ジャック・フィニイの二冊

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フィニイ福島正実訳『レベル3』(早川書房 1961年)
ジャック・フィニイ福島正実訳『ゲイルズバーグの春を愛す』(ハヤカワ文庫 1980年)


 幻想都市、迷宮都市、架空の国、地図にない町などの本を読んでいますが、これはSFで扱う時間テーマのテイストにかなり近いものがあるように思います。それもハードなタイムトラベルものではなく、日常のなかにほのかに別世界が紛れ込むという不思議な感覚のものがよく似ています。ジャック・フィニイの作品がそれに該当するような気がするので、これからしばらく読んで行きます。皮切りに比較的初期の短篇集二冊。いずれも大昔に読んだものですが、ほとんど初めて読むのと同じ新鮮な感動を味わいました。

 この二冊に収められた短篇は時間SF的作品が中心で、テーマ別に分類してみると、次のようになると思います。(「」の中の*は『ゲイルズバーグの春を愛す』所収のもの)。
①時間SF的作品としては、
ア)過去とのつながりを描いたもの:過去を垣間見る話の「レベル3」と「第二のチャンス」。過去の世界へ行ってしまう「クルーエット夫妻の家*」と「時に境界なし*」。過去が現在に姿を見せる「ゲイルズバーグの春を愛す*」。過去と交信する「愛の手紙*」。

イ)未来とのつながりを描いたもの:未来から来た人が登場する「おかしな隣人」。現在の言葉が未来を変えてしまう「ニュウズの蔭に」。過去の人が未来(現在)へ旅する「世界最初のパイロット」。

ウ)現在の時空を超えたもの:未来や過去が現在に姿を見せる話を集めた「こわい」。時空を飛び越えた彼方のユートピアへ旅する「失踪人名簿」。時空を超えた存在である幽霊が出現する「潮時」と「おい、こっちをむけ!*」。並行世界を語る「コイン・コレクション*」。

②次に、時間SF的要素はないが、現実世界と想像世界の交錯をテーマにしたものとして、
頭の上に雲が現われて考えていることが映像になる「雲のなかにいるもの」、小説世界が現実と交錯する「青春一滴」、身の危険を感じありうべき未来を想像してしまう「死人のポケットの中には」。

③現実世界に起こる出来事を普通に描いたものとして、
超絶技巧の絵描きの物語「独房ファンタジア*」。男の喜びそうな超自然の小道具が出てくる「悪の魔力*」。機転が利く子の冒険譚「もう一人の大統領候補*」。気球の冒険譚「大胆不敵な気球乗り*」。

 なかで、もっとも面白かったのは、過去に書かれた設計図をもとに建てた家に住んだ夫妻が徐々にその時代の素晴らしさに目覚めその時代に没入していく「クルーエット夫妻の家*」と、古道具屋で買った机の隠し引き出しに入っていた手紙に返信し、過去に生きている女性と気持ちを交わし、彼女から墓碑銘でメッセージを受け取る「愛の手紙*」。

 次に、ニューヨークのグランド・セントラル駅の本当にはない地下3階に迷い込む「レベル3」、ユートピアへの旅にあと一歩のところで引き返してしまう「失踪人名簿」、幽霊に影響を与えその人の人生を変えてしまう「潮時」、町に意志が存在するという驚異を語る「ゲイルズバーグの春を愛す*」、死刑囚が解放の瞬間を牢獄の壁面に描き、その念力で奇跡を起こした印象のある「独房ファンタジア*」といったところでしょうか。

 私にとってフィニイの何よりの魅力は、アメリカの過去の穏やかな暮らしへの愛情が溢れている点で、いろんなところで、古い町並みの美しさや、子どもの頃自然と触れ合った思い出が語られ、骨董品への偏愛、古切手やクラシックカーの趣味が披露されています。その過去への愛惜の情があまりにも強いので、現在を突き破って過去が姿を現わすことになるのでしょう。ノスタルジアの対象は異なりますが、私の愛読しているアンリ・ド・レニエと通じるところがあるように思います。

 歴史と伝統の厚いヨーロッパでなく、歴史の短いアメリカで懐古趣味というのも不思議な気がしますが、アメリカに生まれ育ったフィニイがいかにアメリカを愛しているかを示しているのと、アメリカではそれほど近代化の変化が激しいということなのでしょう。それはもはや懐旧趣味、とか懐古趣味というほのぼのしたものではなく、かなり強い意志をこめた反近代主義と言ったほうがいいように思われます。近代的な変化に対する嫌悪感、反発が思想にまで高められている感があります。

