:Marcel Béalu『Mémoires de l’ombre』(マルセル・ベアリュ『影の回想』)


Marcel Béalu『Mémoires de l’ombre』(Phébus 1986年)
                                   
 一昨年パリのモンジュ広場の古本市で、30ユーロの本をいったんレジに持って行って、価格交渉の末、帰るふりをして27ユーロに負けてもらった本。

 ひとことで言って、この作品はベアリュの最高作ではないでしょうか。

 「PLUSIEURS ENFANCES(多様な子ども時代)」、「ELLES ET ELLE(彼女らと彼女)」、「THÉÂTRE SOUTERRAIN(地下劇場)」、「LE DORMEUR DEBOUT(立ったまま眠っている人)」の4つの章に分れていて、それぞれ序文を含めきっちり30篇ずつ全部で120篇が収められています。初めの2章はそれぞれ子ども時代の話、女性の登場する話でまとめられていますが、最後の2章は、章の特徴がはっきりとしているわけでないので、30篇に数合わせするために、無理やり二つに分けたものと思われます。

 冒頭で編集者が、出版時までの作品史を書いています。最初に『影の回想』の22篇が世に出たのが1941年、42年に10篇が出た後、44年にジャン・ポーランにより74篇にまとめられ、59年にようやく完全版(手違いで1篇が脱落し119篇)が出て、その後72年にマラブ社の幻想小説シリーズに収められたが半年で絶版になったということです。

 ベアリュの作品系列で言えば、『死者の日記』『奇想遍歴』『半睡の物語』と同じ範疇の作品で、この作品はその中でも最初の作品になります。著者の散文作品としても処女作のようです。

 散文詩でもあり、ショートショートとも言える不思議な味わいがあります。一人称で文章が綴られていて、見たこと経験したことが、モノローグ的な内面の思いとともに語られています。夢の中のような特殊な状況のなかで、苦境に陥るパターンが多く、また不思議と苦境に陥っても、どことなくユーモアが漂っているのが味になっています。最後に落ちがついているのもあります。

 いろんな苦境が描かれていますが、栄光をめざしているなか恥辱にまみれるというのが、いちばんベアリュらしいテーマ。一生懸命努力して報われないとか、衆人環境のなかで大恥をかくといったものは、原因が自分の勘違いや間違いにあるという意味で、マゾヒスティックな自己卑下の精神が見られるように思います。ほかに動物に襲われたり、超自然現象に遭遇するといった悪夢にありそうなシチュエーションもありました。

 ベアリュが開いていた古本屋の店名「Le Pont traversé(渡られた橋)」は、この本の最後の短編「Le Pont(橋)」の冒頭の一文がもとになっているようです。「Il y avait un pont à traverser.(渡らないといけない橋があった。)」(p248)というのがそれです。


 120篇の中で印象深かった短篇は下記のとおりです。簡略化しすぎて味も吹き飛んでしまいましたが、本文はもっと魅力的なものです(ネタバレ注意)。

PLUSIEURS ENFANCES(多様な子ども時代)より。
◎La chambre aérostat(空飛ぶ部屋)→部屋に居て気がつくと部屋が気球のように空高く上がっていたという、何とも奇妙な味わいの一篇。

○L’autobus sans retour(片道バス)→暴走バスに見知らぬ街角で降ろされ、終電もなくなった夜の小路をさ迷い、もう夜から抜け出せないのではと歎じる。

○Une lettre importante(大事な手紙)→手紙を書こうとして諸事に紛れなかなか書けないうちに相手はとっくに死んでいるだろう。カフカ風の人生の寓意が潜んでいる一篇。

○Le portrait(肖像画)→いつも覗き見するショーウィンドウのなかの肖像画が知らぬ間に自分の顔になっていた。

○Amour du métier(職業への愛)→女性の髪の毛に熱中した理髪師が火事で丸禿げになってしまう。

○La rage(怒り)→紙を折るだけの芸なら自分もできるとしゃしゃり出たが、全然できずに笑いものになるという悪夢にありそうな感じの一篇。

○Les statuettes(小像)→脳髄を捏ね血で色をつけた文字どおり身を削った小像なのに、皆は粗末に扱うのだ。

○La place(席)→劇場に早く着き過ぎたので、誰もいない舞台で軽業をしているうちに満席となっていた。

○Une bonne farce(よくできた喜劇)→商売人の世界が嫌で貴族と結婚したつもりが、実は肉屋の女中だった。栄光と恥辱にまみれた一篇。

○La gloire facile(すぐ得られる栄光)→主役を張るんだと勢い込んだ割に熊の役で才能を評価されるという肩すかし。

◎Grand Œuvre(傑作)→蜘蛛の巣だらけの古い家で刺繍する母娘という設定が不気味。母娘は蜘蛛の化身か。

○Les deux voix(二つの声)→左耳に「夢見てるんだから」と聞こえた声に従って追われる身となったら、今度は右耳に「これは夢じゃない」という声が。

○La petite fille de cire(蠟の少女)→目の前で溶けていく少女のイメージが鮮烈。


ELLES ET ELLE(彼女らと彼女)より。
○L’inconnue du métro(地下鉄で知り合った女)→美女と約束したのにデートに現われたのは似ても似つかぬ女だった。美女の皮を被っていたという奇想天外な話。

