:詩のリズムに関する本つづく、木々高太郎『自由詩のリズム』

木々高太郎『自由詩のリズム』(詩苑社 1969年)ほか


 前回、荒木亨の詩のリズムに関する本を読んだとき、土居光知や木々高太郎、坂野信彦、熊代信助らの本が取り上げられていたので、今回は木々高太郎『自由詩のリズム』を読んでみました。坂野信彦『七五調の謎をとく』も持っていたと思って本棚から探し出すと、なんと十三年前にすでに読んでいたことが判りました。何という記憶の頼りなさ。昔の読書ノートと、パラパラ読みでこの本も一緒に話題にすることにしました。                      
坂野信彦『七五調の謎をとく―日本語リズム原論』(大修館書店 1996年)

 木々高太郎福士幸次郎のお弟子さんにあたるそうなので当然ですが、木々氏も坂野氏も日本詩二音構造説を採用しています(どうやらこれが今では定説になっているみたい)。実際の詩の鑑賞分析にあたっても、坂野氏はかたくなに二音にこだわっておられるようですが、木々高太郎は二音のことはあまり言わず、六音や七音もひとつの単位として考えているようで安心しました。


 木々高太郎の本は、ひと言でいえば自由詩にもリズムがあることを証明しようともくろんだ本で、自由詩の呼吸法則を見出したこと、行節の最後の音格数がリズムを感じさせるもとになるという説に新味があります。これは私も納得しました。

 また海外の詩法との比較がなされていて、その点荒木亨と共通しますが、木々氏は英語だけでなく、フランス語も堪能なようで、ヴェルレーヌの「詩法」やマラルメの『骰子一擲』をなんと自ら訳しさえしています。最後は時間切れで(というのは病床でまとめられたもののようなので)散漫になってきますが、前半はいたって論理的で明晰、荒木亨の難しい文章に次いで読んだので、気持ちよく読めました。


 他に、この本で私が強く印象を受けたところは、誤解もあると思いますが、
①日本詩と西洋の詩がまったく違う原理で動いているので研究しても無駄だと明言していること(p12)
②声に出さずに読む内語でも脳細胞が言語運動と同じ活動をしているので、言語の音楽的な流れは感得できるということ(p35)
福士幸次郎の説の紹介で、三音のまとまり(撓<しな>い)を停止性をつくり出すものとしていること(p81)
④西洋の詩もシラブルの数で考えると日本詩の呼吸法則にあてはまること (p93)
⑤西洋の自由詩の場合、行や節の長さを決定するのは、意味のまとまりであること(p145)
⑥伝説詩、諷刺詩、哀歌、讃美歌、唱歌、牧歌、俗謡、民謡、童謡、子守歌、長唄、小唄、端唄など、詩のかたちは内容より規定され、また歌われることから形づくられているということ(p193)


 坂野氏の本は、西洋については触れずに、日本の定型詩のみを論じていて、かつ自由詩の音律は問題としていません。その点はもの足りませんでした。特徴としては、日本の古来からの詩のかたちのいろんな例を考察していて、引用例も豊富なことでしょうか。

 坂野氏も二音が前提で立論していますが、それにこだわるあまり、句の頭に休止を持ってくるなど不自然な点が感じられました(p79)。二音の倍数の定型八・八や八・六、四・四は、たしかに流れるようなリズムであるのはまちがいないでしょう。しかしそれ以外のケースでは、あまり二音にこだわるのは感心しません。

 この本で新しく知り得たことは、平安時代から、短歌や和歌の終りの七音が4・3調になるのを回避するようになったこと、朗誦法の影響からそうなったもので、朗誦することが少なくなった明治後半からまた4・3調が戻ってきたこと(p184〜197)、字余りの句のうちには、必ず単体の母音が含まれていること、それは前後の音と一体となって半字分になるから許されるということ(p199〜204)。


 この二冊を読んでいるうちに、おぼろげに自分なりに考えたこと。それは、つぎのとおり。
①二音という発想が出てくるのは、漢語に二音+二音の言葉が多いからではないかということ、だから漢語の多い軍隊調の詩が行進曲のようになるわけである。
②音律を大事にしなければならない詩は、嘆息としての歌謡だけであって、木々高太郎が言う日本的な情念を離れた創造を旨とする詩は、音律よりもイメージを大事にしないといけないのではないか、それが戦後詩の出発点ではなかったか。
③詩語というものが詩作品のなかで重要な役割をはたしていること、そして新しい(すなわちオリジナルな)詩語を生み出すことが詩人の使命の一つ(使命のもう一つは新しい詩法を生み出すこと)ではないか。