 フィニイのもう一つの魅力は、ほろりとさせる人間愛と明るさが感じられるところです。ブラックユーモアも皮肉も、ニューゴシックのような陰惨なところもありません。この素直な感性は、作家になる前に、コピーライターをしていたというのが原因でしょう。というのは、「人を悲観的に、後ろ向きにさせないように」というのが、宣伝の鉄則のひとつだからです。それと、独立したコピーライターではなく、大きな広告会社のなかの一部門で働いていたらしく、そこで社会のいろんな人々と出会い、また会社の中のいろんな軋轢を経験したに違いありません。それらの体験がいくつかの作品(「死人のポケットの中には」、「潮時」など)に濃厚に出ているように思います。

『どこにもない国』と『地図にない町』

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S・ミルハウザーほか柴田元幸編訳『どこにもない国―現代アメリ幻想小説集』(松柏社 2006年)
フィリップ・K・ディック仁賀克雄編訳『地図にない町―ディック幻想短篇集』(ハヤカワ文庫 1976年)


 「どこにもない」とか「地図にない」とか幻の町がテーマと思しきタイトルの本を続けて読んだら、偶然アメリカの作家が揃いました。ヨーロッパの作家と違って、現代の身近な生活が感じられる作品が多いような気がしました。というか日ごろ私の読んでいるヨーロッパの作家たちが古色蒼然とし過ぎているだけかもしれませんが。

 『どこにもない国』の編者の柴田元幸については、以前からスティーヴン・ミルハウザーの日本への紹介者として敬愛していて、期待を持って読みましたが、「過去20年くらいにアメリカで書かれた幻想小説のなかでとりわけ面白いと思うものを選んで訳した」(p303)と「編訳者あとがき」に書いている割には、玉石混交の印象があり、若干失望しました。

 とくにひどかったのが、ウィリアム・T・ヴォルマンという人の「失われた物語たちの墓」で、ポーの作品名がぞろぞろと出てきますが、いったい何を言いたいのかさっぱり分からず、私にしては珍しく途中で放り出してしまいました。ついで、いかれたヤンキーが超能力者として登場するジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」、カルヴィーノ『見えない都市』の劣悪な商業主義的パロディであるケン・カルファス「見えないショッピング・モール」、ゾンビの嗜好をマーケティング・リサーチするという馬鹿さ加減のケリー・リンク「ザ・ホルトラク」。彼らに共通するのは、アメリカ文化の劣悪で軽薄な部分が突出しているところ。

 悪口ばかりではいけません。やはり何といっても、群を抜いて素晴らしかったのはスティーヴン・ミルハウザーの「雪人間」で、これはすでに『イン・ザ・ペニー・アーケード』でいちど読んでいましたが(そのときも◎をつけている)、雪ダルマが次第に繊細な造型を獲得し現実世界のなかで自己主張していく様が描かれ、奔放な想像力が躍動していて、ひとつの世界を浮かび上がらせる小説の力を感じさせます。雪に覆われた白一面の世界から、突如として色が戻ったときの色彩感覚の鮮やかさが印象的です。

 次に惹かれたのは、ニコルソン・ベイカーの「下層土」。たまたまいつもと違う宿に泊まったために起こった悲劇。通された部屋のクローゼットの中に顔に見立てたじゃがいもがあるのを見て気持ち悪くなり、食事のスープがじゃがいもで、食後そのじゃがいもの貯蔵庫を見せられ芽が異様に伸びているのに恐ろしさを感じ。すると夜、じゃがいもの芽が部屋の中にまで入りこんできて、ゾンビのように主人公に襲い掛かって身体の中に突き通り、最後は、初めに見たと同じ皺くちゃのじゃがいもにされてしまうという話。何気ない日常に徐々に異変が忍び寄ってくるという恐怖の盛り上げ方が実に巧みで、グロテスク小説の傑作と言えましょう。

 いろんなものが非物質化し消えて行く現象(認知症の寓意か?)を愛によって阻止しようという不思議な世界を描いたピーター・ケアリー「Do You Love Me ?」、『見えない都市』の発想を地下牢に移し替えたしたようなエリック・マコーマック「地下堂の査察」、鎧をまとった女戦士(イデオロギーの寓意か?)の鎧の下には虚無しかなかったという鮮烈なイメージのレベッカ・ブラウン「魔法」も面白く読めました。

 ちなみに、ピーター・ケアリーはオーストラリア生まれの作家ですが、先日読んだ『迷宮都市』の解説で、「ボルヘス的な色彩の濃い作品を書く」と紹介されていたのを思い出しました。


 『地図にない町』のフィリップ・K・ディックは恥ずかしながら読むのは初めてだと思います。訳者も筆力やテクニックを高く評価しているように、読んでいて楽しい。宇宙船や地球外天体などSF的な設定のある物語と、現実の社会を舞台にした話に大きく分類できると思いますが、私は、日常のなかに異常な別世界が出現するという後者の方に魅力を感じました。

