:南條竹則『人生はうしろ向きに』

南條竹則『人生はうしろ向きに』(集英社新書 2011年)
                                   
 今度新しくラムの『エリア随筆』を完訳した南條竹則の書いた本。ラムのことにも少し触れているようなので、ラムつながりで読んでみました。

 南條竹則は『酒仙』のデビュー時に面白そうなので飛びついて読みましたが、ジュニア小説のようなタッチに失望。その後『虚空の花』その他怪奇小説の翻訳や、アーネスト・ダウスンについての評伝を読みましたが、文章は平明でも少し軽きにすぎて・・・悪口を書くのはよしましょう。

 この本は、「良い方に変わることはない (未来は良くはならない)」という友人の発した言葉を導入部として、①人間の欲望は常に先へ先へ行こうとするものなので、欲望には決して追いつけないこと、②それゆえに未来に希望をかけて生きるのは愚かであること、③過去に向いた方が幸せに生きることができる、という主張のもとに、過去を美しく良いものとみる古代の歴史観の紹介や、過去に向いた生き方をした偉人たちを紹介しています。

 一種の哲学本だと言えます。それは「人間には過去しかない」とか、「人間の真の所有物とは何か」とか、「昨日は失われていない」というような言葉にもうかがわれます。

 最近回顧談的な本ばかり読んでいる私としては、共感するところが大いにありました。著者の主張が新鮮に感じられるのは、あまりにも世の中が進歩の価値観に浸りすぎているからでしょうか。会社生活に長く身を置いた私としては、前向きな感性が身に沁みこんでいて、ジレンマに苛まれるような気もしますが、ここで言う「うしろ向き」はくよくよして生きるというような、今よく言われる「前向き」の反対語ではなく、肯定的積極的な生き方というニュアンスがあると思います。もし実際にくよくよした「うしろ向き」の人ばかりなら、住みにくい嫌な社会になることでしょう。

 『ラム傳』で、福原麟太郎がさらりと流していた「ブレイクスムーアの館」を高く評価しているのは同感で嬉しく思いました。


 印象に残った文章を引用しておきます。

「過去」は記憶という形で「現在」の一部分と化している。というより、「現在」の大部分が「過去」の化したものであるといってよい。/p51

状況のいかんによって奪い去られるようなもの―そうしたものを頼りにしてはいけない。先のことはわからないから、とりあえず最悪の状況が自分を待ちかまえていると考えた方が良い。それでも、決して自分から奪い去られることがないもの―それだけが、自分の真の所有物である。人間は、その真の所有物だけに心を配った方が良い。/p67

「昨日」の思い出はあるけれども、「昨日」それ自体は失われてしまった―この意識が、思い出を悲しくする。/p83

どこか遠い山の奥で木が倒れたとする。その音を誰も聞いていない。誰も聞いていないのなら、音はしなかったと考えるのが観念論。いや、それでも音はしたと考えるのが実在論だ。・・・実在論が便利なのは、元気に生きている時だけだ。病床について死が迫り、目も見えず、耳も聞こえず、外の世界との連絡が絶たれてしまったならば、その時、わたしたちにとって、いわゆる「客観的事実」は誰も聞いていない音と同じである。心の中にあるものだけが現実なのだ。/p86

打算も欲望もなく、損得勘定もなしにものを見る―それはすなわち、人間が「美」に向かう時の態度である。人間にとって「過去」が美しい一番の理由は、そこにある。/p137

自分が消滅することを考えても、不安はない。生れる前は存在しなかったことを考えても、何の不安も感じないのと同じように(ヒューム)/p171