:ガストン・バシュラール宇佐見英治訳『空と夢―運動の想像力にかんする試論』


ガストン・バシュラール宇佐見英治訳『空と夢―運動の想像力にかんする試論』(法政大学出版局 1969年)


 出たばかりの本を大学時代に少し読んだだけで放っておいたものです。いずれは読まねばなるまいと思っていましたが、ようやく読み終えました。訳者も大変苦労したのではと推測されるような難しい文章です。とくに「結語(二)運動的哲学と力動的哲学」の章はとても難解。

 至るところ箴言に満ちています。読んでいる間中、謎めいた箴言や深みのある詩の引用の言葉にずっと接することができて気持ちのよい読書となりました。


 序論で、この本が想像力、とりわけ動性の想像力を取り扱うこと、詩の中にそれを見つけようとすること、四つの想像的元素が規則性を担保していること、心の内部に生じる動きを重要視することなどを明確にした後、

 われわれも見ることのある飛行の夢の具体的な姿を、夢の記述や文学作品から例示し、その想像力のあり方を解釈することからはじめ(第一章)、翼をもつ鳥のイメージを天使との比較をしながら (第二章)、ついで下方にむかう墜落について語っています(第三章)。

 第四章では一転して、患者に昇行状態を想像させることで具体的な治療を行っているドズワィユの業績を顕らかにした後、ニーチェ生の哲学のなかの上昇のイメージを検証し(第五章)、ついで青空、星空、雲、星雲と、空の現象の中のイメージを(第六章〜九章)、次に地上にあって上昇しようとしている樹木の想像力について様々な例をあげながら自説を展開しています(第十章)。

 最後に、大気の力動的な姿である風を扱った後(第十一章)、それを人間の中の呼吸にまで広げ、それを詩の韻に結びつけ (第十二章)、結語として、想像力のなかで文学的イメージの果たす役割を称揚し、文学的人間を生きた言語で研究する哲学が必要なことを述べています。


 この本は哲学の本というより、詩あるいは心理学の領域で成果を発揮できる本ではないでしょうか。緻密で論理的な明証性を犠牲にしても、たましいに響く言葉を大切にしながら語っているから。そういう意味で、ドズワィユの精神療法について書かれた第四章がポイントのような気がします。ドズワィユの精神療法は想像による治癒を行っている点で、今日のイメージ療法の先駆をなすものではないでしょうか。

 本文で「ベルグソン哲学が時に多くの面で、運動学にとどまり、この哲学が潜在的に保持している力動性にまで必ずしも達しなかったように、われわれには思われる(p384)」と指摘したり、ニーチェを「力動的想像力のもっとも純粋なものの一人(p183)」と言ったりしていますが、バシュラール詩学は、ベルクソンの動的な哲学や、ニーチェ生の哲学の延長上にあるもので、想像力の力動的な働きを中心に考えようとし、「生成の原理たる想像力の他の精神的諸機能に対する優位(p420)」を高らかに宣言しています。それは、ギリシア哲学の四大元素を物質ではなく、イメージにおきかえなおして検討しようとするものです。

 生成の動きをもっぱら、天と地の間の上下の運動を中心に探り、最後に拡散と深さにも言及していますが、生命を扱うのであれば、秩序化と崩壊のイメージ、すなわち生命そのもののイメージでとらえることも重要ではないでしょうか。

 バシュラールの根底には詩への並々ならぬ愛情がありそこから出発していると感じられます。それは文中でもしばしば見られる詩への言及や、真の詩精神と惰性の比喩とを峻厳に区別する姿勢にうかがわれます。文学作品では、シェリー、バルザック、ブレイク、リルケニーチェ、ポー、ボードレールが多く取り上げられますが、それ以外にも名も知らないような詩人も含め数多くでてきます。

「雨の木」という言葉がリグヴェーダから来ていることを知り、またリグヴェーダの想像力の豊かさに魅せられました。

 訳者の宇佐見英治が途中の章から神沢栄三を助っ人に頼んだため、前半後半で若干言葉遣いが異なっていました。訳している分量がほぼ同じなのに、訳者として宇佐見英治の名前しか出ていないのは不公平(後輩に訳をさせるという昔の悪しき風習)だと思います。

                                   
 下手な解説はやめて、印象に残ったフレーズを引用します。

想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力/p1

一行の詩を書くためには、・・・鳥がどのように飛ぶかを感じ、花が朝開くときにはどんな運動をするかを知らなければならない(リルケ)/p7

視覚によって捉えられた運動は力学的なものではない/p13

世界は人間の夢想のなかで想像されながらあらわれる/p20

夢の世界にあっては翼があるから飛べるのでなく、飛んだから翼があると信じるのだ/p38

飛行の《本能》・・・それは生命のもっとも深い本能のひとつである軽さの本能であるといってもよいであろう。幾頁にもわたるこの試論はこの軽さの本能の諸現象を探究せんとするものである/p41

