:荒川洋治3冊と長田弘1冊

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荒川洋治『言葉のラジオ』(竹村出版 1996年)
荒川洋治『夜のある町で』(みすず書房 1998年)
荒川洋治『忘れられる過去』(みすず書房 2003年)
長田弘『笑う詩人』(人文書院 1989年)

 山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』で、荒川洋治の書物エッセイ3作『夜のある町で』『忘れられる過去』『世に出ないことば』が紹介されていて、面白そうに思ったので、うち2作と他1作を読んでみました。

 荒川洋治の文章は、である調ですが、とても優しい文章です。それは本音でものを言おうとする正直な姿勢と、確かなことしか言わないでおこうという気持が文章の奥に感じられるからです。また自分をあまり前に出さない(結果的に前に出るわけですが)奥ゆかしさの美学というものにも貫かれています。

 本音でものを言うことについて、『夜のある町で』のなかで次のように書いています。

関西は、正直の文化。ほんねをさらす。自分を笑ってみせる。そんな関西風のライフスタイルを知らず知らずのうちにぼくも身につけたように思う。詩を書くときもそうである。/p123

 正直な目線で物事を観察しようとする姿勢によって、着眼がありふれたものにならず、また文章に鋭さと深みを感じさせるところがあります。例えば『忘れられる過去』の「『詩人』の人」で「詩というのは無理をせず、遠慮もなく、いまの自分にわかる一節だけを読み・・・わからないところは読まなくていい。詩はわかるところだけを読むことに実はいのちがあるもので、それを知るためには、ある程度読みなれる必要がある。」(p220)とまで言い切るようなところ。

 こうした文章の心得は、『夜のある町で』の「おかのうえの波」で十分論じられ披露されています。いくつか引用しておきます。

ひよっこのぼくにも文章を書くときの心がけのようなものはある。①知識を書かないこと。②情報を書かないこと。③何も書かないこと/p171

私はこれだけのことを知っているという高座からの文章を世間ではよく見かける。知識に頼りそれを振り回していると、知識という「過去」の重みで、文章を書くその人のいまの考えや姿が見えなくなる。・・・ときどき自分を忘れて知ったかぶりをする。そうならないよう、自分の文章が自分の場を離れないように、お祈りする。/p172

「情報」を持つ文章もいまは花形である。・・・情報の文字だけあって、その人が文章のなかにいないことが多い。/p172

詩は知識とも情報とも無縁。「持てる」ものを排除して見えてくるものをこそ求めようとする。そうではない場所からやってくる文章に対してはおのずと、はながきくようになるのだ。/p172

 この3冊を通じて、著者の関心は一貫して、言葉や文学、それを取り巻く本の世界にあります。そのなかで著者の得意とするのは、普通見過ごすような何気ないところに気づくところです。
 例えば、文士の外出の記録を辿ることで、昔電話のなかった時代の突然の訪問が新たな出会いを作っていたことを例証したり(『忘れられる過去』「芥川龍之介の外出」)、年譜の中の独特の表現に着眼して当時の状況を推測したり(『忘れられる過去』「遊ぶ」)、文学全集のラインナップの変遷を辿り時代の変化を探ったり(『言葉のラジオ』「文学全集のラインナップ」)、作家の顔写真がその作家のイメージを作ることに着目したり(『言葉のラジオ』「顔写真さまざま」)、テーマ別の読書案内(『言葉のラジオ』「読書相談室」)や、文学者の転職歴(『言葉のラジオ』「文学者の『とらばーゆ』」)など、ユニークな切り口のエッセイがとても面白い。

 とくに印象に残ったエッセイをピックアップしておきます。
『言葉のラジオ』
○「持ち帰る」「年齢と読書」「読書相談室」「文学ファミリー一覧」「お茶のような言葉」「ちょっとそこまではどこまで?」
『夜のある町で』
◎「それからの顔」「おかのうえの波」
○「白い夜」「春の声」「慈愛の顔」「友だちの声」「横光利一の村」「酷女美那子」「信州の畠」「ロシアの至宝」「自分の頭より大きな文字」「どんな人」「エッセイ革命」「暮らしを写す」
『忘れられる過去』
◎「畑のことば」
○「たしか」「会っていた」「芥川龍之介の外出」「遠い名作」「遊ぶ」「おとなのことば」「詩集の時間」「ひとり遊び」「なに大丈夫よ」「詩人の人」「詩を恐れる時代」「手で読む本」


印象に残ったフレーズも。
『夜のある町で』

いまおとなは、自分のほんとうのよろこびとは何かを考えるとき、大きな状況ばかり想定する。・・・それがかえって心をちいさくする。/p25

政治や社会の動きには明るい。だが自分個人の関心や興味はどこにあるのかわからない。あってもそれに自信をもてない空気をみんなでつくりあげている。/p63

絵を見よ、実物がすべてだ。ぼくもそう思う。でも、このときはそうではなかったのだ。(引用者注:画家レーピンの自伝を参照しながら絵を見たときの話)・・・至宝は実物のなかにだけあるというのはひとつの信仰である。宝物は身近な、自分の心のなかにだってある。/p158

