:篠田知和基『人狼変身譚―西欧の民話と文学から』(大修館書店 1994年)


『竜蛇神と機織姫』(11月21日記事参照)に引き続いて読んでみました。


 『竜蛇神』同様に、繰り返しや重複記述がかなり目につきました。例えば、「はじめに」があって本文があり、「おわりに」があって、さらに「付記」があり、その上「あとがき」まであって、どれにも重複した記述が見られます。

 話の脱線もいたるところにあり、例えばスタートして、狼の話がしばらく続くと安心していたらp41までで、そこから人身御供の話などに拡散してしまうといったところです(本当は狼の話の展開なんだと思いますが理解がついて行きませんので)。

 しかし、今回『竜蛇神』と違うと感じたところは、人狼のテーマにかなり絞られていて分かり易かったのと、文学作品の中の人狼テーマについて言及している部分が多くそれが興味深かったので、ぐんぐんと読み進んだということです。

 『竜蛇神』を読むのに難渋したのは、『竜蛇神』のほうが後に書かれているので『人狼変身譚』の続編として西洋の「人狼」を日本の「蛇」で展開した位置づけにあると思われますが、西洋文学から離れた分だけ著者の独壇場が発揮できなかったことと、二番煎じなので話が拡散してしまったということになるのでしょう。


 内容を簡単に紹介すると、
森の文化であるヨーロッパでは、もともと狼は古代民間信仰で神として位置づけられ、社会にあまねく広がっていた。青年の通過儀礼の一種として狼軍団として森に籠ったり、村八分的存在となって、あるいは盗賊のような集団として森に身をひそめたりするなかで、人と狼のあいだの変身、憑依のさまざまな伝説が生まれた。16世紀にキリスト教が隅々まで行きわたるようになると、次第に人狼的存在は排斥されるようになり、魔女狩りの際には人狼狩りも行われた一方、それらの伝承は19世紀になって近代文明との葛藤のもとに近代文学に豊饒な物語を提供したのである。
日本では、森のかわりに山、そして水を中心とする農耕文化という風土の関係で、狼が狐や蛇に取って代わり、またトーンも穏やかになって、日本的な世界が展開されている。


 この『人狼変身譚』は、もし著者の主張だけ理解しようとするなら「はじめに」と「おわりに」だけを読めばいいですが、この本の価値は、本文の中で豊富に引用される伝説や物語、近代小説の紹介にあると思います。

 例えば次のような文章には、神話や伝説のわくわくするような魅力が溢れています。

北欧神話では、狼は太陽を呑みこんで、夜の闇の中を走り、朝、東の空でそれを吐き出すとされる/p15

人が生まれるときには、「影の狼」も同時に生まれ、・・・死ぬときまで姿をあらわすことはない。彼が姿をあらわすのは、死者の魂を冥界へくわえて行くためである/p17

彼らはふしぎな眠りにおちているあいだに、「魂」の状態で村ざかいの野原へ行って、そこで「死者の軍隊」と戦う/p18

コルシカの「リザネーゼの妖精」では、禁を犯して覗くと、妻の背中に穴があいていて、そこに人骨がつまっている/p31

知恵者が人柱をたてればいいと言う・・・あした、袴に横縞のつぎをあてたものが通りかかったら、そのものを犠牲にすればいいと言う。男の妻がそれを聞いて、災いが何も知らない人にふりかかることを恐れ、夜のあいだに夫の袴に横縞のつぎをあてる/p42

とびかかられたほうがふり向いて相手を認めさえすれば呪いはとけるのだが、その前に人狼が肩にしがみついて耳をつかんで頭を動かせないようにしてしまう/p133

彼女の魔法の圧巻は、ガラス山の絶壁をのぼって宝ものを取ってくるときに、ぐらぐら煮たった大鍋の中に飛びこんで骨になって、骨梯子を作らせ、そのあとでまた骨を大鍋に投げこませて、前より若く美しくなって出てくることだ/p170

アポリネールが想像したドルムザンという人物は「同時多数存在」で、同時に世界中に八百八十八人だか九百人だかの分身がいたのだが、その中の一人が銃弾を胸に受けたときに、世界中で、銃声も何も聞こえなかったところでも八百八十八人のドルムザンが同時に胸に風穴をあけられてどっと倒れる/p320