:中条省平のドールヴィイ論と翻訳『デ・トーシュの騎士』

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中条省平『最後のロマン主義者―バルベー・ドールヴィイの小説宇宙』(中央公論社 1992年)
バルベー・ドールヴィイ中条省平訳『デ・トーシュの騎士』(ちくま文庫 2012年)


 いよいよフランス語の本は除いて手持ちのドールヴィイは最後となりましたが、最後の最後に大ホームランといった印象です。中条省平という人はこれまで名前を本の背表紙で見知っていた程度でしたが、はじめて読んでみて、その文章力と読解力、才気、切れ味の鋭さに感心しました。

 とくに、『デ・トーシュの騎士』の翻訳は、このところドールヴィイの小説をいろんな人の訳で読んできましたが、中条氏の翻訳がいちばんこなれていて分かりやすいと感じました。冒頭、人気のない広場に木靴を鳴り響かせながら男が登場するシーンは、マカロニ・ウェスタンの一場面を思わせる映画好きの訳者ならではのもので、眼前にありありと情景を浮かび上らせる文章力は並みのものではありません。ぜひとも『呪縛された女』『老いたる情婦』を含むドールヴィイ選集を刊行してほしいものです。

 『デ・トーシュの騎士』は、フランス革命後の革命派に対する王党派の戦いのさなか、王党派に属するふくろう党の十二名の精鋭が、捕えられた仲間の英雄(それがデ・トーシュの騎士)を救出する物語。その戦いに参加した老人たちの思い出として語られますが、題材が題材だけに張りつめた戦いの緊張感が全体を包んでいます。語りの迫力とも相俟って手に汗握る展開は『亡びざるもの』と何という違いでしょう。「『私がそこで死ぬことも間違いないのです』『それなら、なぜ行くの?』・・・『お嬢さん、だからこそ行くんです!』(p171)」というあたりは、やくざ映画の斬り込み前の雰囲気を醸しだしています。
                                  
 ずっと三人称で語られますが、終りの段246ページになって突然、「私は」という言葉が登場します。それがこの物語の劇的なところ。そこで実はこれまでの大人たちの語りを隅で聞いていた子どもがこの物語全体の話者だったということが明かされます。


 『最後のロマン主義者』も評論にしては文章が読みやすく、論の展開、話の運びも巧みです。内容は、やや精神分析的批評に重きを置いている節はありますが、ドールヴィイの人生観、作品の構造分析、文学史のなかの位置づけ(とくに幻想小説悪魔主義の系譜)、18世紀末からのフランスの政治風土との関連、ノルマンディという地方論、文壇的影響など、さまざまな視点から語られています。当時の文人たちのドールヴィイ評から、専門の文学研究者らはもちろん、サルトルバタイユラカンドゥルーズにいたるまで、広く目配りがきいています。

 中条氏の他の作品は読んでいませんが、ネットで見ると、この作品に続くような文学評論は書いていないようで、実にもったいないことだと思います。

 この本を読んで、プルーストミシェル・セール、J・グラック、ドゥルーズ=ガタリなど、意外な人々がドールヴィイについて書いているのを知りました。日夏耿之介まで書いているとは。

 生田耕作「バルベー賛」の「凡庸、これこそバルベーが最も忌み嫌うものであった。」という言葉どおり、またあらためて、バルベーの特質は激しさにあるとの理解が深まりました。激情とそれを抑えようとする無表情の間の葛藤が作品を盛り上げて行くのです。この極限までの大仰さの身振りは表現主義に通じるものがあるのではないでしょうか。

 二ヶ所ほどサドの露骨な性描写が引用されています。おそらく普段こういった文章を目にすることの少ない「マリー・クレール」女性読者へのサービスを意識してのことだと思いますが、少し悪乗りが過ぎるようです(安原顯の差し金か)。


 要約するのは手にあまるので、印象に残った文章を紹介しておきます。

<ダンディスム>の最初の逆説が姿をあらわしている。すなわち、<表わすこと>と<隠すこと>のパラドックスである・・・「人に驚きをあたえながら、みずからは無感動を保持すること」/p29

時代の混乱のなかで、階級を失い、嫌悪感に苛まれ、無聊をかこちながらも、生来の力に恵まれた人びとが、新種の貴族制を樹立する計画を立てること(ボードレール)・・・これが<ダンディスム>の歴史的位置づけである/p30

ドールヴィイの小説がしばしば「悪趣味」だとか「過激」だとか非難され・・・それらの肉体が、物語の本当らしさや登場人物の心理的な必然性といった近代小説の規範から離れたところで、小説を豊かに彩り、物語を多様な方向に膨張させていることも事実/p75

われわれは、母親から乳を与えられるようにして、<言葉>と触れあい、乳を飲むように<言葉>を自分に同化してゆくのだ/p120

ドールヴィイの小説宇宙では、精神の現象がしばしば身体の領域に滑りこみ、あるいは、身体の比喩をともなって表現される/p124

モーパッサンのコントが<なにが起こるのか>という発見のプロセスとして進展するのにたいして、バルベーの短編小説の本質は<なにが起ったのか>という謎に存している/p139

感情が愛に向けられるか、憎悪に向けられるかは、じつはそれほど重要ではない。いずれにしても、死にいたるほどの情念の強度こそが問題なのだ/p144

情念の強度が極限にまで高められていれば、それが地獄を目指していても、バルベーはその情念を崇高であると見なすということだ/p164

激昂した<神秘主義>から激昂した<悪魔主義>までは、ほんの一歩なのだ(ユイスマンス『彼方』)/p164

バルベーの文体を「虎の血と蜂蜜とがまじって、奢侈の美にみちみちたり」と評したポール・ド・サン=ヴィクトルにならい、鏡花の文体を「子羊の血と灘の春酒がまじって、怪麗の美にみちみちたり」と、おもしろい表現で讃えている/p240

彼が想像する煉獄は薄明の中間地帯で、ダンテが描いたリンボとほぼ同一視できる場所である・・・薄明、黄昏もバルベーの小説のトーンを決定づける<風景>である。そして、黄昏もまた、光と闇の中間地帯にほかならない/p282