 最高作は、タイトルにもなっている「地図にない町」。7年前の州議会で1票差で採決されなかった議案が採決された場合の並行世界が現実世界に浸蝕してきて、奇妙な現象を巻き起こすのを巧みに語っていて読ませます。「名曲永久保存法」と「万物賦活法」の連作も、名曲を器械に入れると動物になったり、靴を器械に入れると生命を持って動き出したりするという奇想もさることながら、生き生きとした描写が素晴らしい。

 また「クッキーばあさん」は一種の吸血鬼小説であり、ばあさんに若さを吸い取られた少年が力尽き、自宅の玄関前まで来て扉をノックしたものの灰色の塊と化し、風に吹かれて雑草の塊のように転がって行ったという場面は凄絶。ほかに童心に溢れた「おもちゃの戦争」、平穏な生活が突如として戦乱の中に置かれるという訳の分からなさが衝撃的な「薄明の朝食」(おそらく朝鮮戦争の諷刺)、現代版ノアの箱舟とも言うべき「あてのない船」が出色。

 この時代のアメリ幻想小説をもっと読みたくなってきました。

東雅夫編『架空の町』

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東雅夫編『架空の町』(国書刊行会 1997年)


 国書刊行会の「書物の王国」という幻想小説アンソロジー・シリーズの第1巻目。アジアの架空の村の原点ともいえる陶淵明桃源郷の小話を皮切りに、前半では、マンデヴィルの『東方旅行記』や千夜一夜物語など、遠いところにある町の不思議を語った作品、後半部では、萩原朔太郎猫町」を代表として、日常空間に隣接した四次元的な異空間の発見をテーマにした作品を並べています。

 半分ぐらいは読んだことがありましたが、再読しました。どのみち覚えていないので読んだことがあると言っても同じようなものです。なかでもっとも面白かったのは、ダンセイニ「倫敦の話」と、マッケンの「N」。次に続くのは、『千夜一夜物語』の「青銅の町の綺談」、シュウォッブ「眠れる都市」、マンデヴィル「ドゥンデヤ諸島」、山尾悠子「遠近法」といったところですが、これ以外の作品もレベルが高く、楽しく読むことができました。

 幻想小説の味わいの深さの決め手は語りの芸にあると思われますが、この本のなかでも、「青銅の町の綺談」やポーの「鐘楼の悪魔」、ダンセイニ「倫敦の話」、チェスタトン「街」萩原朔太郎猫町」、マッケン「N」など、少し古風な語り口ながら、その芸が際立つ作品が多数ありました。ポーは私の好きな作家の一人で、グロテスクな状況を語る諧謔に満ちた文章に魅力があると感じています。今回マッケンやダンセイニに高い点数をつけたのは、ポーから引き継いだと思われるそうした語り口があったからです。とくにマッケンを翻訳した高木国寿は味わい豊かな訳しぶりをしていて読ませます。

 このマッケンの「N」に、「見慣れた風景はいつもの外観を失ってしまい、毎日通り過ぎる家並みは見たこともない景観を呈するに至る。家々は神秘な変容を遂げて不可思議にも豊かなものへと生まれ変わる」(p157)という一節があり、まさに朔太郎の「猫町」と同じ感興を記していました。実は、最近、私にも似たような体験があって、家の近所を散歩の途中、初めて通った道から大通りに出たとき、一瞬どこかで見たことがあるがどこか分からず、どこか知らない町を歩いているような不思議な感じに襲われたことがあります。すぐに、違う角度から見ていただけで、いつも車で通り過ぎる道と分かりました。単なるボケの始まりかも知れませんが、貴重な得がたい時間だったように思います。

 今回、恥ずかしながら初めて山尾悠子の「遠近法」を読みました。観念偏重の傾向はありながら、入れ子構造の組み立てがあり、そのなかに自己言及的な仕組み(ボルヘス作品の盗用)を採り入れたところ、また宇宙的な(物理的なと言うべきか)奇想に溢れているところは、新鮮な印象がありました。

 逆に、学生時代、デモーニッシュな鬼気迫る文章に圧倒されていたラブクラフトでしたが、「サルナスをみまった災厄」には荒唐無稽な感じが拭えませんでしたし、また絢爛眩いその文章に魅せられていた泉鏡花の「高桟敷」では江戸風の調子の良さに少し興ざめしてしまいました。鏡花であればもっと別の佳篇があったはずですが。またジャン・レイの「闇の路地」も破綻が見られて、あまり評価はできませんでした。

『幻影都市のトポロジー』と『もうひとつの街』

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A・ロブ=グリエ江中直紀訳『幻影都市のトポロジー』(新潮社 1979年)
ミハル・アイヴァス阿部賢一訳『もうひとつの街』(河出書房新社 2013年)


