Jean Lorrain『Venise』(ジャン・ロラン『ヴェニス』)

f:id:ikoma-san-jin:20210415202147j:plain:w150                                        
Jean Lorrain『Venise』(La Bibliothèque 1997年)


 今回は、90ページほどの薄っぺらい本ですが、やたらとイタリア語やヴェニスの建物の固有名詞が出てくるので読みにくい。1905年に「絵入り雑誌」に寄稿したヴェニスについてのエッセイと、1898年から1904年にかけて、母親や友人宛てにヴェニスから送った手紙が11通収録されています。いずれもヴェニスを褒めたたえた文章が連なっています。

 ヴェニスの風光の美しさ、とくに黄昏の景観、そのなかを滑りゆくゴンドラ、歴史の積み重なった都市の栄光とその悲哀、運河と小路でピラネージの迷路のように入り組んだ町並み、教会や宮殿の建物の壮麗さ、それが沈み行き崩れ落ちつつある廃墟の美、美術館や教会の絵画の素晴らしさ、男は敏捷で女性は窶れたように美しいヴェニス人、それらが詩の引用をまじえた美文調で綴られています。

 ヴェニスを愛した文人・芸術家として、エッセイのなかでは、モーリス・バレス、バイロン、ミュッセ、ワーグナー、ズーデルマン、ダヌンツィオ、手紙ではユーグ・ルベルの名前が挙がっていました。ヴェニスと言えば、われわれの思い浮かべるのはトーマス・マンとかアンリ・ド・レニエですが、彼らはロランより時代が後になるわけです。とくにレニエは、ロランが目をかけて文壇に紹介した師弟関係とも言うべき作家です(だと思う)。

 ロランは1898年に初めてヴェニスへ行き、その後1901年、04年とヴェニスに滞在しているようです。レニエは、年表(Régnier『ESCALES EN MÉDITERRANÉE』の附録)を見ると1899年から1907年にかけて6回ヴェニスに滞在しています。ほぼロランと同時期にヴェニスを体験している様子ですが、有名な『ヴェニス素描』の出版は1906年と少し後になりますし、ヴェニスでの生活を綴った『L'Altana ou la vie vénitienne』も1928年の出版です。

 このロランの『Venise』を、『ヴェニス素描』でのレニエの散文詩と比較してみると、具体的な説明と描写があり、筋道だっていて、ヴェニスのレポートといった感じ。ゴンドラレースで町が湧く様子、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が来訪したときの歓迎ぶり、絵画や彫刻の事細かな感想、建物の崩壊の報告も詳しく、離島の紹介も忘れていません。また大勢の観光客が押し寄せるのを苦々しく眺め、運河を埋めて道にし、アスファルトにするという近代的計画を痛罵しています。が一貫しているのは、そこに世紀末的な退廃の味が沁み込んでいることです。

 古きヴェニスへの憧れを切々と綴っていますが、それは単に16世紀から18世紀にかけての古い時代を懐かしんでいるというだけではなく、ローマ時代から培われ、ルネサンスで花開いたイタリア文化、フランスの先陣としてのイタリアへの憧れがその背後にあるのではないでしょうか。とくにヴェニス派の画家たちへの傾倒がありありとうかがえます。グアルディという知らない画家の名前があったのでネットで調べてみると、「サン・マルコ湾」など奇想画を描いている人だと分かりました。また一人好きな画家が増えました。

 手紙の宛先の友人というのは、オクターヴ・ユザンヌ(3通)、ギュスターヴ・コキヨ(1通)、「友へ」としか書かれてないもの(3通)でした。ユザンヌはボードレール論などで知られる愛書家で、ロランが初期代表作『ブーグロン氏』を書くきっかけとなったオランダ旅行を案内し、ロランに旅の楽しさを教えたということです。コキヨという人は知りませんでしたが、美術評論家のようです。手紙には、幼友達やマラルメなど付き合いのあった文人たちが次々と亡くなっていくのを嘆いていますが、それがまたヴェニスの崩壊と響きあっているような気がします。                                           