われわれは飛んでいる世界の真中にいるようでもあれば、また飛んでいる宇宙がわれわれの存在の秘かな内部に現われるようでもある/p47

あらゆる隠喩は小型の神話である(ヴィコ)/p53

或る種の夢見者にとっては、波の上に揺られていた舟がしらずしらずに水を離れ空にむかう/p60

イメージは老衰しない/p66

鳴り響くものと透明なものと動的なもの、この三者一体なるものは、・・・軽快感の内的印象からうまれるものである。それは外的世界によってわれわれに与えられるものではない/p85

飛んだり泳いだりしている鳥に夢想がふいに共感を覚え・・・このように迅速でこのように完璧であるのは、そもそもイメージが力動的な意味で美しいからだ/p91

人は雲雀を力動的想像力を働かせることによって力動的に記述することができるが、視覚的イメージの知覚の領域内でこれを形体的に記述することはできない/p122

語り手は読者を恐ろしい情景の前においたのではなく、恐怖状況のなかにおいたのであり、彼は根源的な力動的想像力を揺り動かしたのである。作者は読者のたましいのなかに直接、墜落の悪夢を誘いこんだのだ/p145

人は徐々に夕べの闇の重さを感じるであろう。人は夕べの闇の重さが三重の贅語法(プレオチスム)によって生気づけられた純粋な文学的イメージであることを理解するだろう。暗くなってゆくこの大気の質料の重さが《重くのしかかった雲》の重さを一層よく感ぜしめるであろう/p148

世界は彼(ノヴァーリス)にとっては水からうまれたひとつの美である。・・・水晶の内部で天の色が地上に保たれる。諸君はサファイアの青をあたかも石が空の紺碧を集めたかのように、《大気的に》夢見ることができる。諸君は黄玉(トパーズ)の炎をあたかも石が夕陽と交感しているかのように、《大気的に》夢見ることができる。諸君はまた、空の青が手のくぼみに凝結してサファイアとなって固まったのだと想像することにより、《地上的に》夢見ることができる。水晶の上で、貴金属の上で、地上的想像力と大気的想像力の二つが結合する/p157

「想像力」と「意志」は同じ一つの深い力の二つの面である。想像することのできるものこそ欲することができるのだ/p160

《その光はどこから生じて真暗な物体のなかであのように輝くのであろうか。それは太陽の光輝からだというのか。しかしそれなら何が夜のなかで輝き、眼を閉じても見え、おのがなしつつあることを知りうるようにきみの思想と理知をきみにもたらすのであろうか。》(ヤコブベーメ)この光の本体は外なる物体から来るのではない。それは夢見るわれわれの想像力の中心そのものにうまれるのである/p171

くつろぎの緊張/p175

ニーチェにとって、大気の強勢的な真の特質、呼吸する悦びをもたらす特質、不動の大気を力動化する特質―力動的想像力の生命そのものである深さにおける真の力動化―それはこの爽やかさである/p202

空の青はこころもち蒼ざめた色彩として、蒼白いものとして夢想されるとき、大気的なものとなる/p245

想像力には時間の引き伸ばしが、スローモーションが必要だ。そして特に何ものにもまして夜の物質の想像力には緩慢さが必要だ・・・星空は、自然の動体のなかでももっとも緩慢なものである/p272

また別な想像力は植物の生の水性の勝利を強く感ずる。そういう人たちには樹液が昇ってゆくのが《聞こえる》のだ/p309

想像的なものの世界においては、風車が風を旋回させることも不可能ではない/p340

神は風の元素を一握りつまみ、その上に息を吹きかけると、馬が現れた(コラン・ド・プランシィ)/p348

火が出てゆくとき、それは風の中に出てゆく。太陽が出てゆくとき、それは風の中に去ってゆく。月が去るとき、それは風の中に去ってゆく。かくて、風はあらゆるものを吸収する・・・人間が眠るとき、その声は息の中に去る。彼の視覚も、聴覚も、思惟も同様である。かくて息はすべてのものを吸収する(チャーンドーグヤ=ウパニシャッド)/p356

《・・・われわれは不断にこの星の黄金を呼吸している。この太陽の微粒子はわれわれの肉体に入りこみ、たえずそこから発散している》このようなイメージの中には芳香のある息吹が、香り高い風が生きている/p357

それ自身のうちに生成と存在を総合する動体として真に自己を構成するためには、自分自身のうちに軽くなるという直接的な感じを実感しなければならない。ところが、存在を誘いこむ運動のなかで、軽くなるという状態で動くことは、すでに動く存在として変容することである/p388

人は暗黒の物質の上にすでにかすかな白を予測し、推定する。それは暁である/p396

存在が豊かに自己をあらわすとき、拡張と深さは力動的に結合される。・・・存在の豊満は、その深さを示すものである。逆に、内密な存在の深さは、自己自身に対する拡張のように思われる/p398


ちと多すぎましたかな。