:Georges Rodenbach『Bruges-la-Morte』(ジョルジュ・ローデンバック『死都ブリュージュ』)

                                   
Georges Rodenbach『Bruges-la-Morte』(GF Flammarion 1998)
                                   
 ローデンバックのこの作品は、学生時代に江間俊雄訳世界名作文庫版で読んで感銘を受け、その30年後ぐらいに、ブルージュに旅行したとき飛行機のなかで再読した愛読書。(実際に見たブルージュは観光客だらけで静謐さは味わえなかった)。

 あらためて読んで、主人公の亡き妻にかける思いと寂しさが、静寂に満たされた町の情景とともにひしひしと伝わってきました。悪女に弄ばれ煩悶する優男! 亡き妻と生き写しの踊り子の我がままで浮気性な感じは、いま読んでいる前川道介の本の中に出てきたローラ・モンテスのようです。また最後の大団円は、亡き妻の亡霊が復讐する幽霊譚とも読めることに気づきました。

 今回は、既訳のあるフランス語の本は読まないという鉄則を破りましたが、これはフランス語の勉強も兼ねて読んだためです。原文を音読し辞書を引きながら一応自分なりに読んだ後、窪田般彌と江間俊雄の訳文で検証しました。

ジョルジュ・ローデンバック窪田般彌訳『死都ブリュージュ』(岩波文庫 1988年)
ロオデンバッハ江間俊雄譯『死の都ブリゥジュ』(春陽堂世界名作文庫 1933年)
(他に、多田道太郎/黒田実訳 (思索社)、田辺保訳(国書刊行会)、高橋洋一訳(ちくま文庫)が出ているが所持しておらず)
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 すると1ページに一ヶ所は単語の誤解やまったくの見当違い、読み落としているところがあって、これではこれまで読んできた本もかなりいい加減なことを再認識させられました。翻訳で読んだときはやさしい文章と思っていましたが、意外と詩的に凝った文章で、「,」で短いフレーズが繋ぎ合わされ構造が複雑で、一読で意味がたちどころに判明するというわけには行きませんでした。

 二人の訳文を較べてみて、どちらかと言えば私は江間訳に軍配を上げたいと思います。なかなか味わい深いものがあります。少し口語的なくだけた表現になっていること。例えば、c’est là qu’aboutissait ce deuil qu’on avait pu croire éternel.(p118)を窪田訳は「人々が永遠なものと信じえたあの哀悼も、今ではこんなことになりはてたのだった。」ですが、江間訳では「世間の人がきはまりなきものとばかり思ひ込んでゐた彼の哀しみも、とどのつまりは今日のこの始末。」という具合。

 où l’homme cède, tournoie et s’abandonne.(p238)という文章では、「そして、男はその声に打ち負け、まきこまれ、ついに溺れきってしまうのだ(窪田訳)」に対し、「男は、へなへなになつて、こき廻はされ、無我無中になつてしまふあの聲だつた(江間訳)」という具合に、どことなく情感が滲み出ています。

 また単語の一つを取ってみても、言葉遣いが昔のものという理由もあるでしょう。例えばmachinalement(p88)を窪田訳は文字どおり「機械的に」と訳していますが、江間訳は「からくりのやうに」。coffret(p141)は窪田訳では「小箱」、江間訳では「手文庫」というように。

 二人の訳を比べてみると、片方の訳が明らかに間違いということもあります。例えば、外聞を気にしている主人公が窓から外を見ようとする女に対して思う言葉、On voyait assez de derrière les rideaux. (p258)について、窪田訳では「人々の眼はカーテンの背後をも充分に見通していた。」、江間訳では「窓掛の蔭からでも、ようく、そとは、見られるのだ。」となっており、江間訳の方が状況にあった訳になっています。

 初めて原文と訳文を読み比べて、訳者も四苦八苦している様子が伺えて面白く思いました。最後の一文などは、とても難しいですが、「鐘の音は―この都の上にか、はたまた墓の上にか―なよなよと、かねの花びらを散らすが如くに鳴りひびいてゐた」(本間訳)と「その鐘も…まるで鉄の花々を力なくむしりとっている様子の―それは町の上であろうか、それとも墓の上でであろうか―力衰えた小さな老婆さながらだった」(窪田訳)が同じ原文から訳しているとはとても思えません!