「ユリイカ 特集:空中庭園」

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ユリイカ 特集:空中庭園」(青土社 1996年)


 建築のテーマからの流れで、これからしばらく庭についての本を読みたいと思います。まず建築と庭の両要素を兼ね備えた空中庭園から。というのはバビロンにあったという空中庭園は幾重にも層をなした露壇に土を盛ったもので一種の建造物と考えられるので。雑誌という性格上、玉石混交、話題もまちまちでしたが、そのなかでとりわけ分かりやすく記述も面白かったのは、澁澤龍彦「バビロンの架空園」、竹下節子「蛇の追憶」、原研二「陰惨なサルタンの庭園」、高遠弘美「匂い立つアモールの国へ」の4篇。

 澁澤龍彦「バビロンの架空園」は、大洪水やバベルの塔など古代の伝説が科学的な発掘により次々と実証されていくなかでバビロンの架空園も実在が証明されたこと、伝説とは違って造ったのはセミラミスではなくネブカドネザル二世であること、メソポタミアでは前15世紀から噴水の伝統がありそうした技術力のレベルの高さが空中庭園を可能にしたこと、などを叙述しながら、古代王国のかつての栄光に思いを馳せている。話題の繋げ方が澁澤龍彦ならではで魅力的。

 竹下節子「蛇の追憶」は、聖書からミルトンまで連綿と続くエデンの園のヴァーチャルな趣のある描写に触れ、大航海時代の探索の原動力にはエデンの園の痕跡と宝の島への希求があったこと、中東の楽園には「知恵の樹」の要素がないことに注意を促し、また西洋の造園の根底には原罪で追われた楽園の模倣があること、中世の二大造園テーマは「閉じた庭」と「歓びの庭」でありその二つが時として重なっていることなどを指摘し、西洋の伝統の根底にあるエデンの園と黄金時代の系譜を総覧している。

 原研二「陰惨なサルタンの庭園」は、舞台表現やレオナルドの飛翔器械、教会天井の騙し絵などを挙げながら、16,17世紀は浮遊を夢見る時代だとし、それはまた、浮遊が現世を離れる願望だという点で庭園につながるものであり、現実の庭園だけではなく、料理を風景に見立てるパジャントや、図と詩を組み合わせるエンブレーム、パノラマを背景とするオペラ、風景を寄木細工に閉じ込めたインタルジアなど風景引用術ともいうべき表現が続出する時代であった。高山宏と同様、見ることに関連した奇怪な図柄に満ちた驚愕の論文。

 高遠弘美「匂い立つアモールの国へ」は、「匂える園」という東洋の愛の技法書に「園」という言葉があることに着目し、庭園には性愛の含意があるとして、『旧約聖書』「雅歌」から、古代エジプトの写本の詩、プルースト、『千夜一夜物語』、モーリス・バレスを引用し、またサマンやレニエの詩、「ルバイヤート」にも言及し、エロスと香気に満ちた束の間の幻想世界を開示している。マルドリュスが晩年になって訳したという恋物語『L’Oiseau des hauteurs(高みの鳥)』はぜひ読んでみたい。


 次に面白かったのは次の各篇。
高山宏「庭という絵『空』ごと」:18世紀末には、建築で廃墟崇拝、文学では断片記述という新機軸が登場し、庭園では、回教寺院とキリスト教会の廃墟が併置され戦慄の美として珍重された。断片とコラージュが架空庭園のキーワードのようだ。

三宅理一「フリーメーソンの地下庭園」:18世紀末はまたフリーメーソンの時代で、各地にエゾテリック庭園が造られた。そこには地底に降り土・火・水・空気の体験を経て賢知に迎え入れられるという構図があり、モーツァルト魔笛」の最後を飾る「清め」の場面と共通している。

松浦寿夫「絵画の庭」:絵画が、時間のなかで筆触によって形姿を出現させていくのと同様に、庭園にも散歩者の眼前の広がりの様相が絶えず変貌するという特性がある。内面の無限性と外枠(額)との関係も論じている。絵画と庭の比較論。

安西信一「埋められた不協和音」:一枚の絵画から、キュー庭園を造った皇太子フレデリックの家族の不協和の関係を絵解きし、その庭園は政治的なエンブレムに溢れていて、啓蒙主義の庭を目指していたと説く。当時の西欧にとって中国が理想郷だったというのは驚き。

飯島洋一「庭が消えた」:人口を抑制することは環境に対する義務という考え方が世の中に存在する。20世紀初頭にエコロジーをまっ先に唱えたのがナチスで、その環境保護運動ユダヤ人大量虐殺が同時並行的に進行していた事実は衝撃的。

尾形希和子「王侯の密やかな愉しみ」:エトルリアの冥界趣味、洞窟や森(ボスコ)の偏愛、巨大志向など、ラブレーを愛読していた貴族が愉しみとして造ったボマルツォ庭園の特色を列挙。当時造られたいろんな庭園の水の仕掛けが面白い。

