:渡辺一夫の本、また二冊

///
渡辺一夫『随筆 うらなり抄―おへその微笑』(光文社 1956年)
渡辺一夫『僕の手帖』(講談社学術文庫 1977年)
                                   
 また引き続いて渡辺一夫を読んでみました。今回の二冊は、一般市民向けで、とくに『うらなり抄』は西日本新聞に連載したもので、各三枚ずつの短い随筆が集められています。この本も戦後間もなくの執筆ですが、新聞連載を意識してか『亀脚散記』に見られたような悲憤慷慨調は避けていて、少し和らげたもの言いが感じられます。また庶民的な関心に迎合しようとしてか、下ネタや露出的な話題(「娘のうんこの話」や「脱肛の功徳」)が登場します。

 連載中に、大学時代の学友である光文社の社長から「また息子を登場させろ」という電話がかかってきたと書いていますが、息子や娘、家のまわりの話題を書くときに、小説的な味わいがふっとあらわれるのが社長の目に留まったのでしょう。それで出版されることになったようです。

 取り上げられているのは、そうした家族の話をはじめ、体や健康に関するもの、食や酒に関する話題、専門のフランス文学やフランス語にまつわるもの、世のなかの出来事やあり方に関する感想など幅広いジャンルにわたっています。

 「おへその微笑」という副題にもなっていますが、おへそに太陽の光をあてることについての妄想を延々と繰り広げるところや「人間は腹がへると、味噌汁の風呂へでもはいって、がぶがぶ飲んだら、さぞうまかろう。ほかほかした銀飯のなかへもぐりこんで、海苔で包んだ梅ぼしを枕にして寝そべり、むしゃむしゃ食べたら、さぞ楽しかろう(p164)」というような愉快な想像力は子どもっぽいところがありますが、面白い。

 軟らかい話題のなかで、ユマニストらしい次のような発言も目に留まりました。

人間の職業が専門化すれば、それと正比例に、他人の職業に対する無関心・無知も深まる。こうした人間的宿命を反省するかしないかが、はなはだ重大なのである(p62)


 『僕の手帖』はもともと河出市民文庫のための書き下ろし、こちらの方が書いた時期は古いみたいですが、『うらなり抄』よりはもう少し考えの展開がしっかりとした内容で、ユマニスト的な一面が出ている文章がやはり優れていると感じました。

 いくつかの重要な指摘がされています。人間が機械の力を自分の力と思いこんでしまう危険性を書いている箇所で次のような記述がありました。「機械の持つ速力を自分のものと思いこみ速力に酔ってしまった人間が、群衆のなかへ全速力で車を乗り入れるとか、憎いと思っている人間を追いまわして、ひき殺すとか・・・することもあり得る(p9)」最近の事件を予言しているかのような文章ですね。

 「人類の現在の状態は、生物学的に、二つの解釈を受ける・・・一つは、もはや人類はデジェネレッサンス(退化)の時期に達していて、人類は自分のしていることが判らなくなり、自分の作ったもので自分を破滅させるかもしれないという、ペシミストな考え方・・・第二の考え方は、人類は、まだ若く、成長の途上にある。幼児がナイフで自分の指を切るようなことをすると同様な不始末をするかもしれないが、いずれは、そうでなくなるだろう(p15)」という記述、これも現在の原子力発電所の存続か廃棄かへのスタンスの二面を表わしているような気がします。

 また平和についての章では、平和というものが辛いものであること、「平和を維持するためには、現状は維持されてはならず、常に修正されねばならないのである。この修正の結果として、若干の被害や犠牲も生ずるかも知れない。しかし、これらの被害や犠牲にしても、平和が破れ去り、戦乱が起った場合に生ずる被害や犠牲と比べたら、全く物の数ではないのである(p89)」という認識は最近よく言われる「痛み」に通じるものだと思います。

 この本も、「虚偽について」「ユマニストのあわれ」「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の三篇が『ちくま日本文学全集 渡辺一夫』と「読書の思い出」が『乱世逸民問答』と重複しておりました。

 最後に、古本愛好家のわれわれにとって嬉しい言葉を引用しておきます。

古本の匂いならば、どんな匂いでも、くんくんと嗅ぐ。新刊本の匂いもよいけれど、古本の匂いはまた格別である(p122)