:篠田知和基他『フランス幻想文学の総合研究』(国書刊行会 1989年)

 しばらく旅行に出かけていましたので、間が空いてしまいました。旅行前に読んだものなので、すでに記憶が遠のいていますが、ご紹介します。

 随分前に買っていて積読のままになっていたもの。篠田知和基(6編)の他に、山中哲夫(2篇)、田中義廣、中島廣子、藤田衆、大内和子の各氏による論文集です。


 篠田知和基と山中哲夫の二人が群を抜いていました。田中義廣のもなかなかよく、中島廣子もまずまずでしたが、残り二人の文章はわたしの読解力のなさのせいか頭に入ってきませんでした。


 篠田知和基は多方面にたくさん小説を読んでいるので感心しました。前半の論文3編は、この本の冒頭に置かれるにふさわしく、「規定と認識」では幻想文学の作品群と研究史全体を俯瞰し、「幻想のディスクール」では幻想の本当らしさを作者がどう語るかの技法に注目し、「受容と解釈」では逆に読者の視点から多義的な解釈(ためらい)の問題を論じ、後半3編「鍵穴の向こう」「迷宮」「狼と妖精」では作品世界の内部空間へのアプローチを行なっています。まさにタイトルどおりの「総合」的な考察がされていて、その考察も幅広く丁寧で、作品の味わいをよく吟味したうえでの立論になっています。

 一点気になったのは、純文学的な作品と娯楽を追及する作品との間に峻厳な区別を設けているところで、後者を真の幻想文学ではないと主張している点で、やや頑なな印象を受けます。


 山中哲夫は文章がきわめて読みやすくかつ感性がのびやかで、絵画や写真など他分野にも幅広く目配りが利いていて、好感が持てました。「マラルメの幻想」での詩的な探求と、「新たなる視線」の社会学的な考察が両立しているのがこの著者のすばらしいところだと思います。


 田中義廣の「マルセル・ベアリュの幻想」ではSFとレーモン・ルーセルの言葉遊びが結合したようなベアリュの不思議な世界が紹介されていますが、分身をめぐっての論述が冴えています。ベアリュの仕掛けた略号の多義性も分身の一種なのでしょう。



 少し量が多いですが印象深かった文章を引用しておきます。

作者、批評家、受容者の三者それぞれが恣意的な「幻想」概念を抱いている。(篠田知和基)/p14

問題はむしろ「真実らしさ」と「ありそうもないこと」、「見えるもの」と「見えないもの」の葛藤ではないだろうか(篠田知和基)/p35

「ありそうもないこと」を読者に信じさせるのは容易なことではない。・・・そこで問題になるのは作者―主人公―読者のあいだの位相の相違を平準化する語りの方法である。そのひとつは、・・・「語りの複層化」、あるいは「仲介的語り手の導入」である(篠田知和基)/p36

現実から夢や幻覚への移行には、あたかもモローのサロメの裸身上に描かれたアラベスクのごとき細部の緻密な描写をもってする。現実の微細な描写からはじめて、そのまま連続的に心象風景の細密描写に入ってゆく。一種のトロンプルイユである。また「・・・のように思われる」という表現を、現実描写において用いて、その反対に、夢魔の描写を断言法で行なう。あるいは、比喩の連続において、「・・・のようだ」という表現をはじめだけで、あとは省略する。いずれも現実と非現実を入れ替えるトリックである。(篠田知和基)/p52

象徴主義は説明を嫌う。「説明をされれば四分の三の魅力が失われる」。その点は、謎解きを嫌う幻想文学とも共通する(篠田知和基)/p55

比喩が比喩でなくなるのが夢である。比喩が比喩で現実の論理を侵犯しないのが現実である。夢と現実の境がなくなって、どこから夢がはじまるのかわからないのが幻想である。(篠田知和基)/p65

「書きあらわしえないもの」をいかに書くかで、ボッシュのように混成怪獣を作って、個々の部分は既知のものでも、組合せが異常であるようなものを描くか、それとも「・・・ではないもの」という否定的限定をくり返して輪郭をあきらかにするか、比喩をくり返すか(・・「馬のようであると同時に兎のようでもある」)、あるいは・・・あるべきものの不在で描くか・・・そもそも本当に恐ろしいものは見えないもの(篠田知和基)/p82

「説明」の位置と性質とが、ある作品を「幻想物語」と見做せるかどうかの鍵となる。「説明が物語のごく早い段階、たとえば一行目に現れた場合」は、「緊張のベクトルは実質的にゼロであるから、読者は論理上の苛立ちを経験することがない」。・・・「幻想物語の図式を示す」作品においては、「説明」は「ほとんど最後に来る」(フィネ)/p97