 『Venise』でこれほどヴェニスの熱い思いを語っているのに、ジャン・ロランの存在がマイナーなせいか、ヴェニスについて言及している多数の文人名を網羅した平川祐弘『藝術にあらわれたヴェネチア』にも、ヴェニスに魅了された文学者を紹介した鳥越輝昭『ヴェネツィア詩文繚乱』にも、ジャン・ロランの名が記されていないのは、とても残念です。

何かの気配を感じさせる音楽 その⑥

 しばらく間が空いてしまいましたが、いよいよドイツ・オーストリアの作曲家篇に移ります。ドイツとなると作曲家の数、作品の数が膨大で、私のようにたまにしか音楽を聴かない者には、網羅的な展望はとてもできませんが、気付いた範囲で気配の音楽を探したいと思います。

 私がいま探求している気配の音楽は、象徴主義的なものなので、ドイツの音楽で言えば時代では後期のロマン派にあたるように思います。遡るとしても、ロマン派的要素のうかがえる古典派音楽ぐらいまでということになるでしょうか。モーツァルトの後期のデモーニッシュな音楽にその片鱗がうかがえるような気がします。作品とすれば、例えば、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」の石像の登場する場面はいかがでしょうか。
f:id:ikoma-san-jin:20210410064900j:plain:w150
MOZART『DON GIOVANNI』(SONY 88985316042)
TEODOR CURRENTZIS指揮、MUSICAETERNA
 第2幕15景の石像が登場する場面の1分30秒あたりから引用しておきます(https://www.youtube.com/watch?v=9jId-yu8Trw)。


 ベートーヴェンになると、かなりその要素が目立ってきます。もしかすると、ベートーヴェンが気配の音楽の開祖ではないかという気もします。ベートーヴェンの音楽の作り方は、ある音のパターンをベースに、それを手を変え品を変え、何度も繰り返して、音の流れを紡いでいき、次第に盛り上げていくという手法です。その手法には気配を生みだす要素があると思います。

 とくに濃厚に出ている曲は、交響曲第6番「田園」と交響曲第9番「合唱」でしょうか。
f:id:ikoma-san-jin:20210410064945j:plain:w150
ベートーヴェン交響曲全集」(COCQ 83984-9)
オトマール・スウィトナー指揮、ベルリン・シュターツカペレ
 交響曲第6番「田園」では、第1楽章に、音の組み合わせによって先に何かを期待させるような仕掛けがあります。とくに5分30秒あたりから(https://youtu.be/Dzq4AMDPF-Q)。第4楽章は「嵐」の場面ですが、冒頭から嵐の予感が描写されます(https://youtu.be/TRUH8Jg_Wbo)。
 交響曲第9番「合唱」では、第1楽章の冒頭に、予兆を感じさせる下降音があり、このパターンは1分過ぎ、4分50秒にも繰り返されます。気配の音楽の先鞭をつけたという意味では、3分10秒あたりからのティンパニーが重く小刻みに響く部分と(https://youtu.be/37TIm-rZkQo)、14分45秒あたりからのアラベスク模様のような音の繰り返しが(https://youtu.be/IKnb3KkmV0Q)、不安定な雰囲気を醸成していて、特筆に値するでしょう。
 交響曲では、ほかに第2番の第2楽章の1分50秒あたりに少し兆しが感じられる部分がありました。

 歌劇の序曲群は、いずれも劇的な盛り上がりのある曲で、それぞれに気配が感じられる部分があります。
劇音楽《エグモント》序曲では、冒頭にユニゾンで大きく響く音があり、何かを知らせている感じがあります。1分30秒あたりから、そそるような音の配置があり、兆しを感じさせます(https://youtu.be/Wvf4dN7ElAE)。
序曲《コリオラン》でも、冒頭から小刻みな音の繰り返しがありました(https://youtu.be/cjBgGPnH118)。
《レオノーレ》序曲第3番も、冒頭、強音のあと弱音になるパターンは前2曲と同様ですが、8分30秒ごろからもやもやとした不安な表情が現われ、9分30秒からの盛り上がりへの予兆としての役割を果たしています(https://youtu.be/CtCG0s03RSk)。

