:新倉俊一『ヨーロッパ中世人の世界』


                                 
新倉俊一『ヨーロッパ中世人の世界』(筑摩書房 1985年)
                                   
 この本も昔から書棚にあった本、一昨年それを知らずに、ちくま学芸文庫で再版されているのをまた買ってしまいました。著者はフランス中世文学が専門、渡辺一夫の教え子のようで、昔のゼミを懐かしむ文章が最後の章「硯乎硯乎(けんやけんや)、與瓦礫異(がれきとことなり)」に出ていました。

 いま、そのちくま学芸文庫を取りだして見たら、宮下志朗による文庫版「あとがき」がついていて、「アメリカ詩の専門家に新倉俊一という名前が出現、われわれは、しばらく同一人物だと信じていた(p402)」という文章に出会いました。私も今までそう信じていて、西脇順三郎まで筆の及ぶ多芸な人だと書こうとしていたので危ないところでした。ちなみに、この単行本とちくま学芸文庫版との異同は、文庫版あとがきがついていることと、著者自身のあとがきもかなり変わっていること、それに「硯乎硯乎、與瓦礫異」は掲載されておりませんでした。

 全体は大きく4部に別けられていて、Ⅰ部は、中世の歴史的文化的状況を、学問の世界、死観念、夢、法意識などから探った論文、Ⅱ部は、中世の恋愛観と恋愛物語の代表である『トリスタン物語』について、Ⅲ部は、ファブリオの紹介、Ⅳ部は、それらからこぼれ落ちたもの、といったところでしょうか。

 とてもよく勉強していてかつ頭のいい人らしく、整然とした文章で、分かりやすく著述されています。とくにⅠ部の「中世の知識人」「中世人と死」とⅢ部の「ファブリオ、コント、ノヴェレ」の三論文は、目からうろこが落ちるほど、ものごとが明晰に見晴らしよく展望されていて、素晴らしい。


 「中世の知識人」の大きな流れは、
1)農業の生産性向上、それにともなう商業の活性化、都市化を背景にして、「祈る人(聖職者)、戦う人(貴族・戦士)、働く人(平民・農民)の三身分・・・におさまり切らぬ・・・知識を生計の手段とした新しい階層―所謂「知識人」が・・・ヨーロッパ史に登場した(p9)」ことを語り、
2)学芸の興隆には、シャルトル学派や、クリュニーの修道院における尊者ピエールを中心としたギリシャ=アラブ文化圏の翻訳紹介活動、弁証法を駆使し行為の善悪よりもその意図を重視したアベラールの役割を指摘し、
3)学校・学寮の濫立が原因で、学僧の供給過多による失業が増え、旅芸人の一員となったりする放浪学僧が世の中に蔓延した状況を描いています。(これは現在日本の大学院の状況にも当てはまるような気がしますが。)一部の放浪学僧は「カルミナ・ブラーナ」に見られるような詩を吟じ、これがヴィヨンにつながっていくわけです。


 「中世人と死」は中世の死生観を取りあげています。
1)中世は、古典古代期と異なり、老年について悲観的な見方をしていて、滅びていくものへの哀惜を語り死を想うなど、中世人が慢性的な強迫観念、深刻な不安感に絶えず取りつかれていた状況を説明したうえで、
2)キリスト教が正式には神に対しての悪魔を認めていなかったことから、悪魔から守ってくれる存在として身近な聖人や聖母マリアへの信仰が生じたこと、
3)金銭や酒食など現世の快楽を追求する「町人気質」が社会全体に浸透してきたなかで、死後の救済さえ約束されていれば、死は恐怖の対象にはならず、天国へのパスポートとしての寄進が重大視されるようになったこと、などが述べられています。
一方、それらとは違った死の観念として、ケルト神話に見られる「あの世」についても最後に言及されていました。


 「ファブリオ、コント、ノヴェレ」では、ロマン、コント、ヌーヴェル、ファブリオなどの物語の形態の特徴を詳細かつ巧みに分別したあと(私がこれまで接した説明のなかでいちばん分かりやすかった)、同じ話がコントとヌーヴェルでどう展開が違ってくるかを、妻の不倫相手を殺しその心臓を妻に食べさせる話を題材にして、コント的な『トゥルバドール評伝』とノヴェラ(フランスのヌーヴェルにあたる)の『デカメロン』を比較しています。


 Ⅱ部のトリスタン考証は、著者のいちばん得意とする分野のようですが、私には専門的すぎてあまりピンときませんでした。どうでもよい些末なことに拘泥していると思えるほど。

 最後の章「硯乎硯乎、與瓦礫異」は、日本の外国文学研究の状況に対する悲憤慷慨、自身の将来の研究への不安等が入り混じった文章で、著者自身も「付言」をつけて、この論文の未熟さについて弁明しており、掲載するのを迷った様子がうかがわれます。それで文庫版では削ったもののようです。たしかに若書きの混然とした印象は否めませんが、真摯さと情熱があふれていて好感が持てたのに残念です。