 この二冊に共通するのは、夢のなかの出来事のように、支離滅裂、意味不明、何でもありの、書きたい放題、ともに情景描写的視覚的な筆致があり、映画的な展開が感じられるところでしょうか。とにかく二冊とも読むのに集中力を切らさないような努力が必要な本で、正しく読み取れているかどうか、心もとないものがあります。

 『幻影都市のトポロジー』と『もうひとつの街』の違いを言えば、これらの本が書かれた年代の差や(1976年と1993年)、刊行時の著者の立場の差(54歳で長編8作目と44歳で小説処女作)があるのかも知れませんが、前者が支離滅裂ななかにも何かしら構築性、方法に対する意識が感じられて、落着いて大人びた印象があるのに対して、後者は想像力の奔放さが感じられるものの単線的で若書きの印象がぬぐえません。

 違いを感じるひとつの要素として、翻訳の文体があるのかも知れません。訳者にも時代的世代的な差と(1949年生まれと1972年生まれ)、資質の違いがあるように思えます。江中直紀の文章は、簡潔で凝縮した文体で、牆壁、罅、裂帛、窗、旌旗など、あまり見慣れない漢字を使ったりなどしてギクッとさせるところがありますが、阿部賢一の場合は、いかにも若い世代らしく、よく言えば平明、悪く言えば冗長な文章となっています(私も歳は取っていますがこちらの部類です)。


 ロブ=グリエを読むのは、『迷路のなかで』以来久しぶりです(2014年9月8日記事参照)。今回もそのときの印象とほぼ同じ印象を持ちました。部分部分は厳しいリアリズム的描写で語られていますが、全体は非合理なことの連続で、あたかも夢のなかの世界にいるようです。おそらくこの本の成り立ちは、最初に、デヴィッド・ハミルトンの写真に文章を添える形の「第4の空間」から出発し、それが広がって行ったようです。全体の構成は、戦後の荒廃した街をさ迷う哨兵が「発端」と「コーダ」を一人称で語り、三人称で語られる5つの本編を挟んでいます。ただ本編でもときどき私が顔を覗かせる部分もあります。

 この作品の特徴と魅力をいくつか挙げてみます。
①幻影都市というのはパリらしき場面もあるが特定できず、古代都市の空間、中世の戦乱らしき情景、戦後の廃墟と化した街、現代の舞台の書割、現代の建物という時間を距てた別々の場所(すべてが芝居の書割のようにも見える)で起こった出来事で、場所は違ってもそこで同じような行為が反復されるという仕掛けがロブ=グリエらしい魅力。ロブ=グリエ自身もシンポジウムのなかで、「一連の空間があって、それらがちょうど同一地点で発見されたさまざまな町、各々異質の文明に属するさまざまな町のように機能してゆく・・・そうしたすべてが同時に同一地点で、とはいえ各々別の空間のなかで生起するのだから、私はトポロジーという語を用いることにした」と語っている。

②読者を物語に惹きつけておく要素がいくつかある。ひとつは金髪の裸の女性が何度も反復して出てくること(ただしこれは男性読者にしか効果がないかも知れない)。次に、ミステリー仕立ての仕掛けがあること、例えば、殺人事件であったり、紙片に書かれた謎の言葉。第三に、火山の噴火、劇場での惨事や建物の崩壊などの刺激的な出来事が次々起こること。

③脈絡がつかめないような入り組んだ文章だが、たえず反復によって、同一性が保たれていること、つまり楽曲のように、主題が少しずつ変奏されながら繋がっていく感じがある。例えば、古代の劇場址と現代の劇場、書割の監獄と古代の娼婦専用の監獄、古代都市の港とバトー・ムーシュの船着場、古代の石だらけの路を股から血を流して走っていく裸の女と中世?の戦争で凌辱された処女、古代の神殿での生贄の供犠と現代の連続殺人。

④個々のイメージで繰り返し出てくるのは、あおむけに倒れている少女の姿、二人の子を連れた若い母親、Vという字の楔形、一枚の白い紙きれに包まれた球形の石ころが落下する瞬間、船をかざる旌旗の文字が変化しているのに気づく場面、黄金造りの細身の短剣、水道の配管からの漏水、置きっぱなしになった錆びついた自転車など。

⑤とくに今回は、名前の連鎖に特徴があり、ヴァナディウム(古代都市の名)-ヴァナデ(女神の名)-ダヴィッド(ヴァナデの男性化身、芝居の題、婚礼衣裳専門店の名)-デヴィッド(子どもの名、写真家の名)-ダナエ(神話の王女)-ディアナ(女神の名)-デアナ(子どもの名)、その間に一般名詞のフランス語ナヴィール(船)-ディヴァン(寝椅子)-ドゥヴァン(占い師)などが混じって来る。


