:亀井俊介、沓掛良彦『名詩名訳ものがたり―異郷の調べ』(岩波書店 2005年)


 明治初期、西洋詩の翻訳によって、それまで漢詩と和歌しかなかった日本の詩に新しい詩の形が導入され、そのことが口語自由詩への道を開き、またその後も海外詩に刺激を受けて詩作上新しい試みがなされるなど、翻訳詩は日本の近代詩に大きく影響を与えてきたと言われています。

 この本は、そうした通史もふまえながら、著者たちのお気に入りの訳詩集を取り上げ、翻訳された個々の詩がいかに優れているか、原詩との比較をしながらその翻訳の特徴を指摘したものです。

 作品の魅力を一行一行丁寧に解き明かしてくれていて、芳醇な美の世界に酔い痴れることができました。この本の魅力は、これまでの富士川英郎福永武彦の類書と同様、自らがその翻訳詩に淫しているところにあります。

 森鴎外上田敏永井荷風の果たした役割の大きさ、凄さ、日夏耿之介、斉藤磯雄の訳しぶりの素晴らしさに、再び感じ入ることとなりました。

 あの永井荷風でさえも訳し間違えている!(著者は大作家に遠慮があるのかそこまでは書いてませんがどう見ても間違いとしか言いようがない)のを見て嬉しくなってしまいました。荷風の弁護のために言うと、この本のなかでいちばん感銘を受けたのは、荷風の訳したボードレールの「死のよろこび」でしたが。

 いつも思うことですが、論理的な文章のなかで、それに関連して詩の数行が引用されている場合、その数行の詩句が、元の詩のなかに置かれている時よりもいっそう輝いて見える気がすることがあります。これは何らかの意味の下地があるところで、詩行に入っていったほうが詩に近づきやすいということではないでしょうか。そういう意味で評釈というものが果たす役割というものは大きいと思います。

 とくに私の場合は、俳句などを読んでもよく分からないことが多く、評釈を読んでからその味わいが一段と分かってくることが多いようです。詩の評釈というのは将来もっと増えて一つのジャンルを形成していくような気がします。評釈がなければ作品として成り立たないものはどうかと思いますが。

 現状では、俳句や短歌の評釈に比べ、詩の評釈にお目にかかる機会が少ないように思います。作品の全体的な印象や作品を取り巻く外部の要素についての解説は目にしますが、作品そのものを各行の各言葉に沿って解釈したものはなかなかお目にかかることはありません。詩雑誌などでいろいろな詩人による評釈シリーズをぜひ企画して欲しいと思います。

 この本の中でとくに味わい深かったのは次の詩とその評釈です。
ゲーテ「ミニヨンの歌」(森鴎外訳)、ヴェルレーヌ「落葉」(上田敏訳)、ボードレール「死のよろこび」(永井荷風訳)、ポー「陪蓮(ヘレン)に餽(おく)るうた」(日夏耿之介訳)、ヴァルモール「サアディの薔薇」(斉藤磯雄訳)

 そのほか印象深かった詩に関する文章は次のとおり。
シェイクスピア「オフエリヤの歌」(森鴎外訳)、ゲーロク「花薔薇」(井上通泰訳)、ハイネ「ロオレライ」(近藤朔風訳)、アポリネール「ミラボオ橋」(堀口大學訳)、コクトー「耳」(堀口大學訳)、ヴィヨン「兜屋小町長恨歌」(矢野目源一訳)、シモニデス「テルモピュライなるスパルタ人の墓銘に」(呉茂一訳)、魚玄機「秋夜」(那珂秀穂訳)、オマル・ハイヤームルバイヤート」(小川亮作訳)、李清照「酔花陰」(日夏耿之介訳)、ヴァルター「ぼだい樹の木かげ」(高津春久訳)、リルケ「涙の壷」(富士川英郎訳)
ほとんどになってしまいました。