 蛇足ですが、ピアノソナタ「月光」の第1楽章の有名な冒頭部分は、何度も繰り返される音の波形が下から上に上がる形になっていますが、この波形を上から下に下げる形にすると、子どものころに聞いたTVの「世にも不思議な物語」の不安を煽るような音楽になるような気がします。


 次に、シューベルトはやはり「未完成」でしょうか。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065036j:plain:w150
シューベルト交響曲第8番「未完成」(PHCP-3520)
ベルナルト・ハイティンク指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
 何と言っても第1楽章の冒頭の凄まじさは見逃せません。15秒ほどの不気味な胎動の後、高鳴りを見せて解放されます(https://youtu.be/3bqASmi3dW0)。同じパターンが、3分10秒、6分50秒あたりにも登場します。第1楽章は全般に、気配というか、厭世的絶望的な気分に溢れていて、チャイコフスキーの「悲愴」と共通点があるような気がします。


 ロマン派の作曲家としては、ウェーバーの「魔弾の射手」を外すわけにはいきません。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065110j:plain:w150
ウェーバー『舞踏への招待/序曲集』(UCCG-9458)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 歌劇「魔弾の射手」序曲は、冒頭から重々しくのしかかってくるような響きに圧倒されます(https://youtu.be/-vaZTG27kbI)。2分40秒あたりから、ティンパニーの低い連打と弦のトレモロが不安な気分を掻き立てます(https://youtu.be/lcUnTr7bfs8)。


 が、やはり何といっても、ドイツ音楽の中でもっとも気配に満ちているのは、ワーグナーの音楽です。フランス象徴主義の詩人たちがワーグナー詣でをしたのもうなずけます。楽劇「トリスタンとイゾルデ」などは全篇曖昧模糊とした音楽に包まれたようになりますが、とくに顕著なのは、歌劇「リエンツィ」序曲や楽劇「神々の黄昏」のジークフリートの葬送行進曲に感じられます。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065142j:plain:w150
ワーグナー『序曲・前奏曲集』(GRAMMOPHON POCG-1661)
ジェイムズ・レヴァイン指揮、メトロポリタン・オーケストラ
 歌劇「リエンツィ」序曲では、冒頭長い金管の吹奏が沈黙を挟んで繰り返され、さらに3回目の後、1分15秒ぐらいから、低弦の蠢きが不気味な様相を呈し、そのあとの美しい主題を導きます(https://youtu.be/Ci9FJA3XZPY)。3分15秒あたりから、ただならぬ気配とともに再び美しい主題が現われます(https://youtu.be/eqxCKZJF3yg)。
 このCDではほかに、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲に、アラベスク的な音の旋回があったり、歌劇「さまよえるオランダ人」序曲の冒頭から何度も繰り返される嵐のうねりに、ただならぬ気配が感じられました。引用は略します。

f:id:ikoma-san-jin:20210410065241j:plain:w150
ワーグナー楽劇『トリスタンとイゾルデ』(POCG-3064)
カルロス・クライバー指揮、ドレスデン国立管弦楽団、ルネ・コロ(トリスタン)、マーガレット・プライス(イゾルデ)
 第2幕第2場の最後の場面の愛の二重唱、このCDでは7曲目の7分10秒あたりから。気配の音楽が性的陶酔の高まりと無縁でないことを示しています(https://youtu.be/TvSXjjKsW8A)。

f:id:ikoma-san-jin:20210410065313j:plain:w150
リヒャルト・ワーグナー『楽劇《ニーベルングの指輪》-ハイライツ』(PHILIPS UCCP-7039)
カール・ベーム指揮、バイロイト祝祭管弦楽団
 有名な楽劇「ワルキューレ」の「ワルキューレの騎行」は冒頭から旋回音の繰り返しがあって眩暈を感じさせるほど、また「ウォータンの告別と魔の炎の音楽」は全篇高揚した気分に浸される名曲で、10分10秒あたり不気味な合図とともに弦の旋回があります。がやはり楽劇「神々の黄昏」第3幕の「ジークフリートの葬送行進曲」が出色。冒頭沈黙の後、10秒ほどして突然、弦がうねるような断片的フレーズを奏で、ティンパニーが唱和、それが交互に繰り返されながら高鳴って行きます(https://youtu.be/68RQIqnVrpI)。


