:庄野潤三『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』

                                   
庄野潤三『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』(文藝春秋 1984年)
                                   
 庄野潤三は初めて読みましたが、長文で係り結びの分かりにくいかなりの悪文。英語に親しんでいる人なので、英文の構造の影響かもしれません。そういう意味では吉田健一の悪文と若干通じるところがあるような気がします。でも悪文で読みにくくても、そんなに嫌な感じはしないのが不思議なところ。

 タイトルの「陽気なクラウン・オフィス・ロウ」はチャールズ・ラムの『エリア随筆』の「法学院の老判士」の中の一節(原文はCheerful Crown Office Row)で、クラウン・オフィス・ロウというのはロンドンのテンプル(法学院)の中の建物、ここでラムが生れたと言います。

 全体の基調は10日間の妻との英国旅行滞在記。こういった類の本は自分が旅行した気分になるから楽しい。とくに今回イギリス旅行から帰ったばかりなので、自分の通った道が出てきたりしてよりいっそう実感が味わえました。

 その滞在日誌の中に、ラムの随筆や生涯の紹介が巧みに織り込まれていて、それが語りの面白さになっています。悪文も相まって、一瞬、ラムの話か、滞在時の話か分からなくなってしまうことにもなりますが、それも一種の快感です。ということは、悪文もまた味わいのひとつで、あまり文章に細かくこだわりすぎるのもよくないということなんでしょう。語りたいことがたくさんあるとか、感性、人柄の方が、文章が効率よく完成されているかよりも大切なわけです。

 人柄という面で言えば、小沼丹を読んだ時にも感じたような穏やかな気配にみちています。それは庄野潤三自身の性格でもあるでしょうが、ラムの性格でもあるようです。この本の中にはいろんなエピソードが紹介されていますが、『エリア随筆』のなかの「女性への慇懃」に登場するジョウゼフ・ペイスのほろりとさせられる話(p173)や、庄野潤三をクラウン・オフィス・ロウの中に案内してくれたサー・ジョン・キャムプトン・ミラーのほのぼのとした挿話(p224)など、とても味わいがあります。(その味わいをここで要約するのは私の手に余りますので、詳細は読んでみてください)

 また、ラムがコールリッジやシェリー、ハズリットなど、友人たちを大切にしていたことが何度も出てきますが、この本はそうした人と人との交流が軸になっています。著者が旅先のレストランでの給仕の女の子とのやり取りを克明に報告しているのも、人との交流を大切にしているからでしょう。そういう意味でこの本は友愛の書と言えるでしょうか。

 ラムの人柄を知るうえで、いちばん傑作なのは次の話です。ラムは自分の書いた笑劇「H氏」が上演されることになって大変喜びましたが、初日で大失敗になり一晩だけで打ち切られることになりました。その初日に客が怒って騒いだ時、客席にいたラムも一緒になって声を立てたそうです。あとでどうしてあんな真似をしたんだと友達に言われて答えた言葉が「だって黙っていたら僕が作者だと分かってしまうもの」(p106)。

 『エリア随筆』のエリアという名前も、ラムが勤めていた南海会社のイタリア人の同僚の名前を無断で借用したようです。そして次のように書いています。「その男にもう一年も会わないので、先日、会いに行った。無断で名前を借りたことを話して一緒に笑おうというつもりでいたところ、悲しいかな彼は名前だけになっていた。11か月前に肺病で死んでいた」 (p329)。

 ラムがトランプゲームのホイスト好きだったことが分かって楽しい。しかも相当真剣だったようで、バットル夫人に仮託して次のように書いています。「カルタをやる以上は遊び半分の、勝負はどっちになっても別に構わないというような人間は我慢がならない、そんな連中と卓を囲むのはまっぴら御免」(p198)。

 ファリンドン・ロウドの青空古本市の話が出てきましたが(p97)、旅行の前にこれを読んでいたら見に行けたのにと悔やまれます。(といっても昭和4年の話なので今もやっている可能性は薄いと思いますが)。

 ほかにシェリーがラムを褒めた時に自戒として言った次の言葉には印象深いものがありました。「こんな霊妙な完全無欠な作品が世に認められないでいることを考えると、僕は自分に希望を失ってしまう。名声以上に高いところにあるものを目指していなければだめだ」(p123)。