岡部真一郎「爆発を続ける庭園」:20世紀初頭、単に響きだけでなく楽曲の起承転結を司っていた機能和声の枠組みを破壊してしまい、構成の基盤を喪失した作曲家たちが、文学や演劇の力を借りたり、ミニアチュール作品に特化するなど、暗中模索を続けた様子を活写する。


 澁澤の「バビロンの架空園」は雑誌(「血と薔薇」)や単行本(『黄金時代』)で発表されているものの再録ということから考えると、この雑誌は澁澤へのオマージュとして編集されたのではないでしょうか。そのまわりを澁澤の影響を受けて登場してきた年代の書き手たち、高山宏、原研二、竹下節子高遠弘美が取り囲んでいるという印象です。とくに高山宏と原研二の文章には澁澤龍彦の影響が色濃く感じられました。

 先日テレビを見て得たにわか知識ですが、日本の前方後円墳も、遠くから見えるように土を盛り上げ、上には壺を置いたり、樹々や花を植えていたと言いますから、一種の空中庭園だったに違いありません。

建築に関する本二冊

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植田実『真夜中の家―絵本空間論』(住まいの図書館出版局 1989年)
澁澤龍彦『城―夢想と現実のモニュメント』(白水社 1981年)


 異質な二冊ですが、建築関連で同時期に読んだので、一緒に取りあげました。『真夜中の家』は先日読んだ『真夜中の庭』の前篇というべきもので、小説、絵本、漫画のなかの建築や空間を題材にしたエッセイ。『城』は、雑誌「新劇」の3回連載をまとめたもので、日本の城や西洋の城館に関連した評論・紀行。


 植田実の本では、よく知っている名前が出てきて懐かしく思いました。渋谷から宮益坂をあがったところの中村書店は、私も東京にいたころよく行った古本屋。途中にあった古色蒼然としたはかり屋さんのことも出ていたのでそのときの情景が浮かんできました。それから個人的なことになりますが、私の知り合いの名前が出てきてびっくりしました。著者が、同僚の自宅の2階に間借りしていたとき、その弟の森田君から青い函に入った城昌幸の『みすてりい』を見せられたとありました。森田さんとは大学の頃からの知り合いの古本酒仲間です。ちなみに青い函の桃源社版の『みすてりい』は高校の頃読んだ記憶があります。

 私は児童書や絵本、漫画は疎いほうなので、いろんな知らない、あるいは名前しか聞いたことがない作家、また作家の未読の作品を知ることができました。列挙すると、諸星大二郎の漫画『地下鉄を降りて』、ビアトリクス・ポターの『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』、ルネ・ドーマルの『類推の山』、ウィンザー・マッケイの『スランバーランドのリトル・ニモ』と『チェスターチーズ狂いの夢』、井上直久イバラード物語』。本ではありませんが、福岡の天神地下街も面白そう。

 共感できるのは、ひとつは、現在の都市空間が地下街的になっていることへの嫌悪感です。地下街と超高層の構造がひとつとなり、地上には自然の風景がないと嘆いています。これは「1960年・・・竣工したての、頭部の平たい箱状のチェースマンハッタン銀行が、それまでの尖った山状のタワー群の上限を越えて、そのなかに割り込んだ写真を見たとき、私はそれ以前にニューヨークを訪れる機会がなかったことを心から悔んだ」(p100)という言葉に通じるものがあります。

 もうひとつは、簡素であってもアンティームな場所を求めている姿勢。その場所は『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』の穴ぐらであったり、イギリスの湖水地方の自然と生活を反映した『ピーター・ラビット』のミニアチュール圏であったりします。その延長線上だと思いますが、緑が建築を侵食していく建築・都市観を表現したピーター・クックによる「アルカディア・シティ」に触れ、「緑に覆われていく都市のイメージには、廃墟の意味が醸成されている」(p57)とコメントしています。これは藤森照信の草屋根に通じるものがあるように思います。


 『城』は、三部に分かれていて、真ん中に、サド侯爵の城を訪れたときの紀行を中心に、西洋の王や作家たちの城館との関わりについての論考を置き、第一部に、安土城を中心に、日本の城について西洋を対比する文章、第三部に、姫路城を舞台にした鏡花の『天守物語』やヴェルヌの『カルパチアの城』などを軸に、城の空間を論じた文章を配しています。

 久しぶりに澁澤龍彦の本を読みましたが、一気に書いたものらしく、澁澤にしては、歯切れのよくない印象がぬぐえませんでした。悪口ついでに書きますと、澁澤の持ち味の博引旁証ですら、私の一世代上によくある何でも知った風な書き方が鼻につきました。「さすがに目のつけどころがいいな、と私はバルトに同感せざるを得ない」(p124)といった上から目線は、もう少し謙虚になれないものでしょうか。それが澁澤らしいところではありますが。