西洋人の青い目はガラス玉のように澄んでおり、湖のような奥深さを持っている。この「青」は《熾天使的群青》(J=P・リシャール)の青空に繋がっている。目の向こうに天国があるのだ。また金髪については・・・輪光(ニムブス)を連想させる(山中哲夫)/p159

《白い噴水》、それは両の翼を広げていままさに飛び立とうとする天子の姿に他ならない。ここでは噴水が幻想の鳥である。・・・上昇・落下のこの連続運動がマラルメには静止した翼の形に見える・・・この落葉は天使の抜け落ちた羽である(山中哲夫)/p161

水量の乏しい勢いのない噴水は、幻想の天使の力つきた姿を、天に戻れない己が魂の、それでも執拗に上昇を試みようとする悲しい習性を象徴している。落葉が広大な水盤に描く水尾はさながら埋葬のために掘られた墓窟であろう。マラルメはこの墓窟を眺めつづけている。まるで、天上の死者と合体できる飛翔力がないのならば、いっそのこと、地下に埋葬された死者と一つに結び合おうと夢想しているかのように。(山中哲夫)/p162

「死」と隣り合わせの、目の醒めるような絢爛豪華さといった組合せは、・・・世紀末文学の極めて特徴的な場面設定のひとつ(中島廣子)/p244

自動人形の展示会が始まる。奇妙なことに観客はそれぞれ自分にうりふたつの人形を見出し、人形が踊りはじめるとみな真似をして踊り出す。(ベアリュ『夢の粉末』)/p262

自動人形・・・制御装置が十分に作動しなくなった・・制御装置というのが壁に掛かった巨大な文字の組合せ・・・人形たちはしばしば無秩序に動き、そのつど震動のために文字が落ちる。女中は必死で文字を元に戻していったが、やがて彼女の力が尽きたとき、自動人形たちは決定的に解き放たれて暴れまわり(ベアリュ『夜の体験』)/p270

原発事故を連想させられます。

自己像幻視とドゥブルは必ずしも一致しない・・・二重人格・・これはいわゆる分身に含めない・・・影や鏡に映った映像がドゥブルと呼ばれることもある。この場合は、いわゆる分身とは正反対に、ドゥブルが存在することが自然で正常な状態であり、むしろこれが消滅したり勝手な振る舞いをすることによって、幻想のテーマとなる・・・本来の分身では、常識では存在しないはずの同一人物が二人存在する。影や鏡像テーマでは正反対に、常識では存在するはずのものが欠如する。(田中義廣)/p272

本質的なものは言い得ない。暗示することができるだけである。本質的なものはわれわれと隠れんぼうをしているので、アナロジーというデーモンの力を借り、不意をついて捕まえるしかない。(田中義廣)/p294

前代のゴシック小説において、彼岸と此岸の接する地点として月光の墓地や荒れた古城が好まれたのに対しフランスの幻想は都会の中の別世界としての骨董品屋からはじまる物語を好んで語って行く。(篠田知和基)/p325

『イリュミナシヨン』に収められた「花々」とこの「花について詩人に語られたこと」では、さまざまなイメージが絡み合って、不思議な「美」の有機化合物を作り出している。鉱物(金、水晶、青銅、銀、瑪瑙、エメラルド、ルビー)、織物(絹、紗、ビロード、繻子、敷物)、人体(灌腸、肺病、涎、糞、扁桃腺、肩甲骨、葡萄唐)、植物(百合、石竹、鶏頭、リラ、薔薇、ユーカリ、薊、まんねんこう)といったイメージの連鎖のそれぞれに独特の色彩用語が絡みついて、引火性の爆発物が出来上がる・・・近代有機化学の未曾有の発達を背景にしていることも見落とせない(山中哲夫)/p377

凹型にまわりを囲むことによって凸型の美が現れる(山中哲夫)/p392

60年代から70年代にかけて、ロマン主義時代の悪魔は姿を消した。キリスト教と結びついた幻想性は、フローベールとバルベ・ドールヴィイをもって終わる。・・・70年代の「幻想性」はまったく異なった方角からやってきた―レアリスムである。ロマン主義時代の幻想の担い手であった「悪魔」は、レアリスム時代には「科学」に取って代わられる(山中哲夫)/p396

 巻末の参考文献で篠田知和基が大学の紀要に面白そうな論文をたくさん書いていることを知りました。国会図書館関西館に行けば読めると思いますが、どこかの出版社がまとめて本にしてくれないものでしょうか。