○Refaire sa vie(人生のやり直し)→独りになって旅行に行こうと、家財を処分し最後に犬を泣く泣く殺した途端、新しい伴侶が現われ旅行を中止。まるで犬死だ。

○Mariage(結婚)→結婚式の途中で自分が結婚していたことに気づく。式後帰ると新居はすでに野次馬に取り巻かれていた。

○L’empreinte(足跡)→雪のなか目の前で女性が入水する。夢と思おうとしたが、雪の中には足跡がくっきりと残っていた。

○Toujours et jamais(いつもそして永遠に)→ベッドの老女を振りほどいて外に出て、少女に唇を寄せると人形だった。慌てて戻ると老女は消えていた。謎めいた一篇。

○Bibliogynie(本を女性のように愛する男)→書物への愛をまるで本が生身の女性であるかのように語る。

○Le cygne(白鳥)→妻は白鳥にどこか似ていると思っていたが、やはり最後は白鳥になって飛んで行った。


THÉÃTRE SOUTERRAIN(地下劇場)より。
○Les trois bouches(三つの口)→3つの口を持つのでばらばらに発言する男。厄介なことに他人からは口は一つにしか見えない。

○Entre deux clins d’œil(瞬きの間)→ショーウィンドウを挟んで不動のマネキンと動き回る観光客。一瞬動と静が逆転する幻影を見る。朔太郎「猫町」のような一篇。

◎Le bocal(広口瓶)→瓶の中の小魚が鍵に変じ、その鍵で彼女の部屋に侵入し交合するが、瓶の中の小魚に変じつつある自分に気づく。集中最高作。

○Le chien(犬)→女性が犬になる前の自分への愛を告白しているのを聞いて、自分だワンワンと騒ぐが「汚い犬をあっちへやって」と言われてしまう。

◎L’étranger(見知らぬ人)→うっかり名前を忘れたまま、いちばんの友人となってしまい、本人にはいまさら聞けない。ところが誰に聞いてもその男の名前を知らないのだった。

○Le jardin(庭)→恋人同士のためと庭を貸してあげたら、他の通行人もどやどやと入ってきて傍若無人に覗き見をしている。鞭を振りまわすとさっと消えた。

○Les vagabonds horribles(恐ろしい旅人)→旅の寂しさを紛らわそうとしたが、出遇う人はことごとく気持ち悪いので逃げた。まともなのは私だけかと思ったら、今度は相手が恐怖を浮かべて逃げていった。

○Voyageur endormi(眠っている旅人)→客車で蛙のお化けがこちらから見えない一画をじっと見つめていた。覗いて見るとそれは眠っている私だった。

○Cinq têtes(五つの頭)→後頭部、次に両横に頭が生えてきて、四方が同時に見えるようになった。そして今度は真上に一つ、空も見えるようになった。


LE DORMEUR DEBOUT(立ったまま眠っている人)
○Les pierres(石)→目の前で子どもがぶたれているのに、怪我をするのはこの私。不条理なグロテスク。

○Les bonnes raisons(正当な事由)→壁に耳を当て隣の部屋の謀議を聞く。親友、翌日は兄、次は愛人の名前が。いまさら壁を叩いて警告もできまい。最後に私の名前が読み上げられた。

○Hôtel du silence(沈黙のホテル)→ホテルで部屋を探して歩き回るうちに、ある部屋から女性に声をかけられるが無視して通り過ぎた後、彼女だったことに気づくがすでに遅く、ホテルの迷路をさまようのだった。

○La calèche(馬車)→馬車に乗せられるままに行きついたところは静けさが支配した穏やかな世界だった。古き良き時代のかそけさを愛でる一篇。

◎Regret des oiseaux(鳥たちの悔恨)→私の塔は海にもぐった燈台。螺旋状に降りていき、どんな時間もとどかない海底で少女と抱きあう、遠くの鳥の羽ばたきが聞こえないように。美しすぎる散文詩

○Le bal(舞踏会)→定時に仮面を外す決まりの舞踏会で娘だと思っていた相手は老女、まわりも老人ばかり。啞然としていると「彼だけ仮面をしている」と非難轟々に。

◎Le tambour du soir(夕暮の太鼓)→気になって後をつけたりした謎の太鼓叩きがついに自分の部屋にやって来た。振り返らずに背後の音に聞き耳を立てるシーンは出色。

○Profils(横顔)→首が捻じれて横顔しか見せない人々の町。ウィンドウにじっと耳を傾けているように見えて、実は耳の中に瞳があったのだ。

○Faux témoin(変な証言)→交差点で2台の車がぶつかった時見た。天使の像がにんまりと笑ったのを。

◎Le conseil de la nuit(夜の相談)→深夜気がつくと隣室で父や母たち10人ほどが私の運命を相談していた。この世に居ない昔の人たちばかりで「また明日話してあげるよ」とほほ笑んだ。

◎Le pont(橋)→橋には歩哨が立っていた。「どこから来た」「何をしに行く」と訊問されると怯えていたら石像だった。何だ間違いか、だがもっと大きな間違いは向こう岸に幽霊が迎えに来ていたことだ。


ちと多すぎましたか。