 主張のひとつは次のようなことでしょう: 城が、「君主たるべき者は世界の中心に玉座を据えなければならない」という権力の凝集した場所であることはもちろんだが、サド侯爵、ベックフォード、さらには、ユイスマンス『さかしま』の主人公デ・ゼッサント、ビアズレーの『ウェヌスタンホイザーの物語』の騎士タンホイザーらを見れば、現実に専制君主でなくても、空想の世界で絶対権力に酔うことは可能で、文学の領域では、城は失われた権力のイリュージョンを醸成する舞台となる。また牢獄が監禁と同時に夢想の場所となることを考えると、牢獄とは裏返しにされた城であり、城とは裏返しにされた牢獄である。

 先日、『迷宮1000』と『メトロポリス』についてこのブログで触れましたが、ともに高層ビルの上層階には独裁者や上流階級がいて、下層に住んでいる労働者や奴隷たちと敵対する構図がありました。この本でも、鏡花の『天守物語』には、天守の美しい妖怪の世界、地上は醜い人間の世界という垂直構造が見られ、この作品は、妖怪世界と俗世間との対立を契機に動き出す鏡花の小説パターンと城とが見事に一致した例と指摘していました。

Jacques Sternberg『Le coeur froid』(ジャック・ステルンベルグ『冷酷』)

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Jacques Sternberg『Le coeur froid』(CHRISTIAN BOURGOIS 10/18 1973年)


 ジャック・ステルンベルグは、シュネデールの『フランス幻想文学史』でもバロニアンの『フランス幻想文学展望』でも取り上げられている作家ですが、いずれにもこの作品への言及はありません。

 現代(と言っても1970年頃なので公衆電話やタイプライターが出てくる)を舞台にした小説で、少しハードボイルド的な雰囲気もあります。主人公の男が一人称で語り、登場人物は主人公がGlaise(粘土)とあだ名した女性とほぼ二人だけ。二人が出会って別れるというストーリーで、物語の展開もほとんどありません。

 この作品の眼目は、Glaiseという謎の女性の造形にあります。名前もなく、身分証もなく、ほとんど何も持たず、着古したセーターで、男の前に現われます。現在の一瞬にしか生きておらず、過去の記憶がありません。自分の過去についてまったく喋らないだけでなく、少し前の出来事の記憶もなくなっています。日にちの計算もできず、ワシントンも知らず、アメリカすら知りません。知恵遅れの子どものようでもあるし、別世界からやって来た生き物のようでもあります。「ある植物の放つ毒汁の性質、鉱石の凍ったような凝縮性、ある種の動物の夢遊病のようなけだるさがあったが、人間であるのを否定することもできない」(p51)と書いています。

 突拍子もない行動をして回りをびっくりさせます。例えば、トラックに轢かれた死体を見て腕だけピンとしてるわと大声で言ったり、レストランでは隣の席の皿を覗き込み不快になった客が早々に立ち去ろうとするとまだ残ってるからポケットに入れて持って帰ったらとアドヴァイスしたり、列車で向かいの席に座った赤子を抱いた母親に、その子を針で突いて風船みたいにしぼむのを見てみたいと言ったりします。

 がその一方で、彼女は太い首、広い肩、真直ぐで引き締まった腰、すらりとした脚を持ち、眼差しは官能的で、「よく女性を猫に喩えたりするが、彼女の場合は虎だった」(p31)と、主人公の男は、息を飲むような不純な美しさに揺さぶられます。一緒に行動するうちに、主人公の心の奥底に潜んでいた軽蔑と破壊の情熱が目覚めてきます。男は何度も彼女を振り切ろうとしながら、離れると彼女の幻影が頭のなかに渦巻き、仕事も手につかなくなり、書籍卸会社の要職の地位を投げ捨て、持ち金がなくなるたびに、地方巡業の営業職についたり、顧客の苦情に返事の手紙を書く仕事についたりと、転々としますが身が入りません。

 彼女と相対していると間に厚い壁があるかのように思われ、眼を見ていると、夜の淀んだ色、藻や腐った葉のどんよりした色が反射する沼を思わずにはおれないので、Glaise(粘土)とあだ名しました。「グレーズからは性愛をほのめかす言葉は聞けなかった。精神面では5歳か6歳でしかなかった・・・が、それは私が勘違いしているだけで、彼女自身も目的を忘れているが、巧みな娼婦の手口だったのかもしれない」(p147)と述懐しています。                                  

 謎の女性が物語を牽引していく枠組は『ナジャ』を思わせ、女性に対して独り芝居をする男の悲哀を描いたという意味では『ロリータ』を思わせる雰囲気があり(50年以上前に読んだので違っているかもしれない)、魔女に滅ぼされる男と解釈すれば「つれなき美女」となるかもしれません。また、グレーズが雨水が好きで河をうっとりと眺め今にも服を脱いで飛び込みそうになる場面がありましたが(p21)、そうなるとこれはウンディーネ譚の変種ということになるでしょうか。