 『もうひとつの街』は『幻影都市・・・』とは違って、すべてがプラハの街での出来事となっていて、有名なところではカレル橋の彫像が出てきます。カルロヴァ通りの古本屋がこの物語の発端で大事な役割をしています。同じ店かどうか分かりませんが、私もカルロヴァ通りの古本屋には入ったことがあります。他にも旧市庁舎、ヤン・フス像、ティーン教会、聖ミクラーシュ教会、ペトシーン広場ほか、いろんな通りの名前、教会の名前が出てきます。プラハをよく知っている人はその点でも面白い読み物になっていると思います。

 この作品には『幻影都市・・・』と違って、いちおう筋らしきものがあります。古本屋で主人公が見たことのない文字で書かれた本を見つけたことがきっかけとなって、大学図書館で図書館員から不思議な体験を聞かされ、話に出てきた場所を訪ねたところから、地下寺院での説教を垣間見たり、カフェで元大学教授から謎の文字について話を聞いている最中にその元教授が拉致され、その後を追ったり、その後深夜の大学で講義を聴いたり、空を飛んだり、図書館のジャングルに潜り込んだりなど、いろんな冒険をすることになります(あまりたくさんすぎるので略)。

 大きな特徴は、動物や乗り物、また酒場やカフェが重要な役割をしていること。動物では、虎と闘うタコ、スズメバチ、イタチ、亀、サメ、朗誦鳥、ヘラジカ、猫、エイ、蟻、カタツムリ、巨大イモリなど。乗り物では、路面電車、ケーブルカー、バス、スキーのリフト、船、ヘリコプター、空飛ぶエイ、列車など。酒場関係では、小地区カフェ、居酒屋、ビストロ、ミルクバー、彫像の内部のバー、ワインケラー、また別の居酒屋とめまぐるしい。

 著者の主張らしきものが垣間見える部分があります。
①「中心を探せば探すほど、中心から遠ざかっているんだよ。中心を探すのをやめたとき、中心のことを忘れたとき、お前さんは中心から二度と離れることはない」(p101)、「断片それ自体が非の打ちどころのない統一体なのだ」(p102)、「すべての街はそれぞれがたがいに中心であると同時に周縁であり、起源であると同時に終わりであり、母なる町であると同時に植民地なのじゃ」(p187)というような神秘主義的な言説。また、すべてのものは、次々と変化を生み出し回転し続けるだけ(p187)という世界観。

②もうひとつの街がどこにあるか、この世との境界は、地平線や深淵の彼方にあるわけでもなく、どこかで半開きになった扉の前を通り過ぎて行っただけで、われわれが接している空間のはずれの暗がりのどこかにあるが、単に見過ごしているだけだという四次元世界的な言説。

③何か専制国家時代の悪い思い出でもあるのか、秘密を告白中の男が突然路面電車に乗せられ連れて行かれたり、主人公も魚を持ってないという理由で連行されたり、ヘリコプターで空から監視されたりする場面があった。

 滑稽な場面としては、大学哲学部の深夜の講義に出席したとき、着席していた全員が袋から木の小箱を取り出すと箱からイタチが頭を覗かせるが、私がイタチの箱を持っていないことに気づいてみんなじろじろ見るので、慌てて袋のなかに手を入れてイタチの入った箱を探すふりをする場面(p56)。

 いくつか不思議なイメージが出てきます。
蟹と化したピアノが寝室を這いまわる(p18)

夜、列車に乗ったら車内がゴシック様式のひんやりとする礼拝堂になっている(p20)

礼拝堂の巨大な硝子の彫像の内部が水で充たされ、さまざまな海の動物が泳いでいる(p25)

考え事をしていたアパートのオーナーが誤って兵士を羽織ってそのまま外出する(p54)

階段を上がろうとして足を置いた段が沈んでいく奇妙な階段(p94)

ひとつの長い鍵盤による57名のピアニストのための楽曲(p97)

牡蠣がベッドのなかに潜り込んで、麻痺した身体を取り囲み、骨と皮だけになるまで吸う(p98)

カレル橋の彫像の台座に扉があり、そこから輝く枝角を生やした50センチくらいの小さなヘラジカがぴょんと飛び出す(p115)

彫像の内部にバーがあり、台座の穴から白いジャケットを着たバーテンダーの上半身が見え、背後の戸棚にはボトルがきれいに並ぶ(p118)

ベッドが広がりつづけ立ち上がって歩くと、足元で揺れ動く平原となり、隆起したところで下着姿の男女がスキーをしている(p128)

長い廊下に飾ってある絵が、パラパラ漫画のように連続していて、2000枚以上の絵を追って行くと、ある種の映画のように見られる(p159)

図書館の奥深くで年に何人もの図書館員が失踪し、行方不明になった図書館員を追悼する記念碑が建てられる(p174)

本をめくると、ページのあいだに生息するのっぺりとしたカタツムリに遭遇する(p178)

 古本愛好家の心をくすぐるような一節が冒頭にありました。

古書の心地よい香りがただよう、静かで暖かい場所にいることができる幸せを噛みしめていた(p7)

