵蝕されて沈没していく様子を描いています。そういうところは一種のSF作品のようにも感じられます。

 ブリヨンについてはこれまで何度も書いていることですが、どのページを開いても同じような色合いの文章に出会うところが、後期ロマン派のとくにブルックナーの長大な音楽を聴いているかのような印象があります。劇場、縁日、古代の神話、庭園、城館、音楽などなど。その中にどっぷりとつかるのがブリヨンを読む愉しみです。停滞した感じで話が進展していかないところがあります。直截に書けば一行で終えるところを、そう書かずに、延々と2,3ページ費やして、いろんな表現法を駆使してまわりから表現していく、そこに文学的な味わいが生れるのです。主人公も日記を書きながら何度も言い訳していますが、時間の進行どおりではなく思い出したことをその都度書くという形で、気がつくとさっき終った話の前にまた戻っていたりします。これが話が澱む感覚のひとつの原因になっています。

 Algue(藻)というのが海藻マニアOlovsenの娘の名前ですが、聖ヨハネ祭の日に二人で仮装して出かけたときから、二人の冒険が始まります。熊のぬいぐるみと森の精たちに彼女が攫われ、主人公は彼女の足跡を、廃屋となった居酒屋、劇場、サーカス小屋、湖畔のレストランと追いかけて行きます。劇場ではステージで歌っている彼女の姿を見つけ彼女も手を振って合図をしますが、楽屋へ行ってみるとすでに消えていたり、サーカス小屋ではハデスに攫われるペルセフォネ役で登場しますが「天使で待ってるわ」と言い残したままハデスに攫われてまた消えてしまいます。ようやくその「天使」という湖畔のレストランで、向う岸から小舟に乗って迎えに来た彼女と合流できたのでした。

 次々出てくる挿話が物語の魅力を作っています。「天国」という縁日の水族館でグラスハーモニカの音楽に合わせて踊る人魚、サンニル教会での狂人の祈り、毎週日曜日の正午に教会の塔をよじ登る男、幼い頃動物園で大蜥蜴に魅せられた女の子のエピソードなど。一つずつ詳しく紹介していると書き終われなくなってしまいます。

 物語の終盤では、馬の様子に異変が現われた後馬たちが群れをなして逃げ出すという事件が起こり、次に犬が去り、おびただしい鼠が土手を伝って陸地へ逃げて行きます。海面が徐々に上昇し出すと、はじめ人々は一時的な現象だ、いや違うと議論するだけでしたが、そのうち逃げ始めついに役所も引越してしまいます。Olovsen家の地下の水槽に保管されていた海藻も食肉藻と蟹に食い荒らされてしまい、ついに海面は建物の2階3階にまで達してきました。最後に主人公はAlgueと小舟に乗って、建物の塔や鐘楼が岩礁のように浮かんでいる海をさまよいますが、Algueは女神像と一緒に海中に沈み、そのあたりの海底から歌声だけが響いてくるという場面で終ります。


 物語の冒頭でAlgueの歌声を聴いて主人公が十字架の聖ヨハネの詞を思い出したり(p32)、サンニル教会での狂人の祈りが神秘体験に通じていたり(p104)、主人公の若い頃の友人が死んだ愛馬の絵を描きながら馬の魂と交流し恍惚となる(p119)など、神秘主義が一つのテーマになっているようです。

 ところどころに、ハッとする散文詩のようなイメージがあります。例えば、Algueがサーカス劇の途中でハデス役に攫われる場面で、馬車に乗せられのけぞった彼女の手が置かれた青銅の箱に、まさしくその略奪の場面が描かれているところ。これは、劇中劇中劇ともいうべき入れ子状の構造が織りなされていて美しい(p227)。また、沈没している中国ジャンク船の船倉に潜って、鉄の箱に入っていた茶箱を持って帰ると、漆塗りの木箱には月を愛でる詩人の姿が描かれており、まだニッキと生姜の香りがしていたというところの繊細で不思議な感覚(p266)。台座に騎馬の彫り物のある彫像がある夜大浪に倒され、何日か後に台座だけ無傷で発見されたが騎馬の姿は消えていた、馬が危険を察知して逃げたらしいという話(p277)など。

 グラスハーモニカが出てきました。ブリヨンはよほどこの楽器が好きなようで『LES ESCALES DE LA HAUTE NUIT(深夜の彷徨)』には「L’ORGUE DE VERRE(グラスハーモニカ)」という短篇もありました。またこの本には、ブリヨンの過去の作品『la Folie Céladon(青磁狂)』の舞台となった「青磁狂」の建物が湖畔のレストランとして出てきましたが、これはブリヨンの一種の遊びでしょうか。(2008年11月29日記事、2010年11月27日記事参照)