:アーサー・クレイバラー『グロテスクの系譜―英文学的考察』


アーサー・クレイバラー河野徹/上島建吉/佐野雅彦訳『グロテスクの系譜―英文学的考察』(法政大学出版局 1971年)


 グロテスクという言葉を知ったのはいつの頃でしたか。マーラー交響曲2番のジャケット解説で三楽章を「グロテスクな光景」と表現しているのを読んだのが最初ではなかったでしょうか。言葉の意味は知りませんでしたが、音楽を聴いておよその雰囲気が分かりました。その後、W・カイザー『グロテスクなもの』を読み、それ以来、グロテスクという言葉はファンタスティックと並んで私の関心の中心に居座り続けています。

 その割には、これまでこの本を読んでなかったというのはどういうことでしょうか。新刊当初は「英文学的」というところにひっかかって買う気になれず、そのうち入手が困難になってようやく買ったのが八年ほど前、その後ずっと本棚に置いたままでした。読まなくてはと思いながら並べているだけの本は他にもまだたくさんあります。読もうと思っていてもなかなか手が出ないものです。


 この本は大きく三つの部分に分れていて、一つ目が、第一章から第四章までで、これまでのグロテスクに関する理論の紹介、二つ目が第五章で、著者独自のグロテスク論、三つ目が第六章から第八章で、具体的な作家を取りあげてその理論を検証しています。

 これまでの理論の紹介では、グロテスクという言葉の起源にはじまり、辞典の説明文や諸家のさまざまなテキストを引用しながら、グロテスクという言葉が多様な意味を持つことを示しています。「人間や動物を葉や草と結合させた装飾様式」「不自然な」「異様なもの」「醜悪で滑稽」「空想的奇想的」「怖い」などなど。

 グロテスク装飾に想像力の自由な活動を見たカント、崇高とグロテスクを反対概念としたバーク、霊的なもの(超自然)を異形の姿(不自然)にかたどるグロテスクの観点からインド芸術を論じたヘーゲル、奇想が理解できずゴシック物語的なものから抜け出られないスコット、高尚なグロテスクを論じたラスキン、グロテスクを崇高や美を支える必要不可欠な対立物と見るユゴー、戯画との関連で論じたサイモンズ、日常生活が突然に異質なものに変じる不条理な側面に焦点を当てるカイザーらが取りあげられています。

 あの几帳面なカントが「想像力の自由な活動が・・・あらゆる法則の桎梏を離脱して初めて・・・最高度にその価値を発揮できる」(『判断力批判』)と書いていたり、ヘーゲルが「奇想風象徴主義」というような言葉を使っているのは驚き。


 著者のグロテスク説はユング精神分析理論を基軸としたもので、芸術家の精神が夢思考に支配されているか(退行的)、合目的的思考に支配されているか(前進的)に分け、次にその程度が積極的か消極的かで、表現のスタイルを積極的退行型、消極的退行型、消極的前進型、積極的前進型の四タイプに分類しています。そのなかで神話に代表される積極的退行型はグロテスクを意図するものでなく、歴史的・伝記的研究や科学的・批評的作品などの積極的前進型も除外され、意図してグロテスク形式をとった芸術は、第二、第三の範疇に属するものとしています。

 そして、スウィフト、コウルリッジ、ディケンズの三人を取りあげ、スウィフトについては、前進型の自己が奔放な想像力を御そうとしているとし、コウルリッジは、自らの奔放な想像力が先細り意図的な道徳訓に収斂してしまうのを避けようと煩悶しており、ディケンズにおいては、奇怪な人物を描き続け累積的にグロテスクな効果を盛り上げていると指摘しています。


 なかなか重厚な内容。幻想美学理論書としても重要な位置を占めるのではないでしょうか。全体が理論的にしっかり構築されていて(著者の用語によれば「前進的」か)、かつグロテスク美の具体的な魅力もしっかりと把握されていて(「退行的」か)、バランスの取れた好著といえます。

 自分なりに考えてうすぼんやりと理解できたことは、グロテスクという言葉が多義的で、人によって考えていることが少しずつずれていているので、グロテスクについて語られたことを検証することも大切ですが、具体的な美術作品なり詩作品に沿って考える必要があるということ。それとグロテスクの美が、他の美意識、崇高、怪異、滑稽などと隣接していること、また自然と超自然、あるいは現実と異界の境目に現われる現象ではないか、すなわち異なるものの接触で生じるものではないかということです。
 

 印象に残った文章をご紹介しておきます。

同じ印象を、常に繰り返すと、しまいには、だれてくる。崇高なものに、崇高なものを続けると、対照を作りだすのが容易ではない。すべてのものから、美からさえ休憩をとることが必要なのである(ユゴー)/p69

身の毛もよだつような対象―怖ろしいグロテスクの素材となるもの―も、そのありのままを精魂込めて眺めると、グロテスクなものでなくなり、全く崇高なものとなることを、読者は、心に留めておくべきである(ユゴー)/p73

「意味深く怪異なもの」が、怪異なものでなくなると、それは、意味深くもなくなるのである/p88

たとえば雷鳴という現象を、雷神トールが大槌を叩く音だと説明する・・・このような説明が、それに伴うあらゆる連想とともに、時代遅れのものとして廃れてしまったのは、人間の実際的日常意識にとってみれば勝利とも言えるが、超越的なものに接触しているという感じを問題にすれば、同時に敗北とも言える/p127

ポーと同じく、マンデヴィルも、作り話を書いているのかも知れない。しかし両人とも、彼らの驚異感を表現し、暗示的な形式で、この世には無限の可能性があるという根深い確信を客観化しているのである/p139

中世的な奇想から生じたあの異様な動物群、分類の試みを挫くグロテスクなもの、いかなる伝説もその由緒を正せない混成物、名称も所属もない悪夢の群れ・・・このようなグロテスクなものの着想は、石工たちの間で溢れんばかりに湧き上がっていた創造的奇想によるものだろう(アンダーソン)/p161

幽霊船、「何千何万というぬめぬめしたもの」、立ち上がる死者たちは、『アシャーの泉の女房』に出てくる蘇生亡者のような効果を意図されたものなのだ。これらの心象は何かの符牒となるものではない、「何かを表わして」いるのではない。それらは文字通りそこにある/p258

自然の事物、たとえば露にぬれた窓ガラスを通してぼんやり光っているかなたの月などを眺めていると、私は何か新しいものを観察するというより、むしろ私の内につねに、また永遠に存在する何ものかに対する象徴的言語を探している、いや、求めているような気がする・・・私の内なる本性のある忘れられた、ないしは隠れた真実のおぼろな目覚めであるような感じがいつもする(ワーズワース)/p267