BRUNO GAY-LUSSAC『Dialogue avec une ombre』(ブリュノ・ゲー=リュサック『影との対話』)

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BRUNO GAY-LUSSAC『Dialogue avec une ombre』(GALLIMARD 1972年)


 ゲー=リュサックの本はこれで二冊目です。前に読んだ『L’AUTRE VISITE(他者の訪れ)』(2015年10月15日記事参照)と同様、難しい単語も少なく平明なフランス語で、現在形で淡々と語られる叙述に特徴があります。が、今回は、個々の文章は単純でも、全体としては茫洋としていて、よく把握できず、『L’AUTRE VISITE』ほどの面白さはありませんでした。

 というのは、この作品は、全篇一人称で語られ、お前と呼びかけながら進行する部分(二人称的)と、私とジュディットと士官が繰り広げる出来事を叙述する部分(三人称的)の二つに大きく分かれていますが、とくに「お前」の部分が不明瞭だからです。冒頭からvous(お前)と呼びかける相手が居て、「お前は暗がりで背を向けている・・・振り返らせようか・・・本を読んでいるときの指の動き、息をするごとの背の動き」(p7)というような箇所を読めば、お前というのはもしかするとこの本を読んでいる私のことかという気にもなりますが、「お前は川沿いに歩き橋を渡る。映画館の前で立ち止まりまた歩き出す」(p8)といった文章で、違うということが分かってきます。

 それでも読んでいると、私じゃないかという気がするのがところどころあるうえに、たびたびそこにジュディットの名前が出てきたり、「お前」がジュディットと同じような行動を取ったりして、最後の方は、「お前」とジュディットがだんだんと重なってきます。結局、「お前」と語りかけるのがどんな存在だかよく分からなくなってしまいます。さらにそれに追い打ちをかけるように、そこに物語の「私」と作者の「私」が同じページのなかで、同じ「私」として登場し、書くという行為のなかでの現実と言葉との関係をめぐる省察も加わってきます。

 それに比べると、ジュディットと士官と私の物語は、普通の小説のようで具体的な展開が多く分かり易い。とくに85ページあたりでは、ミステリー風の盛り上がりを見せます。簡単に粗筋を辿りますと、
第二次世界大戦時のドイツ軍に占領されたフランスが舞台。独身青年の私が仮の宿とした家は妻に先立たれた改宗ユダヤ人が営んでいてジュディットという娘がいた。チェスなどをしているうちに娘と仲良くなって行く。ある日、父親の方から、田舎の地所が住み主が居ないと徴収されそうなので、娘と一緒に行って住むよう頼まれる。婚約者という名目で。

②しばらく平穏な日を送っていたが、ある日、ドイツの士官が部下とともに訪れ、駐屯場として提供するように言われる。一行を3階に寝泊まりさせることにするが、ある夜、士官が現われて、ここに一冊の貴重な本があるはずだと切り出す。士官の先祖が書いた一種の体験談で、少部数印刷され身内に配られたが、家系の淫奔さにまつわるきわどい内容だったので、一部を残して焼却された。その一部がここにあるはずだと。

③ジュディットの母方の先祖もそのドイツ人で、ジュディットの母はその本のことを知っており、遠い親戚である士官の父親に手紙で本のありかを伝えていたのだ。士官は書棚のシラー全集の奥に隠してあるはずと言い、二人の目の前で取り出す。ジュディットの顔は蒼ざめていた。その本を読んだ士官とジュディットは次の日の夜、その本に書かれているとおりのことをする。

④翌朝、私が士官の部屋に行くとベッドに血がついており、ジュディットの部屋に行くと、ジュディットは傷だらけで横たわっていた。士官は部下とともに早朝出発していた。ここに残っていると危険だと、私はジュディットと使用人とともに、地所を出る。早々に使用人は消え(後にドイツ兵に見つかって銃殺される)、二人は水車小屋に寝たり、村落に泊まったりする。

⑤ある町では、酒場で地酒を飲まされ酔っぱらったところをジュディットが狼藉されそうになったり、ある村では川で泳いでいたら男がジュディットに近寄ってくるなど、ジュディットには何だかんだと男たちが寄って来て悪さをしようとする。最後に、善良な人々の居る村で、ジュディットは着飾ると、いずれともなく姿を消した。何年か後、思い出の地を訪れた私が、ジュディットが消えて行った山に登っていくところで終る。

 結局フランス的な終わり方で、なんだかよく分かりません。人間の獣性がテーマになっているような気がしますが、例の本に何が書かれていたのか、士官がジュディットに何をしたのか、著者ははっきりとは語っていません。

『方形の円』と『迷宮都市』

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ギョルゲ・ササルマン住谷春也訳『方形の円―偽説・都市生成論』(東京創元社 2019年)
デヴィッド・ブルックス実川元子訳『迷宮都市』(福武書店 1992年)