 ブルックナーの音楽で探すとすると、いわゆるブルックナー開始と言われる冒頭部に表われています。交響曲交響曲第8番第4楽章、交響曲第9番の第1楽章などに見られますが、ここでは第3番「ワーグナー」の第1楽章を代表として取りあげておきます。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065345j:plain:w150
アントン・ブルックナー交響曲第3番「ワーグナー」(OEHMS OC624)
シモーネ・ヤング指揮、ハンブルクフィルハーモニー管弦楽団
 第1楽章の冒頭から(https://youtu.be/Q258KJmHQ4s)。第3楽章もブルックナー開始的です。第4楽章には冒頭から面白い旋回音が見られました(https://youtu.be/UqHfWdCc3lk)。ルビンシュタインのチェロ協奏曲の第3楽章に出てくる旋回音に似たところがあります(2018年11月16日記事参照)。

 交響曲第7番の第2楽章にも、15分辺りから面白い上昇音の繰り返しがもやもやとした感じを出しているところがあります(https://youtu.be/oCvu5WezgyQ)。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065417j:plain:w150
ブルックナー交響曲第7番(PHILIPS PHCP-3547)
ベルナルト・ハイティンク指揮、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

 交響曲第8番の第3楽章の冒頭も一種のブルックナー開始で、嵐の前の静けさ的な気配が感じられます。引用は略。


 マーラーの音楽は全体がある種の気分に支配されているとも言えますが、そのなかでも技法的に、いくつか気配の要素が感じられる部分があります。交響曲第1番「巨人」がもっとも顕著なのではないでしょうか。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065456j:plain:w150
マーラー交響曲第1番「巨人」(EMI TOCE-3321)
クラウス・テンシュテット指揮、シカゴ交響楽団
 第1楽章冒頭から、ずっと弦の高音が鳴り響くなか、胎動、気配、何かの兆しが感じられます(https://youtu.be/krQ16xNaL_o)。この後も延々と続き、3分25秒あたり、ティンパニーとともに弦の蠢きが始まり、4分15秒あたりまで続きます。

f:id:ikoma-san-jin:20210410065527j:plain:w150
マーラー交響曲第2番「復活」(fontec FOCD-2705/6)
若杉弘指揮、東京都交響楽団
 第1楽章の冒頭、弦のトレモロから始まり、しばらく不気味な気配が支配します(https://youtu.be/nXOSIRrggQw)。

f:id:ikoma-san-jin:20210410065629j:plain:w150
MAHLER『Symphonie Nr.6』(EMI 7243 5 55294 2 8)
Klaus Tennstedt指揮、The London Philparmonic
 この曲では、第4楽章が冒頭からもやもやとした雰囲気に包まれます。どよめきとティンパニの連打のあと、弦のトレモロ木管の上昇音と下降音、金管の遠吠え、ティンパニーの幽かな音が入り混じります(https://youtu.be/5pb6vfPATYU)。3分30秒あたりまで続きます。

f:id:ikoma-san-jin:20210410065701j:plain:w150
MAHLER『Symphony No.9』(NAXOS 8.110852)
Bruno Walter指揮、Vienna Philharmonic Orchestra
 第1楽章では、6分30秒ぐらいにティンパニーが突然現われて不気味な音で驚かせます。16分15秒あたりで、またティンパニーが同じ轟きを響かせ、その後ハープなどで同じ音形が歩むように続きます。その背後でしばし弦が不安げな動きを見せるのも気配を感じさせます(https://youtu.be/SI85q1oDgLs)。

 歌曲では、『亡き子を偲ぶ歌』の「こんな嵐に」に、冒頭から波乱にとんだ、混沌に沈んでいくような雰囲気がありますが、途中2分50秒あたりから少し気配のあるフレーズが聞かれました(https://youtu.be/cOuDl_zRZZ0)。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065733j:plain:w150
MAHLER『Kindertotenlider』(NAXOS 8.110876)
Bruno Walter(Cond)、Kathleen Ferrier(Contralto)、Vienna Philharmonic Orchestra


