:私市保彦『ネモ船長と青ひげ』

 私市保彦『ネモ船長と青ひげ』(晶文社 1978年)
                                  
 この私市保彦という人は『ヴァテック』を訳したり、自らも幻想小説を書いている人で、幻想小説と民話を共に語るということでは、篠田知和基と共通するところがあるように思います。

 この本は、フランスの児童文学全体を見わたしながら、とくにペローの童話とヴェルヌの冒険小説について詳述しています。ほかにアンデルセン童話と民話との比較、『星の王子さま』について、日本のものでは、宮澤賢治童話や押川春浪などの海洋冒険小説について論じています。

 出色は「恐怖小説としての『青ひげ』」で、ペローの話法が、どの世界にも属さないように語る民話の語り方の枠を破って、はっきりと物語の時代を特定し合理的な説明を行うリアリズム的な手法を用いていること(しかし肝心なところで民話の語りに戻ってしまうが)、そしてその題材や道具立てからも、来るべき恐怖小説の時代の一歩手前まで迫っていることを強調しています。

 恐怖小説の恐怖を成り立たせる最低の条件として、細部のリアリズムと細部の合理性が必要で、そうした確固とした世界が築けてはじめて、現実とのズレの驚異が足元をすくわれる恐怖として成り立ちうるのだと思います。そういう意味ではリアリズムは恐怖小説と対立するものではありません。

 アンデルセンの童話について書かれた文章でも、アンデルセンが民話に材料を借りながらも、独自のアニミズムを展開させるために、物語にいろんな要素を付加していることを、同じテーマのいろんな民話の例文比較を通して実証しています。元の民話からアンデルセンが量的に3倍近くに膨らませていて、細部がアンデルセンの世界観を作り上げるのに必要なパーツであることが感じられ、アンデルセンの物語作りの巧みさに感心しました。

 またヴェルヌについての文章も広汎な見地から彼の文学の特質を明らかにした好論文で、ヴェルヌの文学が浪漫主義の残滓を色濃く表していること、また彼の採用した科学主義も単なる薔薇色の科学主義でなく、科学の持つ暗い面をしっかりと見つめていることに注意を促しています。ヴェルヌの描く旅と冒険をイニシエーションとして捉えるフランスの最新学説を紹介しながら、最終的にはすべて論理的な説明をつけないと気が済まないヴェルヌの限界をも指摘していて、バランスがとれています。

 もう一つ印象に残ったのが「近代日本のロビンソン・クルーソー」。本家のロビンソン物語では、一市民として、またキリスト教徒として無人島でロビンソンが苦しみ悩むことが描かれているのに対し、日本の海洋冒険小説では、無人島を海外進出の拠点、すなわちナショナリズムの見地でしか見ていないその能天気ぶりを鮮やかに指摘していて気持ちがよい。


恒例により印象に残った文章。

どうやら、おとなは、文学のもつ最良の部分のいくつかを子どもの世界に向け追放し、それもしばしば矮小化した形でゆずりわたしてしまったのではないか/p25

ペローのリアリズムはここで崩壊・・・「鍵には魔法がかかっていたのです」・・・という逃げ道をつくったのである・・・もしこの一句がなかったら、そして、かたまった血が生きているように血に特有の粘液性を帯びてきて鍵にこびりつく効果がもう少しおどり出てきたら、この恐怖の場面は完璧になったであろう/p50

幻想をレアリズムにまで深めようとする道程に、うたがいもなく彼(ウォルポール)は立っていたのである/p51

文明のあらゆる時代を通して、虚構と記録の文学において、旅と動きをめぐる、未知の世界の探求と発見をめぐる想像は、一つの本質的基調であったのではないか。古代ギリシアホメロス叙事詩はペリブルといわれている周航記のスタイルと関連があり、古代における偉大な散文のいくつかは、ギリシア周辺の古代世界を見聞したものについての発見と驚異にみちているのである/p191

幕末から明治期の間に、日本の多くの漁民たちが、地獄の如き漂流と無人島体験を重ねていたが、そうした庶民の海洋における行動と苦しみはほとんど形象化されず、こうした軍事基地としての無人島のみが形象化されていったのは、日本のロビンソナードのために、まことに不幸な、不毛なことであった/p239

ヴェルヌの作品の主人公たちは、しばしばインタナショナルな規模であらわれるのである。・・・
物語の人物の性格的特徴を、さまざまな国籍の人物を登場させることで国民性のちがいに還元しているかにも見えるが、同時に彼の描いている行動が、自然を相手とする人類的な冒険事業であり、そこでは、すでにナショナリズムにとじこもることはできないという、彼の予見からもでているはずである/p247