 タイトルに「都市」と名がついて、架空の、幻影の、迷宮の、異次元のといった形容詞のついた、幻想小説らしい雰囲気の小説を片端から読んで行くことにします。中身が思ったのと違う場合もあるかも知れません。短篇集の場合は、いくつか幻想都市をテーマとする作品があっても、残りは別のテーマでしょうし、まとまった感想が書けるかどうかは不安です。

 ギョルゲ・ササルマンはルーマニア、デヴィッド・ブルックスはオーストラリアの作家。この二冊はたまたま読んだ時期が続いたというだけで、とくに内容が近いということはありません。むしろ受ける印象には隔たりがあります。文章の美しさ、想像力の奇抜さはブルックスのほうが際立っていて文学的センスが感じられますが、ササルマンは建築を専攻した理工学系の人だけあって、現実的、歴史的な記述が目立ちます。

 まず、そのササルマンの『方形の円』から。36のごく短い短篇からなる一種の空想都市コレクションで、前回読んだカルヴィーノの『見えない都市』と同じような発想の作品です。著者はフランス語版あとがきのなかで、雑誌に発表し始めたのはカルヴィーノより少し早いと、オリジナル性を主張していますが、中身は、英語版の序文で、アーシュラ・K・ル=グインが『見えない都市』と「よく似ていながら全然似ていない」(p201)と書いているように、まったく異なるものです。まず、マルコ・ポーロフビライ汗に報告するというような枠がないこと、次に、旅人の語りではなく著者の直接の記述になっていること(三人称体の普通の小説)、そしてその内容がきわめて現実的な合理的な展開で語られていること。

 ちなみに、ル=グインは自らスペイン語版から英語に訳していますが、あまり乗り気でないような印象を受けます。同じく序文で、「いくつかの話の中では、20世紀中葉のヨーロッパの男性の女性に対する態度が・・・私はうまく合わせにくかった」(p201)と書いて、36篇中12篇をカットしています。私も同感で、読んでいて、性にまつわる記述が目につき、しかも男性目線の差別的な意識が露呈していて、嫌悪感さえ催してしまいました。

 悪口ばかり書くのもどうかと思いますので、面白いと思った短篇を取りあげると。ある探検家が、道が中心に向かって螺旋形を描いている都市に紛れ込み、食糧も水も尽き死にそうになってようやく中心に辿り着き、そこにあった柩のなかに倒れ込んで死ぬが、その柩には彼の名前が記され姿が彫られていたという「サフ・ハラフ―貨幣石市」が出色。

 あとは、直角的発想しか持たない軍団が造った都市に、幾何学を知らない蛮族が侵入していとも簡単に制圧してしまう「カストルム―城砦市」、登山家が前人未到の山峰に街を発見し、その広場では行方不明になった登山家たちが踊っていて、踊りの輪の中に入ると次第に鷲に変身していく「ダヴァ―山塞市」、長さ7キロメートル、幅530メートル、時速40メートルで移動する軸状都市が結局太平洋に沈んでしまう、都市名なしの短篇。


 『迷宮都市』のほうは、23の短篇が収められていますが、地球誕生時のような話があるかと思えば、田舎町の出来事や掃除婦の話があったり、思弁小説のようなのもあれば、冒険家の日記があるという風に、それぞれに趣向が異なり、しかも各篇が単純には説明できないような不思議な話術で組み立てられています。文学的というべきでしょうか、脈絡がつかめないままに、言葉を辿り、人物を思い描いているうちに、一つの魅力的な世界に没入しています。

 都市がテーマになっている作品は、ゲーム盤が基調になりゲームによって組み立てられた街を描いた「DU」をはじめ、ペン先から始まった一行が町中をさ迷いそれを追いかけるために地図上を辿る「市街地図」、水平方向にも垂直方向にも迷路があり不動産の境界も曖昧なイカラの町を語るカルヴィーノ的な「迷宮都市」、さらに場所が重要な役割をしている短篇として、大洋にある島を訪れた冒険家が奇怪な事件に遭遇した後、数日間の記述が欠如した日記を残す「ロベルト・デ・カステランの日記」、マントリアという島あるいは街が地上のどこかにあるという伝説が宗教の色彩を帯びてくる「マントリアの白い天使」。

 神話的な世界が描かれているのは、豪雨期の地球に適応するため海中生活をする種族と地上に残る種族が分裂するが、恋人同士が引き裂かれてしまう「イルカ」、羊飼いの家族で長男が跡を継ぐので村から出て行った三男坊がどこからともなく羊を連れて帰り、そのたびに大酒を飲んで女遊びをするおおらかな雰囲気の「羊」。