 後期ロマン派の作曲家として、R・シュトラウスについては、色々とありそうですが、あまり覚えておりません。なかでは、歌劇『サロメ』の「7つのヴェールの踊り」に、もやもやとした気配が感じられました。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065800j:plain:w150
『Exotic Dances from the Opera』(REFERENCE RECORDINGS RR-71CD)
Eiji Oue指揮、MINNESOTA ORCHESTRA
 全体が茫洋とした雰囲気に包まれた曲ですが、おどろおどろしい冒頭に続いて、15秒ぐらいから、延々と曖昧模糊とした雰囲気となって(https://youtu.be/GHpEBIHD7ko)、この引用部分の後も3分40秒ぐらいまで続きます。


 その後の時代では、レーガーの『ベックリンの四つの詩への音楽』の「死の島」に濃厚な気配が感じられました。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065831j:plain:w150
MAX REGER『Mozart-Variationen/Böcklin-Suite』(BC 0021772BC)
HEINZ BONGARTZ(Cond)、Dresdner Philharmonie
 冒頭から小舟で島に近づいていく感じがありありとします。ベックリンの「死の島」の絵を見ながら聞くと情感が一層高まります。間欠的に聞こえてくるティンパニの響きが不気味な気配を感じさせます(https://youtu.be/6tfUyimiBUI)。

 「ヴォツェック」と言えば、アルバム・ベルクの作品が有名で、第3幕第2場の赤い月を背景にした狂気の殺人場面が出色ですが、手元にCDがないので、同じ「ヴォツェック」を題材にしたマンフレッド・グリュリ(Manfred Gurlitt)という人のたぶんその殺人場面と思しき部分を引用しておきます。
f:id:ikoma-san-jin:20210410065859j:plain:w150
『Die Deutsche Oper des 20. Jahrhunderts』(CAPRICCIO 10 724)より
Manfred Gurlitt『WOZZECK』
Gerd Albrecht指揮、Philharmonisches Staatsorchester Hamburg
 反復音とその背後に聞こえる心臓の鼓動を刻むかのようなティンパニーの高鳴りはベルクと共通しています(https://youtu.be/orlSdynz6_A)。


 他にもいろいろあると思いますが、今回はここまで。

福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』

f:id:ikoma-san-jin:20210405101903j:plain:w150                                        
福永光司『「馬」の文化と「船」の文化―古代日本と中国文化』(人文書院 1996年)


 前回に続いて福永光司の本。中国の北方文化と江南文化の比較、老荘思想、徐福伝説、道教の様々なシンボル、八幡大神、中国歴代皇帝と道教常世の信仰、墓と廟など、さまざまなテーマが道教と関連して語られていて、とても面白い。新聞や雑誌、劇パンフレットなどに寄稿した文章で、本来難しいはずの話がとても分かりやすく説明されています。

 メインテーマは、題名にもあるとおり、中国の北方を「馬」の文化とし、江南を「船」の文化として対比し、日本への影響を考察しているところにあります。
①北方の馬の文化は、人間の積極的な作為を重んじ、鼓舞叱咤して「乗る」文化であり、その社会構造的基盤は男性尊重の父系社会で、孔子を開祖とする儒家に通じる。一方、南方の船の文化は、人間の作為よりも宇宙大自然の法則真理にひたすら随順し無為無心を重んじる「乗せる」文化であり、その社会は女性優位の母系で、母や水をシンボルとする老子と親和性がある。

②馬の文化と船の文化を各項目ごとに次のように対比。馬の文化:1)垂直線上の天が生命の原郷とされている、2)「正邪」の価値判断を重視する、3)牧畜から出た「善」とか「美」という語と関連がある、4)コスモス的なるものを重視する、5)国の大事のためには肉親の情愛も没却して顧みない。船の文化:1)水平線上の海原に生命の原郷が想定されている、2)「真偽」の価値判断を重視、3)河川や海原から出た「浄」、「清」、「静」と親密である、4)カオス的なものを愛重する、5)個々人の生命を君主や国家に優先させる。

③馬の文化の地域では太陽を男性とし太陽の赤を男性のシンボルとするが、船の文化の地域では日輪を女性神とし赤を女性のシンボル、海神を男性とし青を男性のシンボルとする。古代の日本は、天照大神を太陽神、素戔嗚尊を海神とした。現在の日本で、女性用トイレを赤、男性用を青で標示したり、紅白歌合戦で女性を赤としたりするのもそこに淵源がある。中国では漢民族の文化が定着した地域のトイレの色は日本と逆である。