文章から立ち去る読者があとに舞い戻るとしたらそれは、文章のなかみとの再会を期するためではない。リズムにまみえるためだろう。/p174

『文章の書き方』なんていう本はあまり読まないほうがいいと思う。自分は文章が書ける、という前提でものをいう神経のずぶとい人たちのことばだからまず信用できない。/p179

『忘れられる過去』

情報を制限する書き方だ。(引用者注:「たしか」といった表現や、県境を越える時の説明文で県名を省略したこと)いまはこういうことはしない。ぼんやりしたことは嫌われる。闇を含むものは好まれはしない。だがひところまで文章はこのくらいの「明るさ」のなかに立って、知るべきものを照らしていた。/p13

最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。/p15

 『言葉のラジオ』「年齢と読書」で60代の読書人の境地を説明するのに、「いこいの読書。人生の色合いがわかり、ちがう世界にいる人たちの言葉も深くとらえられるようになる。ゆとりをもって言葉を味わえる年代」(p85)とありましたが、私とは縁遠い境地なので、深く反省しております。



 長田弘『笑う詩人』は、荒川洋治を読んだついでに、先輩格(出身大学も詩人であるということも同じ)ということなので、同じような世界があるかと思い読んでみました。なぜかこれまで多くを目にしていながら、この方の本は読んだことがありませんでした。

 期待どおり、本の世界が中心だということ、文章が優しいトーンであること、素直さが滲み出ていること、が共通していました。

 著者自身あとがきで、「話し言葉によるエッセーとして書かれたものです。」(p232)と書いているように、基本はですます調で胸に沁みる優しい雰囲気を漂わせながら、マンネリに陥らないようにである調もまぜ、であるとですを上手に使い分けています。

 荒川洋治の本でも巻頭エッセイ(『夜のある町で』の「白い夜」、『忘れられる過去』の「たしか」)で、いきなり本のなかに引きずり込まれまれたように、この本でも中国飲酒詩のゆったりとした世界を紹介した巻頭の「笑う詩人」で、一挙に引き込まれてしまいました。

印象に残ったエッセイは、
◎「笑う詩人」「本が好きですか?」「one to one」
○「「敵」という名の怪獣」「微笑について」「「本屋さん」という場所」「Xへの弔辞―鮎川信夫」「一本の大きな木」

印象に残ったフレーズ

そこに人間がいると確かにかんじられる風景というのは、ものみなが静かに笑っているような風景が、そうじゃないだろうか。そうおもうのです。/p93

一から十まで隙なく理解しなくちゃいけないなんてしかたで本を読まされたら、たまらないとおもう。わからないままに読んで夢中になることだってある。そういうところに、むしろ本の不思議な魅力はあるし、たとえまったく読んだことがなくても、ずっと気にかかる本だってあるというのも、本の奇妙な魅力なんです。/p97

「要約すれば主題はこうである」みたいな読みかたは、けっしてよくないんです。・・・そういう読みかたをつづければ、まず確実に、かんがえるということの快楽や、文体への感受性といったものは落っこちてってしまうのです。/p98

出来合いの合言葉にたよってかんがえるんじゃなしに、合言葉にたよる生きかたを疑うことによって、手ずからかんがえる。みずから疑うところからちがった言葉とつきあうということがはじまるのであって、読書というのは本来、そうしたちがった人びとのもつちがった言葉にむきあう一人の経験を土台としています。/p105

どんな本もよみてとおなじ背丈けしかもたない。読みてがこれだけであれば、本もまたこれだけなんですね。というのも、ひとが本に読みうるのは、つまるところその本をとおして読みうるかぎりのじぶんの経験だからで/p106

ゆっくりした時間をとりもどす、それが読書の原点なんです。たとえば、再読のたのしみ。/p107

本を探す楽しみも、・・・その本を読むたのしみのうちにあるとおもう。/p108

「間」とか「呼吸」とか「気配」とか、活字にあらわれない表現が、口をとおすと、はいってくる。・・・「語り口」をつかまえて読むと、遠いとおもってる本だってちかづいてくる/p111

私の盃はおおきくはないが、私は、私の盃で飲む(ミュッセ)/p161

現在のなかにあって、記憶はみえないものでしかないかもしれない。しかし、一人のわたしをいま、ここにつくっている生きられた経験が記憶なので、わたしたちはほんとうは、いま、ここに記憶と現在の二つの時間を、同時に生きています。/p230

 それでは、荒川洋治長田弘の違いはと聞かれると、世代的な感覚の相違とでも言えるでしょうか。例えば長田弘には、「国家」や「権力」という言葉遣い、スペイン市民戦争への思い入れ等全共闘世代以前の特徴がよく出ています。その作品にはあまり感心しません。
 そういう政治的な視点があるように、長田弘には、荒川洋治の言う「大きな状況」に捉われているところ(逆の目で見れば、荒川洋治には身辺的な、ビーダーマイヤー的な、ミニマリズム的なところ)があると言えるでしょう。
 海外の趣味では、長田弘が欧米なのに対して、荒川洋治は韓国がよく出てきます。これも世代的なものと言えるでしょう。