 いずれにせよ、一方的な男目線が充満していて、少々古い時代を感じさせ、女性の読者が読めばどんな感じがするのか気になります。同じことかもしれませんが、もうひとつ気になったのは、主人公がいともたやすく女たちに声をかけ夜を共にすること、また主人公はそうした目でしか女性を見ていないと思われることで、日本の小説風土との違いが感じられました。

幻想の建築に関する二冊

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坂崎乙郎『幻想の建築』(鹿島出版会 1969年)
ユリイカ 特集:幻想の建築―〈空間〉と文学」(青土社 1983年)


 「幻想の建築」という題のある本を二冊読んでみました。片方は、建築に関連した幻想美術について、塔、回廊、室内、庭園、牢獄、宮殿、大伽藍、廃墟、ユートピアなどの章を設け、系統だって論じた本、もう片方はいろんな研究者によるテーマもアプローチも異なった評論・対談を集めた雑誌です。                                         


 坂崎乙郎『幻想の建築』は、澁澤龍彦の『幻想の画廊』(1968年)とほぼ同時期の書。学生時代に『幻想の画廊』は私のバイブルとも言える美術書で二読三読しましたが、この本はそれに勝るとも劣らない幻想美術論。どうして買ったまま読まずにいたのか残念でなりません。題名に「建築」という文字があったので敬遠したのだと思われますが、内容は完全な幻想絵画論です。鹿島出版会だったから「建築」という言葉は外せなかったのでしょう。

 澁澤の本では、デシデリオ、クレルチ、ジョン・マルティン、ピラネージなどの鳥瞰的な広々とした光景に圧倒され、また少しエロティックな絵や数々のだまし絵、さらには美術の範疇を越えたシュヴァルの宮殿やボマルツォの庭、自動人形や舞楽面まで広範な領域にわたって幻想美を探究していて興味を刺激されました。坂崎のこの本は、クレルチ、マーティン、ピラネージ(デジデリオも名前は出てくる)など澁澤とかなり重なる部分もありますが、澁澤の本にはなかったいろんな幻想建築の設計図をはじめ、イシドールの城、ユーゴーの幻想画、エルンスト・フックスも取り上げられています。美術の専門家らしく、美術史全体を見渡した論述が光っていて、「画家のアトリエ」の章などは、ツヴァイクの引用から書き起こし、マドンナを描く聖ルカが画家のアトリエのプロトタイプとしながら、デューラークールベピカソへと展開していく叙述の進め方には感心してしまいました。

 文章は難しく分からない部分がたくさんありましたが、その理由のひとつは知らない画家の名前や作品名が何の説明もなしに出てくるので、その絵を知らないものには見当がつかないこと、また使われている専門用語についても丁寧な説明がないこと。それで初心者は躓いてしまいます。この時代(1950~60年代)は、簡潔で断定的な物言いが才気走った書き方としてもてはやされていたようです。よく言えば、分かってもらうことよりもかっこよさを大事にしたということでしょうか。

 素人のひがみで、丁寧に読めばもっと理解が深まるのでしょうが、とりあえず印象に残った点は、
①現代美術に対する辛口の批判で、セザンヌを境目として、その後のキュビスム、フォーヴ、表現主義の画家たちは対象を純粋なフォルムとして扱い過ぎて主題や人間が疎かになっているとし、キュビストの創造した建物のなかでは人は息づまると指摘しながら、新たな空間を模索するキリコにひとつの可能性を見ていること。

ベックリンの「死の島」は当時のドイツの茶の間に飾られるぐらいの大衆画だと聞いたことがあったが、後続の画家たちに多大な影響を与えていたことを知った。著者はキリコの『時間の謎』を挙げるに留めているが、ヴィルヘルム・クライスの『死者の城』にも影響がうかがえると思う。

レンブラントの絵で内面の問題が空間として表現されているように、17世紀オランダ絵画には、内と外、理念と現実との見事な融合が見られる。しばしば空想力の貧困が指摘されることもあるが、現実の持つ幻想性を見る必要がある。これはマルセル・ブリヨンが「幻想的現実」と命名したものではないか、と言う。

④モネの「ルーアンのカテドラル」はデジデリオの幻影の建物以上に、非建築的な幻覚の様相を呈しており、レアリスムから出発した印象主義の一つの極であるとする。石は光の量として測定され、石や大氣は色彩に同化され、現実を離脱した幻想に近づいているとも。

ポンペイヘルクラネウムの死の都が廃墟として取り上げられていたが、私はこれは廃墟ではないと思う。廃墟は、堅牢であるはずの建物が人の手から自然に委ねられることにより、時とともに徐々に崩壊し自然に溶け込んでいく途上の姿が美しいのであって、ポンペイの場合は生活のある一瞬がそのまま封じ込まれており、逆に人間の生々しさが強く残っている。