④古代の日本では、船の文化を代表する天照大神が皇室の遠祖であったが、その皇孫である応神天皇天武天皇らが、漢の武帝が基礎を固めた馬の文化の4点セット(騎馬戦法、儒教の採用、皇帝権力への宗教的神聖性の付与、神僊信仰の実施)を受け入れた。そして平安初期の嵯峨天皇北魏王朝の「源氏」制度を導入し、さらに清和天皇唐王朝の「八幡」軍神の信仰を取り入れて、次第に船の文化と馬の文化の両者が一体化されて行った。


 その他いくつか教えられるところがありましたので、ご紹介します。
①相撲は、中国で古くは「角力」「角抵戯」などとも呼ばれ、前二世紀、漢の武帝の天覧相撲としてスタート。天覧相撲なので力士の服装は衣冠の礼装をし、冠を着用するために台座になる髷を結った。現在日本の相撲でも、髷を結い、行司が古代中国の官吏の礼服を着て手に軍配を持ち、その軍配に「天下泰平」の漢字が記されていることはその名残である。これらは北方の馬の文化であるが、一方、大相撲の力士が裸体で裸足というのは、南方の船と海原の文化である。

神武天皇は、実は古代中国の呉の国王泰伯の子孫であるという論議が、14世紀、室町時代の京都建仁寺の学僧であった中巌円月らによって行われている。→似たような説が先日読んだ『数はどうして創られたか』で紹介されていた(2021年3月10日記事参照)。

③「倭人」という漢語が登場した1世紀頃は、西朝鮮湾から渤海湾黄海、現在の北京・河北の地域まで居住する人たちを指していた。黄河流域に首都を置いていた漢民族国家が南下し首都を江南に置いてから、主として日本列島沿海地区の居住者を呼ぶ言葉として定着するようになった。また、倭人は、現在の福建省広東省雲南省などに広く居住していた越人と、生活習俗、思想信仰に共通点が多く、ともに船の文化の担い手であった。

④「仙台」という漢語は、天上の神の世界の政府という意味。また「金沢」は「キンタク」と発音し、道教宗教哲学用語で、黄金の光沢を持つ神仙の容貌を形容する言葉である。

⑤『老子』では「道は淵(渦巻く水の意)として」という言葉、『荘子』でも「斉(水の渦巻く中の意)と倶(とも)に入り」という言葉があり、道教の根本にある老荘の哲学では道を渦巻と結びつけている。また道教神学者葛洪(かっこう)が、渦巻文様は災禍を避けることができるとして、渦巻文を鬼道の禁呪・護符の信仰と結合させた。神仙の手に渦巻の文様のある宝珠が描かれたり、道教寺院に渦巻文が多く見られるように、道教の特徴のひとつに渦巻文信仰がある。ちなみに「斉」に「にくずき」を付けた「臍」という漢字があるが、命の渦を巻いている生命の中枢部という意味である。

⑥『易』の天地陰陽の哲学で、「地」と「陰」、「形」と「鬼」に結合される「魄(肉体を構成する元素)」を葬る場所が「墓」であるのに対し、同じく「天」と「陽」、「気」と「神」に結合する「魂(精神を構成する元素)」を祭る場所は「廟」と呼ばれた。ところが、前三世紀、秦漢の時代から、墓において廟の祭祀が行われるようになった。秦漢以後の墓は、墓の形を天に象って円丘とし、墓前で営まれる祭祀の場所は方形とされた。この前方後円の築造形式は、現在の北京市の天壇とその前面の方形の広場の形に受け継がれている。日本の前方後円墳も明確に中国にルーツがあると見てよい。

marcel brion『nous avons traversé la montagne』(マルセル・ブリヨン『われわれはその山を通り抜けた』)

f:id:ikoma-san-jin:20210330064817j:plain:w150
marcel brion『nous avons traversé la montagne』(albin michel 1972年)


