:音楽関係の本4冊

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茂木大輔『オケマン大都市交響詩オーボエ吹きの見聞録』
宮本文昭オーボエとの「時間(とき)」』(宮本文昭宮本文昭の名曲斬り込み隊』)
佐渡裕『僕はいかにして指揮者になったのか』


 宮本さんの本は仕事の関係で、そのほかの本はたまたま手元にあったのや、買ったばかりだったので、何気なく読みましたが、この4冊は音楽の本だということだけでなく、とても似かよったテイストがあります。


 それは海外音楽武者修業というところです。要素は4つあります。ひとつは単一の技能を磨いて競争するという性格、もうひとつは決定的な師との出会い、三つ目は海外の異文化での大変な苦労、最後は、とくに取り上げることもないですが若者の成長物語という点です。


 単一の技能を磨いて競争するというのは、彼らが受けるオーディションに象徴的に現れています。皆さんあちこちのオーディションを受けまくります。あるオーディションで争った人とまた別の会場で出会ったりします。自分の才能ひとつでライバルと競い合いながらあちこちを渡り歩くというのには、剣豪小説のような趣きと面白さがあります。通常音楽の世界は融和や調和の世界と思われがちですが、ここにはオリンピックに見られるようなスポーツと共通する優劣の世界があります。


 師との出会いで言えば、茂木がパッシン、宮本がヴィンシャーマン、佐渡バーンスタインという指導者との出会いがその後の彼らの人生を決定的に変えて行きました。良い師につくということの素晴らしさがどの本からも溢れています。私にはなかったことなので、羨ましく感じられました。
 同時にヨーロッパには今も徒弟制度が染み込んでいることがよく分かりました。音楽の世界でこれだけ残っているわけですから、一般職でも欧米人がよく転職するというのは、どこかこの徒弟制度の精神の影響があるんだろうなという気がします。


 三つ目の海外異文化のなかでは、3人3様に苦しみます。クリスマスパーティだと思って喜んでいたら強化合宿だったり、野菜のつもりで注文したらザーサイが山のように来て仕方なく食べたとか、フォンデュの食べ方を知らずに鍋が煮詰まるのを指を咥えて見ていたとか、とくに言葉の障壁など本人にとっては筆舌に尽くしがたいところがあるのでしょうが、どこか滑稽なところがあります。


 この3者を強いて分けるとすれば、茂木、宮本と佐渡は少し違います。明らかに楽器と指揮という違いは別にして、前2者がコミカル(宮本のは『名曲斬り込み隊』に顕著)な文章なのに比べ、佐渡はまじめで情熱的という語り口の違いがあります。



茂木大輔『オケマン大都市交響詩オーボエ吹きの見聞録』


 ヨーロッパでオーケストラのメンバーになろうとしたオーボエ修業時代、初めての土地での修業の苦労や、ヨーロッパやアメリカなど各地の演奏旅行での思い出が、都市の風景、日本文化と西欧文化の差などととともに語られます。


 宮本文昭と同じようなシチュエーションですが、10年若いのですれ違っていないのか、それともわざと無視しているのか名前も出てきません。


 オーボエ奏者として聴衆を喜ばそうという基本的な姿勢が身についているのでしょうか、宮本文昭茂木大輔もたいそう文章が面白い。茂木の文章はひとつのことから想像力を飛躍させていって、どんどん状況をデフォルメして行くやり方が特徴。その極端になった例が、ナンセンス小説「第九のステージを兎が舞うとき」でしょう。


 ドナウを見たいという父を失望させた話、ニューヨークで劇場的詐欺に合う話、東西ベルリンがあった時代の東と西の話などが印象的でした。



宮本文昭オーボエとの「時間(とき)」』


 『宮本文昭の名曲斬り込み隊』に比べると随分まじめなトーン。始めてヨーロッパに渡って貧乏生活をしながら、オーボエに熟練して行く様子を思い出し描いています。茂木大輔とシチュエーションは良く似ていますが、茂木が生活を物語るのに対して、宮本は楽曲そのものにより重点をおいて語るところが違うところでしょうか。また宮本の失敗談の方がより具体的に生々しく語られています。


