:英国古代叙事詩二篇

///
中村徳三郎訳『オシァン―ケルト民族の古歌』(岩波文庫 1982年)
厨川文夫譯『ベーオウルフ』(岩波文庫 1952年)


 英国の心の淵源を探ろうと読んでみました。『オシァン』はこの本の解説によれば、スコットランドの高地地方に住むケルト民族に語り継がれてきたゲール語の古歌ということですし、『ベーオウルフ』は古英語で8世紀頃に書かれたゲルマン民族の古歌ということのようです。しかし『オシァン』には諸説があって、ウィキペディアではアイルランド伝説が本元だとしています。

 『オシァン』はスコットランド北部のモールヴェン地方が舞台で、北欧からの敵の来襲との戦いが描かれています。『ベーオウルフ』はデンマークと南スウェーデンが舞台ですが、これは英国の王室や貴族が当時デンマークの王国と密接な関係にあったということのようです。

 二冊の本に共通するのは、英雄が讃美される戦いの詩であり、したがって剣や盾などの武具が頻出し、戦さにまつわる酒宴の場面が多いことです。どうやら戦いというものが人間の本質に関係しているようです。現代では戦争は忌避され、その代償としてスポーツやゲームの世界での戦いが繰り広げられていますが、戦い自体から目を背けようとする態度は非人間的なものなのでしょう。

 二冊の本の相違点は、『オシァン』が何世代かにわたる幾つもの戦いを事細かに並べ立てているのに対し、『ベーオウルフ』の方が骨太(分量的にも少ない)かつ神話的で、怪物や怪獣退治が話の中心になっていることです。文体も『オシァン』は口語体、『ベーオウルフ』は文語体の美文調で、読んでいる時の印象がまるで違ってました。


 『オシァン』では、一貫して戦士の潔さ、勇敢さ、モラルが讃えられています。戦士にとっては勇敢というのが唯一の価値で、たとえ敗北したとしても勇敢でさえあれば讃えられ、英雄の気高さが讃えられます。日本の武士の美学と共通するところがあるように思われます。逆に、臆病な戦士は蔑まれています。コナンという戦士が出てきましたが、R・E・ハワードの「コナン」と違って、弱々しく口数の多い卑しい戦士として描かれているのが面白い。コナンはゲール語で小さな犬を意味するらしい。戦士とまた別の価値を持つものとして、歌人の存在があることだけつけ加えておきます。

 『オシァン』のもう一つの特徴は、自然や夜の情景描写が美しいところです。夜の情景が多くあり、亡霊が雲の上に現われます。何となく「ハムレット」を思い出させます。また美しい娘はかならず「白い胸」や「白い手」として表現され、墓は「石積み」として表現されています。    
 修辞の面で言えば、疑問形が意味を強調し感情を昂ぶらせるための手段としてたくさん出てくるのが特徴です。

 難点は人名が錯綜して分かりにくいところ。コルマル、コルマクやコナン、コナル(日本語表記では同名になるのが二人いる)など似たような名前が続々と出てきます。家系図のようなのがあると便利。もうひとつ難点として、次から次へと同じような表現が頻出し食傷気味となったのも事実です。


 『ベーオウルフ』は、文語的美文の世界。若干日夏耿之介のゴシックロマン体を思わせます。ウィーイラークという協力者がいるものの、ほとんどベーオウルフ一人が主役の英雄物語。大きく二つの物語に分れていて、ひとつはベーオウルフが宮廷を悩ます食人鬼グレンデルと闘ってその片腕を奪い、さらに沼の底に潜むグレンデルの母親を探しあて刺し殺す話。これと共通する話が各地に残っているようです。

 もうひとつは、ベーオウルフが人民を救い秘宝を得ようとして、火を吐く龍と闘ってこれを殺すが、自分も死んでしまう話。彼の葬儀は火葬で行われていて、当時から火葬があったことが分かりました。

 訳者は厨川白村の長男。


 実際の文章を見た方が分かりやすいと思いますので、いくつか引用してみます。

ときの流れはどこから来るのか ときの流れはいつ涸れるのか 流れの両側は勇士の行動に耀いているが ゆるやかに動く濃霧の中の どこに両端を隠しているのか 過ぎた世を眺めてみると 過ぎた世の事はすべて、谷間を曲がり曲がってゆく流れの上の 病める月影の微光のような 弱い光を浴びて見える/29

大浪が浜辺に砕けるとき 海鳥の大群が飛び立つように ロホラン勢は立上がった その物音は、大滝の水が、夜の闇から 耀く日射しの中に躍り込み、美しいコーナの谷間に 一千の流れが落合う音のようである 秋の暗い山坂の上を 濃い黒い影が通って行くように 不気味に、暗く、密集して、無数に、ロホランの軍勢は堂堂と落着きはらって前進する 山の岩の上の黒い猪のように 武装した剣の王スワランが進み、脇に寄せてもつ盾は、暗く、音もなく、何も見えない中を 怖る怖る行く旅人が 微光を帯びた恐ろしい亡霊を 横目で見るときの 山の岩棚の夜の火のようである/p174

両王は、大空の亡霊が それぞれ別の雲の上に立ち、大海に荒浪を立てるために風をほとばしらせ、鯨の通った跡のある大浪が雲にとどきそうに高まり 亡霊は無言で遠くで光りを帯び風が霧の髪をしずかに吹き上げるのを想わせる/p318

以上『オシァン』より

死の暗き影なる怖ろしき悪鬼、貴人若人の別なくこれを窘迫するを罷めず、或は彷徨い、或は物蔭に潜み、永久の暗闇の中に霧深き沼を守りぬ。斯くの如き悪鬼羅刹、身を反しつつ何処へ亘りゆくかは知る人々もなかりけり。世の人の仇なる怖ろしき孤棲の怪は屢屢かくも数多の梟悪、ゆゆしき害悪をぞなしける。/p15

彼らは秘れたる土地、狼の棲家、風吹く絶壁、恐ろしき沼に棲めり、其処には(一條の)瀧、水が断崖の暗闇の下、土地の下へ注ぎ下れり。かの沼の在る所は此処より哩にて計るも左程遠からず。その上には霜に被われたる樹の茂み、根もて留まれる樹木懸りて水を覆えり。其処には夜な夜な気味悪き不思議、水上に火焔を見るべし。/p59

かくて人々は水を透かして数多の蛇蝮や奇怪なる海蛇の水を廻り動くものや又水魔ども崖の上に横たわれるを見き。/p61

以上『ベーオウルフ』より