⑥シュヴァルが憑かれたように造りあげた宮殿について、その原動力は幼児に近いナルシシスムとしている。幼児にとっては現象界はいまだ現実として存在していないが、シュヴァルの場合は、現象界が失われてしまったため、夢の中でしか生きられなくなり、夢が現実を覆い尽くしたと説明している。

 引用されている絵で気に入ったのは、アントニオ・ダ・モデナ『理想都市』、キリコ『時間の謎』、エルンスト・フックス『パリスの審判』と『建築風景』。


 「ユリイカ 特集:幻想の建築」も記号論とかそのほか新しい理論を応用した論述が多く、私の理解の及ばない部分がたくさんありましたが、分からないなりに面白いと思ったのは、アンデルセン井出弘之訳「巨大な夢―英国におけるピラネージの影響」、池田信雄「楽園の引越し魔―ジャン・パウル」、寺島悦恩「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」の3篇。

 マリオ・プラーツの高弟というアンデルセンの論文では、ピラネージの絵がイギリスに与えた影響として、コールリッジやド・クィンシーへの直接的影響や、ギリシア対ローマの様式論争が起こったときにローマ派の根拠とされたり、室内装飾のデザインに流用されたりしたこと以外に、ゴシック小説の引き金になったことが述べられていました。ピラネージがベックフォードの父親に版画を献呈していること、ベックフォードは幼少にして牢獄のヴィジョンを植えつけられそれが「ヴァセック」に反映していること、またウォルポールの「オトラント城」の有名な甲冑の場面がピラネージの作品にあることなど。驚いたのは、モーツァルトがフォントヒルの城館で若きベックフォードにピアノを教えたということです。

 「楽園の引越し魔」は、ジャン・パウルが意外と現世を愛する「カルペ・ディエム(この日を摘み取れ)」の信望者であったことを、処女作『ヴーツ先生の生涯』などに見られる牧歌的枠組みや、代表作『巨人』の主人公の遍歴を辿りながら示しています。ただ現在の楽園に安住するという単純なものではなく、楽園にいることが楽園を否定するというパラドクスのなかに生きたり、バロック的宮廷陰謀の階梯を経ることが条件となっていたり、一筋縄でないところにロマン的ユーモアのありかがあると断じています。牧歌的枠組みを作るために、辛辣にならないようにユーモアに手心を加えたり、視点を低くとり至近距離からの細密描写に徹したりし、また主人公の設定も高望みしない視野の限定された小人物とする、というのを読んで、これはビーダーマイヤーではないかと思い当たりました。

 「俯瞰・断片・メランコリー―バロックの空間」では、四体液のひとつメランコリーには、老い、死、秋、冬、狂暴、錯乱の面と、霊感を受けた熱狂の面の二重性があり、それが上昇して創造に向かう情熱と、下降していく極度の衰弱の二つの動きに表われるとして、俯瞰と深淵という言葉から考察しています。18世紀の「ピクチャレスク」、ミルトン『失楽園』のエデン、メランコリーの両面が描かれているデューラーの「メランコリアⅠ」、スペンサー『妖精の女王』のアルマ姫の塔などが例にあげられていましたが、印象深かったのは、ヘルメス主義の「混沌のシンドローム」という原理を説明した次の部分です。(1)創造とは両極の交合によるものであること、(2)創造に含まれるグロテスクと不合理の要素、(3)創造は彷徨・悲嘆に関わる、(4)暗黒・混沌は生命原理に関わる、(5)降下すること、怪物との出会いは新しい生を得る経験であること。そして著者は、断片と廃墟を崇めることはバロックの精神に他ならないと断言しています。

 そのほか分かりやすかったのは、沈黙の建築、語る建築、歌う建築という三種類のあり方を散文と詩の言葉と比較した粟津則雄「ヴァレリーと建築」、廃墟の思想はヨーロッパに特有のものと言う篠田浩一郎「廃墟の思想・廃墟の美」、一望監視施設である監獄とフーリエの共同宿舎(ファランステール)を対照した田村俶「幻想・パノプチコンとその周辺―フーコーの射程」。

 宇波彰「差異のない都市」で、40階の高層マンションで、上の方の階へ行くほど社会的地位と収入の高いひとが住んでいるという設定のバラードの『ハイ・ライズ』が紹介されていましたが、先日読んだ二つの小説『迷宮1000』、『メトロポリス』も、同様の垂直的な階層構造を持つ都市が舞台となっていました。また、アメリカでは「道路や橋の維持ができなくなり、交通事故が増えている」という記事があったことが紹介されていましたが、1983年にしてすでにこの問題が発生していたんですね。

