:MARCEL SCHNEIDER『LE CHASSEUR VERT』(マルセル・シュネデール『緑の狩人』)


MARCEL SCHNEIDER『LE CHASSEUR VERT』(ALBIN MICHEL 1949年)                                   

 前回読んだMARCEL BRION(マルセル・ブリヨン)『LA ROSE DE CIRE(蠟の薔薇)』が登場人物が極めて少なく、主人公の意識の中の出来事を綴ったメルヒェンのような物語だったのに比べて、この本では、最初からいきなり、大勢の登場人物、祖母や叔母や叔父やら従兄弟やらが出てきて面喰ってしまいました。不必要と思われるぐらい細かな部分で現実の世界を描こうとしているようにも見えます。

 主人公の少年が、ヴァカンス先のシャンリューで、厳格な信仰に凝ってしつけのうるさい祖母が中心の大家族のなかで体験した話が語られますが、森に住む緑の狩人との交流と狩人の死、それに次ぐ母親の死がこの物語の大きな流れを作っています。

 主人公はシャンリューの近くの「大きな森」へ行くことを禁じられていますが、少年の目には、その禁忌の空間は、禁じられることで、いっそう遠い憧れの空間となっていきます。この主人公の少年の不思議なものに目を向ける心の動き(憧憬といえばよいのでしょうか)が視点の中心にあります。「森」の神秘の世界はもちろんのこと、例えば船の中で見る芝居だったり(役者が一度死んだはずなのに毎晩よみがえることの不思議さ)、闇の中の顔、また大人たちの不可解な行動、子どもの知らない大人の世界に対して。

 森で出会った木の幹の洞で一人暮らす緑の狩人に、獣たちを支配する森の王者を感じ、ロビンソン・クルーソーのようなたくましさを感じて、夢中になって崇拝する少年。狩人の側でも、小さな男の子を、生まれることのなかった自分の子のように思い熱愛します。この二人には、例えば少年が、狩人に胸の血を吸われる夢を見る場面のように、性的な同性愛の雰囲気も漂ってきますが、それは気にし過ぎでしょうか。

 少年の憧憬とは別に、もう一方で宗教が大きなテーマになっています。キリスト教の厳正な教義と、森の思想の対立。人間関係においても、祖母は緑の狩人と対立するものとして描かれています。しかし祖母が信仰しているのは、一種の神秘主義で、緑の狩人と共通するところもあり、この両者は単純な対立関係にはなく、複雑なねじれた様相を呈しています。

 物語の前半で、「人の死を刈り取る黒い狩人(ラーゲルエーフの「幻の馬車」を思い出す)は永遠に生きることを業として定められていて、銀の弾を込めた銃で撃たれないと死なない(これは狼男か)」という伝説が伏線として披露されており、物語の最後で、銀の弾で撃たれたことが狩人の死因と判明し一同騒然となります。その中で少年だけは銃の暴発による事故死と信じています。が、誰かが狩人のことを、この黒い狩人(狼男)と同一視して銀の弾で撃った可能性も否定できません。

 敬愛する緑の狩人と母の二人の死が結びついて一つのものになるという神秘主義的な悟りを少年が感得して、この物語は終わります。


 前に読んだSchneiderの『Les Deux Miroirs(二つの鏡)』も少年の物語で、自伝的要素が強かったと記憶していますが (2010年3月10日記事参照) 、この話はそれほどでもありません。

 いまClaude Farrère(クロード・ファレール)の短編集を読み始めたところですが、客観的な描き方がされていて明るさ軽さが感じられます。結局、Marcel SchneiderもBrionと同様、自分から離れられず、内面の呪縛に囚われていて、重苦しいトーン(良く言えば荘重な雰囲気)に支配されていたというわけです。