:三好達治『詩を読む人のために』

少しのお休みでしたが、またブログを再開します。


三好達治『詩を読む人のために』(岩波文庫 1991年)
                                   

 詩の本を連続して読もうとしていますが、この本は杉山平一の本にたびたび三好達治との交友が語られていたので、そのつながりで読んでみました。毎日新聞の有本さんがどこかで、常に鞄のなかに持ち歩いていると書いているのを読んで、関心が芽生えたこともひとつです。

 学生時代に読んだような気もしますが、岩波文庫ではまだ出てなかったようですし、内容はもちろんどんな本だったかも忘れているところをみると、読んでなかったのかもしれません。

 生硬なもの言いに陥らずに、ていねいな言葉づかいで詩の魅力を伝えようという優しい気持ちが伝わってきます。戦後のほとんどの詩論集が力が入り過ぎて、飛躍の多い抽象的な文章になってしまっているのと対照的で、ずいぶん読みやすく分かりやすい。

 藤村「千曲川旅情の歌」に始まり、泣菫の「ああ大和にしあらましかば」、『有明集』、『邪宗門』、伊良子清白、三木露風、口語自由詩について、後半には萩原朔太郎堀口大学丸山薫、田中冬二、立原道造伊東静雄らが取り上げられています。

 冒頭の「千曲川旅情の歌」についての文章は、杉山平一の本にも、三好達治が同じ内容のことを直接語りかけたことが紹介されていましたが、詩の音韻的分析が詳しくなされており、また否定的言辞を積み重ねることによって醸し出される雰囲気を巧みに解説しています。こうした実際に詩を書く人ならではの鑑賞法がこの本の随所に出てきます。

 この本でいちばん面白かったのは、高木敏次の『傍らの男』について書いたときも触れましたが、萩原朔太郎のイロジスム(非合理性)についての文章で、朔太郎の作品全体に見られる「一種の誤謬」が詩の魅力の源泉になっていて、考えようによれば朔太郎のレトリックの奇異な特徴をなしていると指摘しているところです。これも実作者ならではの見方で、朔太郎の魅力をずばり言い当てているように思います。このイロジスムは現代詩の詩法のひとつだと思いますが、このイロジスムの魅力を論理的に説明するのは難しいのでしょうね。

 白秋や有明、ここには出てきませんでしたが、日夏耿之介の漢語の多い絢爛な詩も好きですが、三好達治の言うように、「厚手に深く細緻に畳みこみ彫りこむ(p88)」複雑な行き方と違って、露風の「現身」のような、平易簡明な小曲風の味わいもなかなかいいものです。

 引用された詩で気に入ったのを羅列すると、三木露風「現身」、千家元麿「落葉」、室生犀星「不思議なる顔」、大木惇夫「小曲」、佐藤一英「病める蚕」、萩原朔太郎「再会」「地面の底の病気の顔」「蝶を夢む」「女よ」「静物」、堀口大学「夕ぐれの時はよい時」「彼等」、田中冬二「沼べり」、立原道造「わかれる昼に」「のちのおもひに」「眠りの誘ひ」「さびしき野辺」、中原中也「夕照」。

 この中で佐藤一英はオークションでたびたび名前を目にするものの詩を読んだのは初めてでした。また「僻地の小都会においてすら既に時代遅れとなった遺物(p207)」を景物として「侘びしげな薄ぼんやりとした時代遅れの燈火の、何か暗示的な火影(いずれも三好の評p208)」がかかげられている田中冬二の詩がとくに心に沁みました。


 印象に残った文章を少し引用しておきます。

説明はうたになりません。うたは散文を怖れます。詩における解析は、数学の場合とちがいます。・・・省略と、飛躍を要します。快適なはずみを要します。機智を要します。・・・詩はつねに、何ものか、意想外なものの不意打ちなしには成りたちません/p176

この詩を読む以前に、この詩にむかう以前に、読者がすでに自分のものとして不断の心にもっていなければ、この詩感は、響のものに応ずるようにぴんとひびいてこないでしょう/p182