「詩と詩論 無限」のバックナンバー3冊ほか

 「詩と詩論 無限」は、特集形式を採用し、その分野の第一人者や気鋭の論者を集めて集中的に議論するという編集スタイルで、その後の「詩と批評 ユリイカ」などにつながっているように思います。驚くのは、文学臭が濃くかなりマイナーなテーマなのに、一般企業が広告に名を連ねていることで、当時の企業の文化度の高さがうかがわれます。あるいはそういう時代だったのか。
リルケ特集やマラルメ特集などいくつか所持していますが、とくに、バックナンバーを集めているという訳でもありませんし、この歳ではもう読むこともないと思いますが、好きな作家詩人のものであれば、手元に置いておきたいというのは、強欲のなせるわざでしょうか。
「詩と詩論 無限ⅩⅧ 特集:戦後フランス詩」(政治公論社、昭和40年5月、1000円)
「詩と詩論 無限ⅩⅪ 特集:CHARLES BAUDELAIRE」(政治公論社、昭和41年12月、1000円)
「詩と詩論 無限ⅩⅩⅤ 特集:エドガー・ポー」(政治公論社、昭和44年3月、1000円)
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 いま読んでいる幻想建築関係の本では、下記の二冊。「ユリイカ 空中庭園」は当然持っていると思って本棚をくまなく探しても見つからず入札。『真夜中の家』は先日、『真夜中の庭』を読んで感銘を受けた同じ著者の作品。
ユリイカ 特集:空中庭園」(青土社、96年4月、298円)
植田実『真夜中の家―絵本空間論』(住まいの図書館出版局、89年7月、800円)
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 古本屋で買ったのは、下記の一冊のみ。奈良で用事のついでに、いつもの「柘榴の國」で買いました。以前、毎日新聞の書評欄で読んで面白そうと思ったので。
呉明益/天野健太郎訳『歩道橋の魔術師』(白水社、17年11月、946円)
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 あとはすべてヤフーオークション
日夏耿之介詩集』(思潮社、76年2月、1300円)
澤田瑞穂『閒花零拾―中国詩詞随筆』(研文出版、86年6月、1000円)→詩についての文章は珍しい
JEAN RICHEPIN『MIARKA―LA FILLE À L’OURSE』(CHARPENTIER、48年?、3210円)→リシュパンの代表作。生田耕作旧蔵書
上田正昭『古代の道教と朝鮮文化』(人文書院、89年11月、330円)
横井雅子『音楽でめぐる中央ヨーロッパ』(三省堂、98年4月、110円)→なじみの薄い中央ヨーロッパ音楽について、ジプシー音楽も含めて詳説。CD案内もあり、便利。
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ウィル・ワイルズ『時間のないホテル』

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ウィル・ワイルズ茂木健訳『時間のないホテル』(東京創元社 2017年)


 タイトルと表紙の絵に惹かれて購入した本。次元SFの一種ですが建築幻想小説のジャンルに入るものと思います。「あとがき」によると、著者は建築やデザイン畑のノンフィクション・ライターだったそうで、さらにこの作品を書くに当たって、いろんな人から国際見本市やホテルの実地を教わったり、専門誌を読みこんだことが、巻末の著者の「謝辞」からうかがえました。小説を本当らしく見せるために、ノンフィクション的な視点が現代の小説技巧のひとつになっているのは確かなようです。

 国際見本市が舞台となっていて、総合受付があり、配布資料のセットを渡され、首から名札をぶら下げて、送迎バスに乗り、会場ではコンパニオンが右往左往しているなど、読み進めてすぐ会社勤めのころが懐かしく思い出されました。また、この本の主要なテーマは、巨大なホテルの無限空間ですが、出張先で酔っぱらって帰って来たときなど、ホテルの廊下で方角を見失うことは誰も体験していることではないでしょうか。                                          

 (この後ネタバレ注意)
 前半しばらくは(66頁ぐらいまで)何事もなく進みますが、そのあたりから、主人公にある悪意が迫ってきます。最初は、見本市会場でパネルディスカッションを受講者として聴いていたら、一人のパネラーから名指しで批判されたり、慌ててホテルに戻ると廊下で迷ったり、部屋でラジオのノイズが大きくなって止めようがなかったり。次の日は会場へ行く送迎バスに拒否され歩いて会場まで行くと、見本市から入場拒否されていることが判明し、雨の中とぼとぼと帰る羽目になったり。いじめを受けつまはじきにされているような不快な感覚の追体験。読んでいてハラハラはするが楽しいものではありません。マゾヒスト向きでしょうか。

 後半は、この巨大ホテルチェーンの謎が明らかになりますが、世界に500カ所以上あるというそのホテルが時空を超えて繋がっているというものです。第2部の終わり、水平線までホテルの廊下が延々と続いているという光景は圧巻。また第3部の次の連続した場面も魅力的です。ホテルを出ようとして、どう試みても下の階へ移動できなくなって、部屋の窓を叩き割り、ベッドのシーツを裂いて垂らして下に降り、ようやくホテルから脱出できたと思って振り返ると、窓から見下ろしている男がいた(p318)。しばらく歩いて気がつくと、そこはまだホテルの中庭だったという徒労感(p320)。そしてその後、ホテルの部屋に戻り、窓から下を見おろすと、逃げ出そうとしている男がいた。未来の自分が過去の自分を目撃していたのだ(p333)。