 思弁的観念的なのは、エクアドルのジャングルから一冊の本を持ち帰るが、その本はすべての書物を集約したもので、いろんな家系に代々受け継がれるうちに内容は刻々と変化し、他の本に伝染し、人間がその本に寄生し…と本の神格化を記述する「本」、夢を録画できる機械が発明され社会が大混乱に陥る「夢の探求」。

 特徴ある人物が登場するのは、町で変わり者と思われているオールド・ミスがようやく叶った結婚式で忘れ物を取りに帰って戻ってきたら誰も居ず、誰もそんな結婚式はなかったと主張する「失われた結婚式」、下宿屋に住み下宿の清掃の仕事をしている女性が、公園のベンチでいつもデートしているアベックを窓から見たり、掃除しながら他人の部屋の生活を覗き見る「ナディアの恋人」。

 4次元的な?不思議な世界が描かれるのは、木の葉が落ちる途中で止まったり、一つの鏡だけ自分の姿が映らなかったり、グラスに注いだワインがグラスを持ち上げてもワインの液体だけが宙に留まっているという「あるまじきものたち」、R教授が教授室から忽然と姿を消したが、部屋に飾られた干潟地のポスターのなかに小さく写った人物が動き出した、どうやらそれがR教授らしいという「失踪」。

 どの短篇がいいかと聞かれれば、「イルカ」、「ロベルト・デ・カステランの日記」、「失踪」の3篇を挙げたいと思います。

また二つの古本市へ

 前回古本報告のあと、またふたつの古本市へ行きました。やや過熱気味。
ひとつは阪神百貨店の秋の阪神古書フェア。昔の職場の関係で芦屋に用事があり、帰りしなに1時間ほど立ち寄ることができました。

 矢野書房で、
荒俣宏/松岡正剛『月と幻想科学』(工作舎、79年10月、500円)→月に興味が湧いてきたので。
 寸心堂で、格安フランス書。
NOËL RICHARD『LE MOUVEMENT DÉCADENT』(NIZET、68年第一四半期、300円)→辞書代わりにするぐらいで読まないと思う。知らない名前が大勢出ている。
 出品者不明で、下記。
辻静雄対談集『プルーストと同じ食卓で』(講談社、昭和61年4月、900円)→辻邦生丸谷才一開高健小松左京山崎正和清水徹大岡信らとの対談。
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 ふたつ目は、京都百万遍の秋の古本まつりです。初日に行ってまいりましたが、この日は晴天で陽射しが強く暑いぐらい。途上の臨川書店の古書バーゲンセールではまったく収穫なく、次の吉岡書店で、下記4冊。
柳宗玄『カッパドキヤの夏』(中公文庫、94年6月、200円)
カルヴィーノ和田忠彦訳『むずかしい愛』(岩波文庫、95年4月、300円)
長野督『フランス語で日記をつけよう』(白水社、14年5月、1200円)→別に日記をつけるつもりはないが、フランス語の先生に生活報告するのに役立ちそう。
『鈴木漠詩集』(思潮社、01年2月、500円)→なぜか持ってなかった(と思う)。塚本邦雄清水哲男が作品論・詩人論を書いている。
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 本会場に入って、いつもの通りキクオ書店へ直行。3冊550円(1冊なら220円)コーナーで、下記4冊。とにかく安い。あと2冊がなかなか見つからず断念。昔なら何か買っていたところですが。
E・R・クルティウス生松敬三訳『読書日記』(みすず書房、92年10月、183円)
石田幹之助著作集1 大川端の思ひ出』(六興出版、85年10月、183円)
久米博訳『エリアーデ著作集第一巻 太陽と天空神』(せりか書房、77年8月、184円)
Jacqueline Lafargue『VICTOR HUGO dessins et lavis』(Hervas、83年第二四半期、220円)→大判の画集。この本がこの日最大の収穫か。
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 あとは小亀屋というところで、次の一冊を買ったのみ。
森口多里『美的文化』(東京堂昭和17年8月、500円)→美術随筆集。「空想と表現形式の時代的感覚」、「絵画の韻律」、「嬌態の女神像」、「キリストの顔の変遷」、「ノートル・ダームの怪影」、「卍の源流」など面白そう。
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 本が重くなったこともあり、12時過ぎ早々に退散。これまでこんなに早く帰ったことがない。いよいよ歳か。


 オークションでは、
大林信爾編/橋閒石『「奥の細道歌仙」評釈』(沖積舎、平成8年7月、700円)
イタロ・カルヴィーノ和田忠彦訳『遠ざかる家』(松籟社、88年4月、450円)
ユリイカ 特集:中国幻想綺譚』(青土社、03年1月、500円)→これも持ってなかったようだ。知り合いの出品者から落札。
宮下遼『無名亭の夜』(講談社、15年8月、500円)→トルコ文学者の書いた小説。宮下志朗のご子息らしい。
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