:喜多尾道冬『音楽の悪魔』


 魂を浄化するような清らかな音楽とはまた違った、魔的(デモーニッシュ)な魅力から見た音楽をテーマにしています。


 タルティーニから始まり、モーツァルトベートーヴェンを経て、シューマン、リスト、ベルリオーズワーグナーなどロマン派の作曲家群を経て、最後は20世紀のペンデレツキ、シュニトケに至るまで、多くの作曲家の作品の中に表れたデモーニッシュな部分を網羅的に記述した一種の偏った音楽史となっています。


 作品名はたくさん出てきますが、その中には実際の音楽を聞いたこともなければ、名前も知らないようなものが続々と出てきて、目が回りそうになりました。


 例えば、シューベルトの作品で魔的な音楽として取り上げられたのは、「ハガルの嘆き」、「乙女の嘆き」、「埋葬幻想」、「父殺し」、「墓堀人の歌」、「亡霊の踊り」、ジングシュピール『悪魔の別荘』、『鏡の騎士』、「魔王」、「死と乙女」、「美しき水車小屋の娘」の中の「萎れた花」、萎れた花によるフルートとピアノ変奏曲、弦楽四重奏曲第15番、弦楽五重奏曲第2楽章、最後のピアノ・ソナタ冒頭楽章、未完成交響曲といった具合です。


 ネルヴァルの作品か評伝かで、ロザリオを手にした大勢の修道女が登場するオペラについて読んだことがありますが、その「悪魔のロベール」という一世を風靡したオペラの詳細や、同時代の同様の雰囲気を持ったマルシュナーのオペラ「吸血鬼」、あるいはまたポーの影響下で作られたカプレ「赤い死の仮面」、フローラン・シュミット「幽霊宮」、ドビュッシー「アッシャー家の崩壊」への言及など、その分野の作品を広く渉猟した労作であることは間違いありません。
 カプレは2種類のCDを所持していますが、他は知りませんでした。どんな音楽なのかとても聞いてみたい気持ちになりました。


 作品だけではなく、演奏が持つ魔的な要素について1章を設けているのは、音楽表現を語る上で不可欠な要素であり、慧眼であると思いました。もちろんここでは歴史的なヴィルトゥオーゾとしてパガニーニやリストが取り上げられています。現代の演奏家ではグールドが取り上げられていました。


 なぜ魔的な表現が誕生したか。そもそも神と悪魔の関係から始まり、18世紀以降新興市民階級の台頭という社会的な背景や文学との係わりなど、多面的な視野から探っていきます。
 音楽の専門的な視点からも、トレモロやトリル、グリサンド、トリトヌスなど音楽の要素が魔的な音楽を形づくる要素として取り上げられていてなるほどと思いましたが、調性や和音、音色、リズムなど、音楽そのものから魔的な印象を受ける理由を追求する記述がもう少しあってもよかったかと思います。


 さらに贅沢な不満を言えば、前半は作曲家ごとに焦点を当て時代順に語り、後半はファウスト、レオノーレ、ウンディーネ、死の舞踏、性的オブセッションなどテーマ別に記述しようとしているのですが、後半のテーマ別の中にも作曲家別の要素が残り、また一つのテーマを語るうちに別のテーマが出てきて脱線するなど、そのあたり混乱して少々分かりづらかったことです。よくあることですが、知っていることをあれもこれも盛り込もうとして、全体像が分かりにくくなったのではないでしょうか。


 音楽の魔的な側面を語る前に、まず音楽そのものが魔という気もします。イソップの「アリとキリギリス」では音楽に浮かれていたキリギリスが勤勉なアリに叱責されます。これは勤勉道徳の見地からの話でしょうが、宗教との関係でも、仏教では僧侶が音楽を聞くことを禁止されていたり、東方正教会では楽器の演奏が禁止されていたりなど、音楽を魔的なものとして遠ざけるということがあるように思います。
 これは音楽の魅力が麻薬のように強すぎるからでしょうか。あるいは音楽が直接魂に触れるものだからでしょうか。