 ほかにいくつか印象的なところがありました。ホテルの部屋のテレビのホームページ画面を見ていると、従業員一同の写真のなかから、敵対している男が抜け出しこちらに向かって歩きながら、語りかけ、どんどんズームアップしてくる場面(p289)。物語の最後で、不死身と思えた頑強な敵が、主人公の誘いで、威力の及ぶホテルの圏外に誘い出された途端、音もなく朽ちはじめ、針金の人形がスーツを着ているように細くなり、顔には皺が刻まれ、眼は眼窩に沈み、髪は白くなって抜け落ち、身体が崩れ落ちた後は黒い山となって、最後は風が黒い塵を吹き飛ばしてしまうという怪奇映画さながらの情景(p373)。

 作者のどこかに現代の巨大化複雑化イベント化したビジネス社会への批判があるような気もします。巨大ホテルから見本市会場まで、高速道路をまたぐ空中回廊を歩いて行けるようになっていますが、まだ中央部分がぷっつり切れ未完成で、歩いて行くとすると、高速道路を横切らないといけないという不条理な状況。また見本市出席代行業という主人公の職業にも皮肉が現われています。そう言えば、むかし、イヴェント会場の受付で中に入らずプログラムだけもらって帰って行く人たちがいましたが、あれはアリバイ作りだったんでしょうか。

 小説はたんにストーリーだけを楽しむものではなく、いろんな楽しみの要素がありますが、そのひとつに、小説の地とでも言うべきものにどっぷりと浸るということがあります。捕物帳なら江戸時代の庶民生活、西部劇なら19世紀アメリカの開拓地、ハードボイルドなら1920~50年代アメリカの都会、アンリ・ド・レニエジャン・ロランなら18~19世紀フランス社交界。そういう意味で、この小説の地となっているのは、20世紀後半~21世紀初頭にかけてのアメリカ風ビジネス社会。日本のビジネスマンにとっては新鮮味のない話ですが、もしこの小説を世界のほかの前近代的地域の人々、あるいは22世紀の人たちが読めば、その点でも楽しめるかも知れません。

Jean Lorrain『LES LÉPILLIER』(ジャン・ロラン『レピリエ一家』)

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Jean Lorrain『LES LÉPILLIER』(DU LÉROT 1999年)


 長編「Les Lépillier」と、4つの短編「Madame Herbaud(エルボー夫人)」、「Un coup de fusil(発砲)」、「Dans un boudoir(婦人部屋にて)」、「Installation(引っ越し)」が収められています。初版は1885年11月で、ロランの散文小説デビュ作となっています。この再版本は一種の研究資料集ともなっていて、「レピリエ一家」の登場人物のモデルを地元の図書館で調べて特定したもの、ロランが出版社に送った手紙23通(うち1通は印刷屋から出版社宛)、出版後の各誌の書評9点を掲載しています。

 この本のロランの作品史のなかでの位置づけは、書評のなかで、オスカー・メテニエが巧みに解説していました。ロランは詩人として文壇に登場し、最初の二冊の詩集(『青い森』、『神々の血』)では古代ギリシャ神話の神々や騎士物語の英雄など高踏派的なテーマを主としていたが、パリで堕落した生活を送るうちに、偽善と悪徳にまみれたパリのグロテスクを描く詩風(『モデルニテ』)へ移り、その観察眼が小説へと転移したのがこの作品ということです。

 一読して印象深いのは、初期散文において、すでにロランらしい世界が濃厚に見てとれることです。「レピリエ一家」の全体を覆う悲惨な空気、古びた屋敷の無残な荒廃ぶりや、老嬢の痩せ細った幽鬼のような姿の克明な描写のグロテスクさ。またオンデルセン夫人というスラヴ系の美人が登場するあたり、すでにロシア美女好みが出ています。「Dans un boudoir」では、『仮面物語』と同様の病的で退廃的な雰囲気がありました。

 ロランらしい怪異も見られます。「レピリエ一家」では、神父のところに深夜老嬢の幽霊が訪れ、直後にその老嬢が亡くなった知らせを受けて駆けつけてみると、死者のベッドの脇に、さきほど見た黒い服が夜露に濡れたまま置いてあったという場面、「エルボー夫人」では、主人公の詩人が、見ているタピストリを織る針の動きと自分の心臓の痛みが同期し、タピストリが赤い血に染まっていくという幻覚を見る場面。

