:チャールズ・ラム『エリア随筆抄』

                                  
チャールズ・ラム山内義雄訳『エリア随筆抄』(角川文庫 1969年)
                                   
 このところハズリットの随筆でラムのことが書かれていたのや、庄野潤三のラムを中心とした紀行文など、ラム周辺の本ばかり読んでいて、肝心の著書には手も触れてなかったので、勇を鼓して読んでみました。

 と言っても、この本は「エリア随筆」中16篇を選んで抄訳したもので、全体は52篇あると言いますから、三分の一に過ぎません。

 その範囲での感想ですが、まず書き方のうまさに感心しました。導入部はちょっと気を引くような話題を提供して、いきなり意表を突くような自分の意見を開陳したり、時には脱線をしながら徐々に話を展開し、しかし結論はこうだと言い切ることもなく静かに筆を置くといった感じです。

 文章の特徴も、親しく読者に呼びかけるようなところがあったり、感極まって詠嘆口調が入り混じったり、詩の引用がときたまあったりします。比喩にも古今の薀蓄がちりばめられていて、ミルトンやシェイクスピアギリシア神話旧約聖書、サー・トーマス・ブラウンなど、古典作品の引用がいたるところに溢れていて、含蓄のある文章となっています。

 話の内容と言えば、幼い頃の思い出、会社勤めの思い出、昔見た芝居の話、親類の話など、自分の体験を語るのがベースになっていて、そのなかで人々の生態や社会の一断面を描くといったものです。

 全体を貫いているのは、やはりラムの人柄とも言えるもので、本音を語り、偉そうな口ぶりを避けるもの言いの中に、気の優しい素直な心情が溢れていて、好感が持てます。

 なかでも印象的だったのは、幼い頃伯母が勤めていた貴族の館に遊びに行った時の思い出を語り貴族は決して血筋で作られるものではないと思い当る「ハーシァのブレイクスムア」、ついで除夜の鐘に耳を傾けながらこの世の儚さを語る「除夜」、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』でも感銘を受けた「現代の女性尊重」、食前の祈りはどういう場合がふさわしいかを論じる「食前感謝の祈り」、終わり方がなんとも哀切な「幻の子供たち」、アダム・スミスマルサスが嫌いだと正直に告白する「書物と読書についての断想」、古陶器の中の風景への思い入れを語りながら貧しかったころの幸せに思いを馳せる「古陶器」。

 「恩給とり」では、自らの会社勤めを省み、定年後の生活について、「毎日が休日なのだから、休日は一日もないようなものである(p151)」とか「何曜日であるか・・・私は知らない。以前は・・・私なりの水曜日の感じ、土曜日の夜の感覚があった(p156)」とか書いているのは身につまされます。

 ところで、訳者の山内義雄ですが、私はてっきりあのフランス文学者の山内義雄が余技で訳しているものと思っていました。調べてみると、まったく別の英文学者だということが分かりました。これもこのところの、新倉俊一、斎藤勇、吉田正俊に続く同姓同名ファイルに入れるべきものだったわけです。
                                   
 少し文章の味を感じてもらうにはやはり引用しないといけません。

太陽、空、微風、独り歩き、夏の休暇、野の緑、肉や魚の美味、人の集り、愉しい酒盃、燭の光、炉辺の閑談、無邪気な自慢、冗談、それに皮肉―こうしたものは、生命と共に消え去ってしまうのであろうか。あの世で幽霊と冗談を言いあうとき、幽霊は、笑ったり、その痩せた横腹をゆすぶったりすることができるのであろうか。/p24

「除夜」より

ハート・・・キューピッドの神の本陣たり首都たるところを、よりによって人体のこの場所においたのは、歴史の上で、また神話の上で、どんな根拠があるのかは明らかでない。けれど、そういうことになっていて、また、それでけっこうまにあっているのである。/p32

「ヴァレンタインの祭日」より

食前の祝福の形式は、貧しい人の食卓か、さもなければ、簡素でさして食欲をそそらない子供たちの食事の場合に、その美しさがある。・・・烈しい食欲にかられながら、宗教的感情を挟むことは見当違いのように思われる。涎の流れている口で神の讃辞をつぶやくことは、目的の混乱である。美食主義の熱気は、敬神の静かな焔を吹き消す。/p68

「食前感謝の祈り」より

美しいご婦人、りっぱな殿方が、歯をお見せになることは、骨をお見せになることである。/p91

「煙突掃除人の讃」より

昼間の勤めのほかに、私は、一晩夢の中で、また勤めをくり返し、帳簿への誤記とか、計算違いとか、その類のありもせぬことの恐怖のために、よく目をさました。/p148

自由の身となったはじめに私を悩まし、且又その痕跡のまだ全く消え去らない妄想の数ある中に、その一つは、私が会社を去ってから長い年月の隔たりがあるような気のすることであった。私には、それが昨日の出来事とは思えなかった。長年の間、そして、その年々の日々の長時間、あれほど親しく交わった重役連や事務員たちは―突然その連中に別れたために、私には、あの世の人たちに思われるのだ。/p153

以上「恩給とり」より