:W・L・シュワルツ北原道彦訳『近代フランス文学にあらわれた日本と中国』(東京大学出版会 1971年)


 このところの比較文学づいた勢いで読んでみました。
 著者は、幼少時に日本で育ち、アメリカの大学を卒業後、日本にしばらく滞在して学校で英語を教えていたという経歴の持主。フランス比較文学の大家バルダンスベルジェ教授の弟子だそうで、この本もバルダンスベルジェ、ポール・アザール両教授監修の『比較文学誌叢書』の一冊としてフランスで刊行されています。

 ゴーチェ以降、中国、日本が出てくるフランスの小説、演劇、詩作品や、極東に関する作家たちのエピソードが紹介されています。その特徴に従って大きく四つの時期に分けています。伝聞を通して極東を描いたゴーチェの時代、日本美術に触れ啓発されたゴンクールの時代、実際に極東を訪れたロチやファーレルなどの時代、俳句の多大な影響を受けた時代。

 読者のことを思ってか、要約をところどころ織りまぜながら書き進めているので、分かりやすく読めました。概要を知りたければ、最後の「結論」の章(6ページ分)だけ読めばよいようになっています。しかしこの本はディテールが面白いのです。

 知らないことがたくさん出てきて、アメリカ人なのに、日本の本やフランスの本をよく読んでいることには感心します。十九世紀以降のフランス作家たちの様々なエピソードが紹介され、またたくさんの作品の紹介、詩の引用があります。

 とくに20世紀初頭フランスでの極東ブームと、俳句の影響で短詩が続々と作られている様子には驚きました。「日本詩が、他国の文学に、これほど異彩をはなったことがあるだろうか?」(p353)と著者が言うとおりだと思います。知らない名前の作家がたくさん紹介されていて、その百花繚乱振りは凄い。そのなかで、先日買ったPaul-Jean Toulet『Les Contrerimes』(ポール=ジャン・トゥーレ『反音韻詩』)のことが俳句の影響を受けた詩集として紹介されていました。何でも買っておくものです。

 鈴木信太郎の『フランス詩法』を読んでいて、偶然五七五七七の音綴の詩句を見つけ、日本の短歌の音韻と冗談で比較しておりましたが、ジュディット・ゴーチェ(テオフィルの娘)は日本の短歌八五首を翻訳するのに、五七五七七音綴の五行詩としたそうです(p79)。その際ソルボンヌに留学中の西園寺公望が手伝ったことは、先日読んだ鹿島茂の『妖人白山伯』にも出てきました。

 こうした極東とフランス相互の文化的影響の基礎になっているのは、やはり実際の往来が頻繁になったことでしょう。フランス人が極東に出かけたことはもちろんですが、パリで何度か開催された万国博で多くの人が他国の文化に触れたこと、また極東の人たちが20世紀になって急増したことです。この本では大戦(第一次)以来、多くの中国人がパリに留学したことに触れています(p13)。フランスの在留邦人が、第一次大戦前は40人程度だったのが、大戦後は2000人とふくれあがったことは、渡邊一民の『フランスの誘惑』(p90)に出ていました。

 細かいところで初耳のことが結構ありましたが、ドーデがドイツの学者シーボルトと親しかったこと(p122)や、フランシス・ジャムが、ジッドやマルセル・シュオブから中国詩の翻訳の写しをもらったりした影響で、四行詩を作ったこと(p359)など。

 それからこの時代は麻薬の時代でもあったのでしょうか、本筋から離れますが、阿片や麻薬を題材にした作品もいろいろと教えられました。サン=サーンスが『黄色い皇女』(台本はルイ・ガレ)というオペレッタを書いていて、そのなかで麻薬の作用で自分が日本にいるような錯覚に陥る場面があること(p127)、トゥーレに阿片の魅惑について書いた詩が二十ほどあること(p208)、クロード・ファーレルの阿片の吸煙にまつわる十七の物語からなる『阿片の煙』(p216)、モーリス・マーグルに麻薬にたいする興味を歌った『阿片の夕』(p285)、アデルスワード=フェルセン伯の阿片の魔力についての詩集『ヘイ・シアン、黒い香り』(p285)などがあることを知りました。

 悪い面を言えば、数多くの作品を引用紹介し、その作者の極東に対する理解の程度を日本に詳しいことを一種の武器として判定していますが、間違いを指摘するのに熱中してしまっている部分があることです。