 はじめの三章が音楽武者修行の物語、ヨーロッパ文化や音楽の話を挿んで、最後の三章はオーボエである程度名前が知られるようになってからの思い出です。



宮本文昭宮本文昭の名曲斬り込み隊』


 宮本文昭氏の軽妙な語り口が存分に発揮された書。もともと座談が面白くてノリのよい人ですが、その本人が目の前で喋っているような文章です。
 章毎に、剣豪小説風(これは宮本武蔵と同じ姓から来るお遊びですが)、ベートーヴェンとの対話など、設定を設けて文体を変えて行く工夫があり、並みの文筆家をしのぐ冴えを見せています。


 オケマンの内輪話、オーケストラの秘密について音楽評論家や指揮者からは聞けないような面白い話、鑑賞者としては普段知ることのできない音楽の表情が満載です。


 はじめの3章が、指揮する立場から楽曲を分析したもの、そして矢部達哉さんとの特別対談(これがまた面白い)を挿んで、後半の章は、『オーボエとの「時間』』の続編のような味わいで、過去の経験を振り返りながら、楽曲のことにも触れています。


 次のような一節は、まさしく剣豪小説と相通じるものがあるのではないでしょうか。

余分な力がいい具合に抜けていて、良い集中があって、余計なものが見えなくなっている。そういう状態を自分の中に作り出すのが大切なんです。そのような無理のない自在な状態が保てたときに、何か自然で美しいものが、強引に生み出そうとしなくてもおのずと生まれてくる。そしてそのためには、徹底した練習しかない。それを通り過ぎたときに初めて何か自由になれる/p256


佐渡裕『僕はいかにして指揮者になったのか』


 まさしく武者修行物語にぴったりの物語です。京都の商店街に生まれてクラシックにめざめる生い立ちが語られます。クラシックの追っかけのような学生時代をすごして、フルートで音大を卒業、しかし指揮者になる夢を捨て切れず、貧乏生活をしながらもアマチュア吹奏楽団などの指揮をし続ける日々が語られます。そしてついにあるきっかけで指揮者街道を進むようになるという成功物語です。


 佐渡裕さんの第九のレッスンを見たことがありますが、あのときと同じ熱のこもった文章で、音楽が好きだということがひしひしと伝わってきます。

たとえば、会場に二千人の聴衆がいて、ステージに三百人の演奏家がいる。彼らが一斉に、たった一音しか鳴らさないとき、あるいは、だれも音を鳴らさないという静けさの中にこそ、クラシックの演奏会でしか味わえない醍醐味がある。/p18

 

ホールでは、音が物理的に耳に入ってくるのではなく、ステージにいる人が心で震わせた空気が、客席にいる聴衆の心を震わせるからである。/p19

ある人が心から愛していた人を失ったとき、その人は「私は悲しい」とは言わない。・・・悲しみに暮れる人には言葉は無意味である。・・・その人の心の中には言葉が存在しているのではなく、悲しみのメロディが流れているからである。/p23


 この4作に共通しているのは、またいずれも成功物語だということです。苦労の時代を抜け出て花開くというところに読者が自分を重ねてカタルシスを感じるのでしょう。では、失敗した人の物語はどうなるのでしょうか。現実にはほとんどの人が失敗もしくははじめからあきらめているわけです。その答えが、佐渡さんの言葉にあるように思います。

 指揮をしたいという思いが圧倒的に強く、指揮をすることそのものが僕の夢だった。だから、若い頃に出会ったママさんコーラスや、アマチュア吹奏楽団でも、どこでも、指揮ができるのであれば振り、そこでできる精一杯のことをやっていた・・・「指揮者になりたい」ということが「小澤征爾になりたい」ということであれば、それは・・・言い方を変えれば、それは「王様になりたい」のと大して変わらない。・・・小澤征爾バーンスタインという人たちの地位や名声に憧れたのではなく、彼らが創っているものに憧れたのだ。/p249