:松浦暢『水の妖精の系譜―文学と絵画をめぐる異界の文化誌』


(ブグロー「黄昏の水の精」)

 この本の良いところは図版が多数収録されていて、その大半があまり見たこともないものというところにあります。ウィリアム・ブグローやエドワード・ポインター、ギュスターヴ・モッサ、陣内松玲など、この本で初めて知りました。


 詩も数多く紹介されていますが、絵と違って残念ながら胸に響くものはありませんでした。私の感受性とうまく合わないだけだと思いますが、断片的な引用なので全体が分かりづらいことや、訳文のせいもあるかもしれません。


 本論の説明も平板な印象があります。これは時代別作家別に羅列した書き方に由来するものだと思います。この書き方は松浦氏の前著『宿命の女』にも共通していて、何か大学の英詩購読の授業を受けているような気分になりました。


 絵の紹介はイギリスに留まっていないのに対し、肝心の中身が英文学の範疇にとどまっているのが残念です。浦島太郎や泉鏡花谷崎潤一郎蒲原有明の人魚に少し言及がありますが、こういうテーマであれば、比較文学的な視野を広く持ったものにして欲しいと思います。とくにオンディーヌにほとんど触れられていないのは疑問です。


 著者の主張は、水の精を「宿命の女」の一変形と見て、その類型を大きく「愛に殉じる純情型」「男を破滅させる妖婦型」の善・悪両面に分け、その両面の危ういバランスに人魚の魅力を見出そうとしています。

キリスト教的なイコノグラフィで、人魚は「女性の姿をした蛇」で、蛇が人魚のルーツである。蛇には<邪悪・誘惑・欺瞞>の下降調のイメージと、<永遠・再生・母なる女神>という上昇調のイメージがダブっている。・・・限りない両価性こそ、人魚のもつ不思議な魅力の源となり、その謎を深めている因子となっているようである。/p18

 そして、どちらかといえば水の精に悪女タイプが多いのは、人間の海に対する水恐怖症や死恐怖症と、深層心理的に結びついているからと言います。

海はゆりかごと墓場、生命の源と破壊者という両価性を持ち、人間の有限の岸辺と神秘的で無限の領域を結ぶ存在である。また精神的再生と復活を約束する一方で、忘却と不滅性のシンボルとなる。この意味で人間は、水を怖れるとともに、水への回帰をひそかに願っている。/p18

 水の精の物語に異界と結びついた話が多いのもそういう理由からでしょうか。


 また著者は、水の精を歴史的にたどります。古代ギリシア人は、シレーネ(人魚)を、顔は女で身体は鳥の残忍な忌まわしい怪物ハーピィと同一視していたが、ホメーロスがこのシレーネを美しい歌声を持つ誘惑の魔女、恐ろしい海のファム・ファタルとしたと言います。
その後、プラトン、プロクロスでは、サイレンを運命を司る天空の妙音を発するミューズ(音楽の女神)と同一視し、邪悪のイメージを払拭しますが、中世には<異教と情欲のシンボル>としてキリスト教布教に悪用されることが多くなり、その次のルネサンス期になると、再び善意に解釈するようになります。
その後、女性蔑視から人間化された女性像へと移るにつれてより温かい目で再評価されるようになった。とくに19世紀のロマン派文学ではこの傾向が強く・・・というように、善良な面と邪悪の面が交互に交代しながら、イメージが変遷してきた経緯を説明しています。


 世紀末に悪を賛美する視点が加わったことによって、この善悪二元論がより複雑になっていることについて、もう少し言及があればよかったと思います。


 ミルトンの「コウマス」に「麗しのサブリナ」が登場することや、D・G・ロセッティに海の精「リジア」という作品があること(これはポーのリジアと何か関係があるのか)など、新たな知識を得ることができました。