:マルセル・ベアリュの訳本二冊

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マルセル・ベアリュ高野優訳『奇想遍歴』(パロル舎 1998年)
マルセル・ベアリュ高野優訳『夜の体験』(パロル舎 1998年)

                                   
 先日読んだベアリュの『Journal d’un mort(死者の日記)』があまりに面白かったので、先月入手した『奇想遍歴』を読み、その勢いで、新刊時に一度読んだ『夜の体験』も再読してみました。(『死者の日記』については8月9日記事参照http://d.hatena.ne.jp/ikoma-san-jin/20130809

 『奇想遍歴』は、『死者の日記』同様の短い短篇を集めたもので、期待どおりの面白さに満ち満ちていました。『夜の体験』のほうは長編で、一度読んだはずですが、まったく覚えておりませんでした。しかも当時の私は△印ときわめて低い評価をつけています。おそらく酔眼朦朧としながら満員電車で読んでいたので、よく理解できていなかったものと思われます。この作品は、それほど難しくこみいっていて、今回も途中でなかだるみが起こるような始末でした。が冒頭の一章「広場」などはとてもよくできていて◎、全体としても○で、評価というのはときによって変わるものだと感じました。

 『奇想遍歴』には別々に出版された三つの作品「半睡の物語」「奇想遍歴」「鏡」が収められていて、『死者の物語』、『夜の体験』とあわせて年代順に並べると、次のようになります。「鏡」(1943年)、『夜の体験』(1945年)、『死者の日記』(1947年)、「奇想遍歴」(1951年)、「半睡の物語」(1960年)。『夜の体験』以外はショートショートをつなぎあわせたもので、同じようなテイストですが、微妙に、「半睡の物語」がそれ以前の三作に比べ、より自由奔放さを獲得しているように思われました。

 『夜の体験』『奇想遍歴』と長短ふたつの幻想小説を読んだのを機会に、幻想物語を語る場合の長さというものについて考えてみました。短い物語では想像の飛躍が短時間に終るので、自由に羽ばたいて束の間の鮮やかな印象を残して終えることができますが、物語が長くなってくると、現実離れをした現象の辻褄を合わせようと論理的な要素が出てきてしまい、説明過多になって、やがてそれが荒唐無稽な印象になったり、あるいは理屈っぽくなって観念小説的に難しくなってしまうような気がします。読者にとっては、あまりに夢のような場面が連続するので、緊張感が持続せず中だるみになってしまいます。それらを解決するには、現実的な要素をもう少し足場に据えながら、ちらほら幻想を垣間見せるという技巧が必要になるかと思います。


 『奇想遍歴』にはベアリュの最良の部分があると感じました。おおよそ、奇想系、お伽話系、夢記述系の三つの要素に分けられると思いますが、全体としては詩の味わいに近いものです。詰め合わせチョコレートのいろんなヴァラエティを順番に食べていくような楽しみがありました。「三人の配達人」で三人の配達人がそれぞれ持っている箱の大きさと抱え方(p44)に見られるように、細部の想像力がなんとも言えず光っています。
 
 「半睡の物語」のなかの「読書に対する情熱」「球と教授たち」「三人の配達人」「宝の島」「禁じられた窓」「陶磁器製の子供」「諸世紀の伝説」は、田中義廣訳の『水蜘蛛』(白水社Uブックス、1989年)にも収められているもので、当時わくわくして読んだことを覚えています。

 とくにすばらしかったのは、次の短編。「半睡の物語」のなかの「禁じられた窓」、「奇想遍歴」のなかの「空飛ぶ町」「炎の泉」「メッセンジャー」、「鏡」のなかの「エドゥアールの鏡」。「半睡の物語」の「諸世紀の伝説」の次のような文章はいかがでしょうか。
「地面に脚を打ちこまれた男の身体が、真っ黒と言ってもいいほど土気色に変色していたのである。しかも、その上のほうは頭から肩にかけて、緑がかった黴のようなもので覆われていた。そして、朝日に照らされると、その黴は菌糸を伸ばして草の茂みのように広がり、風が吹くと奇妙な音をたてた。やがて、風に揺れるこの緑の茂みには翼をはやした小さな生き物たちが巣を作りにきた。それはどうやら、地面に植えられて立ったまま眠っているこの不思議な男の思考であるように思われた(p99)」


 『夜の体験』は、主人公が眼科医のフォア博士を訪ねるシーンから始まり、博士から「一日十二時間の労働の後に飲む薬」と「たちまち真っ暗闇になる眼鏡」をもらって、街で生活することになりますが、そこは貧困と謎の組織が支配している街で、雑役労働をしながらその秘密に徐々に近づいていくという物語です(なかなか説明が難しい)。全体的にチャペックなどの近未来小説のような印象です。大きな組織を持つ社会の中でもがく主人公。組織対個人がテーマのひとつであるにはちがいありませんが、訳者が「あとがき」で指摘しているように、イニシエーションの物語でもあります。『死者の日記』の時も書いたように、立花種久らの夜の彷徨小説を思わせるものがあります。

 巧妙に驚きの要素がちりばめられています。初対面のフォア博士から「ようこそ、マルセル・アドリアン。そこに座りたまえ(p9)」と名前を呼ばれたり、今ここにいて向こうの窓を指さした女性が、同時に向こうの窓に現われてこちらに手を振ったり(p16)、商店で品物を買おうとして「でも、旦那、これが売り物じゃないことは旦那もご存じでしょう?(p61)」と店員が平然と言ったり、いろんな驚きがでてきます。

 『夜の体験』の中の次のようなシーンでは、『死者の日記』の仮面のエピソードを思い出しました。「彼女の顔を注意ぶかく観察すると、ぼくはそこに喜びと悲しみの二つの仮面が重なりあっているのに気づいた。悲しみの仮面のほうはおそらくより古い時代にできたもので、本来の顔つきと見まがうほど深く額や頬の肉に食いこんでいる。いっぽう、喜びの仮面のほうはあとから無理やりつけたもののようで、絶えず顔から落ちそうになっていた(p16)」