 まずは、この本でメインの作品となる「レピリエ一家」をみると、物語は次のようなものです。
突然巨額の財産を受け継ぎ、田舎の屋敷に住むことになった独身の老女性が主人公。地元の神父が、金持ちの彼女との関係を考え庭師と女中の夫婦を紹介するが、その二人はとんでもない夫婦。女主人は、最初は彼らの可愛い娘にほだされ、新しく生まれてきた赤ちゃんの名付け親になるが、そのうち庭師に誘惑され、強いアルコールを飲まされアル中になって、領地と財産を末娘に遺贈するという遺言を書くこととなる。少しずつ騙され堕落していく恐怖が描かれている。最後は、来客や手紙も二人に遮断され半ば監禁状態のまま変死する。死後立会った神父は、その死に方に不審を覚えながらも、遺言の中には巧みに教会への寄付が織り込まれており、なすすべがなかった。

 アル中になった老嬢が、救いを求めようと画策して、それがことごとく召使夫婦の策略で捻りつぶされ、半ば監禁状態で、絶望と孤独のうちに死んでいくのが悲惨。古色を帯びた屋敷が舞台で、私がいま興味を持っている幻想建築小説とも言えます。ただ一般の怪奇小説と違うのは、超自然現象が主となっているわけではなく、物語を牽引する要素が、人間のさまざまな感情のもつれ、葛藤という点です。

 当時フランスで流行していた現実の残酷さを徹底的に描写するリアリズム小説と通じるものがあります。ロランの場合は、リアリズムが持つグロテスクな面が強調されていて、書評のなかでエヴルモンという人が「暗黒現実小説」という言葉でそれをうまく表わしていました。グロテスク・リアリズムとかマジック・リアリズムとの関連も考えられるものでしょう。リアリズムについて、面白いことがあるのは、いかにこれが19世紀フランス片田舎の現実を描いたリアリズムだとしても、21世紀の異国の人間からすれば、とんでもなく非現実で空想的な事柄ばかりで、幻想小説と同じテイストがあるということです。


 その他の短篇作品の概要を書いておきます(ネタバレ注意)。
〇Madame Herbaud
友人の詩人が市長夫人を殺したというので、まさかと思いながら翌日留置所へ訪ねていく。服も乱れ手首にたくさんの傷を負った詩人は、市長夫人には積年の恨みがあったと告白し、しかし殺すつもりはなく、夫人を諷刺する詩を作ろうと、日ごろの生活を偵察するために夫人の家を訪れただけだという。夫人は趣味のタピスリー製作に熱中していて、それを見ているうちに、首筋が冷やりとし、針を通すたびに自分の心臓が刺されるように感じ、タピスリーが赤く染まっていくように見えた。もうたくさんだと…気がついたら殺していたと言う。話しているうちに、狂気が顔を覗かせるその瞬間が怖い。大昔「ミステリーマガジン」の夏の幻想怪奇特集号で読んだコリアの「ナツメグの味」を思い出した。

Un coup de fusil
居酒屋で二人の狩人が雨宿りをしていたが、隣の客の噂話を聞いて、狩人の一人の若者が脱兎のごとく店を飛び出した。ずっと昔に、母親の不倫を知った息子がその場で相手の愛人を銃殺した事件があったが、今じゃ不倫の相手と一緒に食事し生活している家族がいてのんびりしたもんだと、隣の客が喋っていたのがじつは若者の家族のことだったのだ。若者は小さいころから何かおかしいとは思っていたが、話を聞いて、母親の愛人を殺しに飛び出したのだ。場面を作り上げる描写力がすばらしい。

〇Dans un boudoir
父の古い友人で背中に瘤のある医師が、ただ一人自分を愛してくれた女性の思い出を、彼女の住まいを見せながら語る。その小さな部屋は洒落た帝政様式の調度に囲まれていたが鏡がなかった。放蕩の亭主が悪病の末に亡くなるが、妻にもその病気をうつしていた。自分の崩れた顔を見たくなかったのだ。

〇Installation
引っ越し先で友人の荷物を片づけていたら、彼の若い時の写真が出てきた。裏の献辞を見ると、知らない男から知らない女性に当てて送られた写真だった。それを見て友人が思い出を語る。休暇中に、初恋の女性の思い出を追憶しようと向かった故郷の浜辺で、仕草や声がそっくりの女性と出会って、以前と同じ場所で同じように逢瀬を続けるが、急用ができてパリに呼び戻された。そのときその女性からこの写真が送られてきたという。写真の男は友人に似ているが別人だった。彼女もまた過去の恋人とよく似た男を求めていたのだ。


 巻末に収められたロランの手紙では、当初5月に出版する予定で出版社に原稿も渡したのに、愚図だから使うなとロランが事前に言っていた印刷屋に、出版社の息子が間違って回してしまったために、大混乱が起こった様子が分かります。印刷屋が原稿の一部を紛失するわ、順番が無茶苦茶になってるわ、何度校正しても前より悪くなるわで、ロランが「cet animal-là(獣野郎)」とか「ce cochon(豚野郎)」の罵詈雑言を浴びせ、ついに印刷屋が、ロランとのやり取りを出版社経由にしてくれと出版社に泣きつく事態に。結局、出版は11月までずれ込み、しかもページが前後になった部分や献辞を印刷しないまま初刷りが出てしまったということです。