:カンタベリー物語に関する二冊

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チョーサー金子健二訳『カンタベリー物語』(角川文庫 1978年)
斎藤勇『カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛』(中公新書 1984年)


 以前読んだファブリオの延長線上にもあり、かつ最近取り組んでいるイギリス本の流れで「カンタベリー物語」とその解説書を読みました。

 「カンタベリー物語」というと、チョーサーとかいう難しそうな文学者の書いた本だし、内容もイギリス国教会の史実にもとづいたシリアスな話かとこれまで思っておりましたが、読んでみると、意外や楽しい、ファブリオの伝統を受けた小話を集めたものだということが分かりました。
                                   
 この金子健二訳『カンタベリー物語』を読み終わってから、斎藤勇『カンタベリ物語』を読みましたが、その巻末解説で「金子訳が角川文庫で抄訳のかたちで出ているが、おまりお薦めできない」(p184)と書いているのを見てがっくりしてしまいました。またあらためて西脇順三郎訳のちくま文庫版を読みなおそうと思っております(四天王寺、勧業館と古本市で探したが見つからず)。

 抄訳だけでの感想ですが、話はほとんどが男女の関係、しかも下ネタをテーマにしたもので、悪知恵を働かして他人の女房を籠絡しようとする若い男、その男と一緒になって悪巧みに応じる女房、騙される愚鈍な夫、彼らが繰り広げる珍騒動が描かれています。それらに共通して出てくるのは、男を平然と見下し意のままに操る女の姿で(とくに「バースの女房」が語る話でいかに男が虐げられているか)、物語の底流には、女性の性質に対するチョーサーの不信の念が見え隠れしていますが、その女性への目線のなかには、居酒屋で男性陣が女房の冷厳さを嘆きつつもちょびりと愛情を吐露するようなニュアンスも感じられます。

 登場人物を紹介する「序の歌」以外に8篇の話が収められています。なかでも「郷士の物語」は他の物語とトーンが違って、貞節を守ろうとする妻と、妻の約束をかなえようとする立派な騎士の夫が登場することや、科学を利用して魔術師が天変地異を起こすといった壮大なストーリー展開、話の途中にはさまれるギリシア・ローマの古典物語からの引用によって、格調高い重厚な物語となっています。


 斎藤勇氏の『カンタベリ物語』は、さすが新書だけあって丁寧な解説と易しい文章で、すらすらと読めました。ひとつのことをいろんな角度から何度も説明してくれているのは理解の乏しい私にとっては嬉しいかぎりです。


 いくつかの指摘を抜粋すると、
①原作は、巡礼の参加者が語る24の話からなっているが、つなぎの話によってそれら小話を連結していく工夫があり、宿屋の亭主が狂言回しのような役割をしていること、
②巡礼の参加者は、当時の社会の各層の人々が網羅されており社会の縮図となっていること、
③チョーサーも自ら登場人物となり、亭主と掛け合う形で物語の進行を援けているが、作者でもない位置で、聴衆に目くばせをする独特の役割を果していること、
④個々の話は大陸のファブリオの影響を受けたもので、旧約聖書『雅歌』の高雅な文体や教会の説教のパターンを用いて滑稽なことを語るバーレスクの精神にみちていること、
⑤真面目な話のあとに肩の凝らない話が配分されるという原則が見られること、
⑥全体を通してのなかで、テーマのひとつとして考えられるのは、結婚生活における夫と妻の主権争い、
といったところでしょうか。


 この本の著者斎藤勇(いさむ)も、最近コメントしている新倉俊一吉田正俊と同様に、斎藤勇(たけし)という同姓同名の著者がいます。今回の場合は、ふたりとも英文学者であることで、さらに混乱に拍車をかけています。


 今回も表現が面白かった文章を引用してみます。

死が命の酒瓶の栓を抜き、命の酒が流れはじめてから、ずいぶん長いこと流れつづけているが、わしのはほとんどからになっているさ。瓶(かめ)のふちからしたたりおちるしずくが、いまのわしさ。(「家扶の物語」)/p51

処女はどこから生れてくるのでしょうか? 種がまかれなければ、処女だって生れてはこないではありませんか?(「バースの女房の話」)/p82

『貧乏人が道を歩くときは、盗人の前でも歌をうたえる』 貧乏はいやですけれど、善ですわ。貧乏はたえしのぶ知恵を教えてくれます。貧乏は財産なのです。(「バースの女房の話」)/p110

以上、抄訳『カンタベリー物語』より

巡礼は現代でいえば週末の団体旅行であり、車中の飲み食い放題の無礼講旅行である。/p23

いつでも冗談から真面目に、真面目から冗談に移行できる人、そういう人が立派な遊戯者である。/p168

ここには神の与えた豊かさがある(ドライデンの『カンタベリ物語』評)/p173

以上、斎藤勇『カンタベリ物語』より