:新倉俊一『フランス中世断章―愛の誕生』


新倉俊一『フランス中世断章―愛の誕生』(岩波書店 1993年)
                                   
 『ヨーロッパ中世人の世界』に引き続いて読んでみました。前著と同様、綿密な考証と大胆なもの言いの共存が著者の魅力だと思いますが、「トリスタン」をめぐる考証など、前著とかなり重複していて新味がそれほどない印象があったのが残念。新しい分野の話は、「狼の話」、「『青ひげ』の素顔」、「王様の耳は馬の耳」の後半の耳に関する話の部分、「中世『町人文学』の成立」でしょうか。

 「狼の話」は、戦争や疫病で死んだ人間を野原に置き去りにしたせいで狼が人間を食べるようになったと述べた後、実際に狼が人間を襲った例をあげながら中世では狼がもっとも不人気な動物だったとし、『狐物語』やトルバドゥールの詩、それに「赤ずきんちゃん」に登場する狼で検証しています。

 『狐物語』は、単なる動物寓話であるイソップ寓話と違って、悪漢を主人公に据えるロマン・ピカレスクのはしりだと位置づけ、「赤ずきんちゃん」ではグリムとペローの語り方の比較をして、話の最後に教訓を垂れるペローが道徳的だと思われているが、実はペローのほうがこの話に潜んでいる男女の関係性、すなわち男としての狼の姿を隠そうとはしていないと指摘しています。狼男や狼狂症についてはまた別の機会に書きたいとありましたが、これが実際に書かれたのかどうか、気になるところ。

 「青ひげ」でも、ペローやグリム、カナダ民話等を、トムソンの民話分類に従って比較検討した後、実在のモデルとされるジル・ド・レに話が及びますが、最後に述べている「開かずの間が娘にとっては処女喪失、人妻にとっては姦通という性の禁忌を意味している」というのは、あまり新味のない結論でした。

 「中世『町人文学』の成立」では、J・ベディエのファブリオについての論文を取り上げ、コントの起源をインド説話に求めるオリエント理論を打破しようとし、さらにファブリオを町人文学と規定しようとしていると紹介しながら、著者はこの後者の町人文学論を否定する自論を展開しています。

 ベディエ論文前半のコントの起源に関する考証には興味をそそられました。①オリエントと接触をもつ以前に西方にコントが存在していたか、②オリエントの説話集が西方の口誦伝承にどんな影響を与えているか、③西方の話がインドのものより改悪されているか、の三つの点から考えていて、結論としては、「文書の形で伝わる歴史伝承とか、特定の社会的・精神的条件で限定できる聖徒伝説や怪奇譚伝承については、その起源と推移の過程を知ることはできても、おびただしくヴァリアントのある民話の大部分については不可能である(p255)」というものです。

 ベディエの町人文学論に対する著者の反論は、ファブリオが誰に語りかけているか、どんな場所で語られたか、どんな物語と一緒に語られていたかなどを、ファブリオの文章の中から推測し、日本で狂言が能と一緒に演じられるように、貴族の館で貴族を対象に、他の宮廷文学と一緒に披露された形跡があり、決して町人だけを対象にしたものではないと結論づけています。


 『ヨーロッパ中世人の世界』を読んでいた時も感じていたことですが、ベディエに対して何か恨みでもあるのかベディエ版『トリスタン・イズー物語』に対しても徹底的にけなしている印象があります。大学者に盾つきたいという心性なのでしょうか。あるいは党派性に絡められた頑固な人で、いったん思い込んだらそれしか見えず、次から次から欠点だけ見えてしまうというタイプなのでしょうか。

 今回は新たにワーグナーに対してもぼろかす。ワーグナーの書いた台本『トリスタンとイゾルデ』のメロドラマ的な構図を貶した後、「以上のようなことにもかかわらず、・・・あのような音楽を愛せるか(p206)」と、ワーグナーの音楽にまでとばっちりが及んでいます。しかもまったく音楽そのものの質に触れないまま。
                                   
 この本を読んでいて驚いたのは、「王様の耳は馬の耳」のなかで、「カトリック教徒は死後、原則として土葬に付され、死者は最後の審判の際に『新しき肉』をまとって蘇ることを期待するから、火炙りにして灰を撒き散らす刑こそは、蘇りの可能性をあらかじめ封殺する極刑にほかならなかった。(p211)」というフレーズを見たことです。現代人の火葬が中世の極刑に相当するとは!