:今野一雄『ルソーとの散歩』

ikoma-san-jin2010-01-03


 昨年末に読んだ本。久しぶりに心洗われたような気分になる読書ができました。何よりも著者の人柄が表れた文章のやさしい響きが素晴らしい。私の好きな久保和彦の随筆を思わせる穏やかさがあります。


 素直であろうとする態度、分からないものは分からないと言い切る度胸、愛するものを慈しむのがこぼれ出ているような文章。とくに後半の身辺に関する随筆にそういった味わいが滲み出ています。

 はじめはみんな自由、平等だった。・・・もともと誰のものでもない土地、みんなのものである土地を、個人が所有するということが始まって、しかも、いちばんよく働く者がいちばん広い土地を所有するというふうにはならないで、ずるい者、図々しい者が広い土地を占領して、これはおれの土地だと宣言し、さらに、その土地を守るために、他の人たちをだまして、自分に都合のいい法律を作り、国家を作って、しまいには権力を独占して、ほかの人たちを支配するようになる。(ルソー『人間不平等起源論』の今野一雄要約)/p24

 ルソーの土地所有に関する議論を読んでいると、マルクスの少し前には、すでに土地の独占に対する批判的な思想は一般のものとなっていたということが分かります。

 学問や芸術が進歩して、生活は華やかになり、教養は高まり、礼儀作法は正しくなり、立ち居ふるまいは優雅になった。しかし、そういうことは、表面的なことに過ぎない。人々は昔の人ようなたくましさ、気力を失い、うわべは愛想がいいが、心は陰険な人間になってしまった。・・・人間にとっては、学問や芸術よりももっと大切なことがある。(ルソー『学問芸術論』の今野一雄要約)/p22

 ここで語られているのは、一言で言えばポピュリズム(現在よく使われる大衆迎合という意味でなく)の思想です。人間の欲望が次第に形成してしまう権威というものに反抗し、自然状態の庶民大衆を最も高いところに置いてものごとを考える習慣。権威権力というともっぱら政治的権力を念頭に置きがちですが、ルソーは王権や国家は言うまでもなく、宗教、それに学問や芸術まで、攻撃の対象としていたようです。


 また、著者は自ら怠け者と何度も書いていますが、ルソーがサン=ピエール島で味わったfar niente(無為)の楽しみに対する礼賛の辞として、次のようなことを述べています。

 飲んで騒ぐとか、美女と語り合うとか、金もうけに熱を入れるとか、あるいは人民を指導するとか、そういうことでなければ生きがいはないと考える人には興味ないだろうが、多くのことを願っているわけでもないのに、たえずあくせくしていなければならない者にとっては、うらやましいかぎりと言えるだろう。/p93


 二宮金次郎に関しても面白いことを発見しました。
二宮金次郎はよく歩きながら本を読んでいる像がどの小学校の校庭にもありましたが、どうも書物には信頼を置いていなかったようです。

 ほんとうの道は、学ばなくても自然に分かるし、習わなくても自然に覚えられる。書物もなく、教えてくれる人がいなくても、おのずから分かって、忘れることもない、これがほんとうの道である。書物もなく、学習しなくても明らかな道でなければほんとうの道ではない。私の教えは書物など尊重しない。天地そのものを教典だと思っている。こういう大切な経典をかえりみないで、書物の中に道を求めている学者たちの言うことを私は取らない。(『二宮翁夜話』より今野一雄現代訳)/p201


 この本で語られるルソーや二宮金次郎とを結ぶ線上に、今野一雄も居るのでしょう。著者に対して失礼かもしれませんが、絵画の素朴(ナイーブ)派と呼ばれる一群の人たちになぞらえて、素朴派の思想と名づけたいと思います。そうすると脱構築などを唱える一派あるいは現代詩手帖などで見かける人たちはマニエリスムとかバロックの思想とでも呼ぶべきものになるのでしょうか。