:Alain-Fournier『Le Grand Meaulnes』(アラン・フルニエ『さすらいの青春』)


Alain-Fournier『Le Grand Meaulnes』(FAYARD 1992年)
                                   
 ローデンバッハに続いて、訳本のあるフランス書を語学学習がてら読んでみました。今回はまず音読して、その後朗読テープを聞き、その後意味を考え、最後に田辺訳で確かめ、必要に応じて水谷訳も参照するという作業。実際に読んだのはキンドルでダウンロードしたテキストです。

Alain-Fournier『Le Grand Meaulnes lu par Denis Manuel』(AUVIDIS 1986年)
フールニエ田辺保訳『さすらいの青春(ル・グラン・モーヌ)』(旺文社文庫 1985年)
アラン・フルニエ水谷謙三訳『さすらいの青春』(角川文庫 1970年)
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 この本も大学時代の愛読書。当時水谷訳で二回読みました。ちょうどその頃映画も公開されていて、友人らと映画で覚えた「Je suis malheureux!」というフレーズを連呼しあった記憶があります。二十年ほど前、いつか読むこともあるかなと思って、原書と朗読テープを買っていたもの。

 難しい単語もあまり出てこず読みやすい文章。しかしまだまだ意味がうまく取れないところや誤読しているところがたくさんありました。誤読の一つは、ilやlui、leなどの人称代名詞が指すものを取り違えるケースが多く、何を指すかよく考えないで取り違うとまったく別の意味になってしまいます。

 二つの訳文を比較してみて、水谷訳にはところどころ省略があることが分かりました。分かりにくい所を飛ばしているような気もします。ちなみに水谷訳は43文字×18行×274ページ(=212076文字)、田辺訳は44文字×18行×323ページ(=255816文字)で、あきらかに田辺訳の方が量が多い。また「あとがき」でも言及しているように、田辺訳は水谷訳を参照している形跡が明瞭に窺われます。

 「この暗く荒れはてた心の中をよぎっていたものはなんだったのだろうか。ぼくは、なんどもそんな疑問を自分に問いかけてみたものだ。だが、ぼくがそれを知ったときは、もうおそすぎたのだ(p266)」というような追憶と悔恨のフレーズ、またところどころ「ここで〜したのだった」というような回想的な文章が入るのが、何とも言えない雰囲気を醸し出しています。

 少年たちが大人になるその過程の物語で、主人公モーヌの友人フランソワが回想する形で語られます。冒険や英雄に憧れる少年たちの王国、道に迷ったあげく辿りついた桃源郷のような不思議な城とそこで催される祝宴、そこで出会った美しい女性、サーカスの魅惑などが次々と語られていきます。そのところどころで描かれるフランスの田舎の自然の情景が美しい。少年の王国と田舎の自然を描いているというところでは、ネルヴァルの「シルヴィー」との親近性を感じます。

 この物語の軸になっているのは、取り違えと運命的な偶然のいたずらという悲劇の構図です。モーヌはさ迷いこんだ城で見たイヴォンヌに恋い焦がれ、彼女の弟フランツとも兄弟のちぎりを交しますが、フランツは婚約者に見棄てられた傷心のあまり失踪してしまいます。モーヌもイヴォンヌの居所を探しているうちにイヴォンヌが結婚してしまったという誤報を聞き、ヴァランチーヌという娘と婚約してしまいます。このヴァランチーヌが実はフランツの婚約者だったのです。

 語り手がフランソワであるのは一貫していますが、そのなかでモーヌの手紙や日記が効果的に使われていて、物語が盛り上がって行きます。とくに二部の最後は圧巻。モーヌが語り手のフランソワに書いた三通の手紙は、モーヌのイヴォンヌに寄せる思慕の情とともに、フランソワの失われた少年の王国やモーヌとの友情をいつくしむ追憶のせつなさががひしひしと伝わって、思わず涙にむせんでしまいました。

 今回ははじめて朗読テープを聞きましたが、いかに自分の発音がデタラメか思い知ると同時に、フランス語の優しい言葉の魅力に感じ入りました。激しい感情のところをあえて静かに読んでいるのがいっそう胸に迫ってきます。