:蕪村に関する本三冊

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萩原朔太郎『郷愁の詩人與謝蕪村』(新潮文庫 1957年)
中村草田男『蕪村集』(大修館書店 1980年)
芳賀徹『與謝蕪村の小さな世界』(中央公論社 1988年)


 先回の芳賀徹『詩の国詩人の国』を読んで、蕪村をもう少し読んでみようと手に取りました。蕪村の冬ごもりの句はこの寒い時期読むにはぴったりでした。

 読んだ順番は、『與謝蕪村の小さな世界』『蕪村集』『郷愁の詩人與謝蕪村』の順ですが、最後の朔太郎がページ数が少ないのにいちばん強烈な印象を残しました。

 その『郷愁の詩人與謝蕪村』は、冒頭の「序」「蕪村の俳句について」から、いきなり高らかな宣言口調で、これまでの子規による蕪村観を一蹴し、「郷愁」という新しい切り口の提示を行おうとするその意気込みに魅せられました。本論に入っても、さすが朔太郎だけあり、独自の鋭い感性で俳句の世界に切り込んでいて、熱のこもった句の解釈に原作を越える勢いが感じられました(p45など)。

 朔太郎は、蕪村を発掘した子規の功績は踏まえながらも、蕪村の追求した客観的な美は子規の言う単なる写生主義ではないと否定的です。その客観的特色の背後にある蕪村のポエジイを見なければならないと言い、そこに蕪村の浪漫的な抒情詩人としての性格を指摘しています。西洋の抒情詩と蕪村をつなげるという視点は、おそらく朔太郎が初めてのものだと思います。芳賀徹中村草田男の論もこの路線の延長上にあると思います。


 中村草田男『蕪村集』は、朔太郎、芳賀徹の二著の熱い文章とは対照的に、冷ややかなお人柄ではないのかと感じられるぐらい平板な文章でした。全体の見取り図を示さずに、教科書のように句を一つずつ解釈する書き方のせいかもしれません。初心者の私としては、文章の中で解説をつけながら引用される詩句に心を動かされることが多いのです。

 ただ句作の専門家だけあって、子音の反復による効果や音数の分析を丁寧にしているところや、また蕪村の浪漫主義的な特性や、近代的な感性についてきちっと指摘しているところはさすがです。

 
 『與謝蕪村の小さな世界』は、分かりやすく親しみがもてました。朔太郎が行った指摘を章立てて再度深めたという位置づけができると思います。この本でも句の解釈における芳賀徹節は健在。また桃源郷をテーマにした章や、若冲と比較して語る章は、比較文学の幅広い目線を持った芳賀徹らしい考察に溢れています。著者によれば、蕪村と若冲はそのロココ的な技法と視覚の点で類似していると言います。フランス象徴詩の雰囲気との比較や佐藤春夫のビーダーマイヤー的世界との比較などは著者ならではの境地だと思います。


 ぐだぐだつまらない感想を書くよりも、印象に残ったフレーズで、彼らの主張をご紹介します。

蕪村の句の特異性は、色彩の調子(トーン)が明るく、絵具が生々して居り、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くして居る/p14

彼のポエジイの実体は何だらうか。・・・それは時間の遠い彼岸に実在してゐる、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思ふ、子守唄の哀切な思慕であつた/p21

エロチカル・センチメントを歌ふことで、芭蕉は全く無為であり・・・蕪村がこの点で…多くの秀れた句を書いてゐるのは、彼の気質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあつて、範疇を逸する青春性を持つて居たのと、且つ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持して居た為である/p36

正岡子規以来、多くの俳人歌人たちは伝統的に写生主義を信奉して居るけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて少なく、名句の中には殆んど無い事実を、深く反省して見るべきである/p52

「佗び」の心境するものは、悲哀や寂寥を体感しながら、実はまたその生活を懐かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫してゐる心境である。「佗び」は決して厭世家(ペシミスト)のポエジイでなく、反対に生活を愛撫し、人生への懐かしい思慕を持つてる楽天家のポエジイである/p65

単に対象を観照して、客観的に描写するといふだけでは詩にならない。つまり言へば、その心に「詩」を所有してゐる真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や歌が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に皆「抒情詩」に属するのである/p66

以上、萩原朔太郎『郷愁の詩人與謝蕪村』

想像の別天地へ読者を完全に誘導してゆくためには、表現の手法はかえってあくまでも写実的でなければならない/p34

蕪村の浪曼主義と豊富な想像力とは、必然的に彼を駆ってしばしば妖怪趣味におもむかしめている/p70

浪曼主義の文学が、本質的には憧憬の文学である以上、そこでは時間の無限性がしばしば採り上げられ、美の一要素として利用されることのあるのは確かである。蕪村においては・・・多少とも、この種の時間の連続性からその美を生み出しているものである/p93

以上、中村草田男『蕪村集』

小さな親密な桃源的空間・・・それはまるで、かくれ家は小さく狭く、ほの暗ければほの暗いほど、いっそうたしかに外界から遠ざかり・・・「冬ごもり壁をこゝろの山に倚(よる)」の内的風景が幻燈のようにくりひろげられるのも、このほの暗い小空間のなかにおいてであった。「細道になり行く声や寒念仏」と、念仏のやや乱れた声がしだいに遠く消えてゆくまで耳を澄ましているのも、「待人の足音遠き落葉哉」のひそかな足音が近づくのを待ちもうけているのも、みなここである/p57

蕪村の俳諧の世界は、近代フランス詩人の愛用の語彙でいうならば・・・肉体的=感覚的なlangueur(疲れ)と精神的=心理的なennui(倦怠、ものうさ)とが一つになった消極性の美、負(マイナス)の価値の世界にほかならなかった/p73

彼がもっとも心惹かれてとらえようとするのは、その短い夜ににじむ薄明(トワイライト)の光の、不思議に中間的で、縹緲として不確かな効果そのものであり、それがしばしば水の映像と一つになって深いさわやかな生のすがたを暗示するものともなったのである/p190

日本人がいとおしんできたのは、まさにここに言う春の日ののどかさにかえって痛み悲しむ心(悽惆の意)であり、ゆえもなく結ぼれ屈する思い(締緒)である/p199

以上、芳賀徹『與謝蕪村の小さな世界』


最後に、読んでいて気に入った句を下記に。

春雨や小磯の小貝濡るるほど
しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり
ゆく春や眼に逢はぬめがねうしなひぬ
椿落ちて昨日の雨をこぼしけり
飛入の力者あやしき角力かな
朝顔や一輪深き淵のいろ
団炭(たどん)法師火桶の窓より覗ひけり
うづみ火や我かくれ家も雪の中