 引き続いてブリヨンを読みました。前回読んだ『Les Vaines Montagnes(辿り着けぬ峰々)』の序文で、奥さんのLiliane Brionが本作に言及して、ブリヨンの最上作品のひとつと書いていましたが、この小説は、『Les Vaines Montagnes』とテーマも構造もよく似ています。急峻な山の向こうの世界に憧れてその山を越えようとするところ、またいろんなエピソードを語り継ぐ手法など。「traversé」は普通なら「越えた」と訳すべきでしょうが、結局山の中腹の穴を通り抜けることになったので、「通り抜けた」というふうにしました。

 話しの大枠は次のようなもの。ある灼熱の土地の旅籠に居合わせた旅人たちがその後行動を共にし、目的も不確かなまま、現地のガイドやポーター、それに占い師まで雇って旅を続けるが、途中、超自然的現象のなかで一人また一人と脱落し、ガイドも失踪し、占い師もメンバーに呪いをかけながら空に消える。ついにリーダー的存在だったベルグもクレヴァスに消え、残った者たちで急峻な氷山を越えようとするが…。最後は消えていた死者たちもみんな集合して新たな旅に出る。

 次のような話が途中語られています。( )内は話者。他にも短い挿話がたくさんありましたが省略。
冠を剥奪された女王の伝説(旅籠の主人):昔、冠を剥奪され追放された女王がこの旅籠で英雄と出会い、結婚して失った国を奪還する。女王が唯一持ち出したという瑪瑙の鉢が残っており、旅人たちはそれで古いワインを飲む。

もぬけの殻の町(わたし):旅人たちが訪れた町は、温かい食事の用意があるなど、つい先ほどまで居た形跡を残しながら誰も住んでいなかった。勝手に家に上がり込み寝ると、翌朝、町民たちが戻ってきていたが旅人たちには気づかない。

大昔の種族の遺跡(わたし):太古の種族が岩にさまざまな図柄を彫りこんでいた。旅の一行がそこで寝るが、女の絵の上で寝ていたメンバーは淫夢魔に襲われたようにげっそりと窶れていた。

昔絵で見た天使と出会った黒い女神の祭(ピルジェ、イゴール):少年の頃イタリアの美術館で天使の絵を見て以来、その蒼い顔をした天使に憧れていたが、長じて、白い女神が黒い女神と年1回合体するという奇祭の儀式に立会ったとき、生贄となり殺されようとする少年がその天使にそっくりだった。

舟の上の女性と交わる奇祭(グラーム):南洋の黒い女神を信仰している村で、湖の何艘かの舟に赤いベッドがあり女性が寝ていて、男たちがその舟を目指して泳いでいくが、途中怪物が現われて湖底へ引きずり込む。イゴールも飛び込み12日後に戻ってきたが、女性と交わった後の記憶はないと言う。

尾行してくる幽霊騎馬隊(わたし):旅の一行につかず離れず併行してくる騎馬隊があった。いつも夕暮れ時の一瞬姿を見せるのだった。ついにある日、対峙し、騎馬隊が襲ってくるが、一陣の風が通り過ぎただけだった。

女騎士に連れていかれた湖の傍らの町(ペテルセン):幽霊騎馬隊の女性隊長だけが戻ってきて、ペテルセンは彼女について行き、数日後髭ぼうぼうで戻ってくる。地底の湖辺の町で何年も過ごしたが、ある日市場で、金の水差しの胴に描かれた細密画を見ると、そこに自分がいて呼びかけられたと言う。そう話して数日後また姿を消した。

河に駿馬もろとも飛び込んで溺れた皇帝の話(渡し舟の船頭):鉄の部隊とともに河にやってきた皇帝は、どうしても向う岸に渡りたいと言う。川沿いに進むことを主張する隊員たちが止めるのも聞かず、水嵩の増した河に入って行き、愛馬の黒馬とともに沈む。

石けり遊びの図を黒板に書かされる夢(わたし):教室の黒板の前に立たされ、子どもたちの石けり遊びの迷路の図を書けと命じられる。窓から子どもたちがどうなるかと見ている。子どもが頭上に持っている飛行機を見て、仕方なく飛行機の絵を描いた。

続いてテセウスミノタウロスが鏡の部屋で戦う夢(わたし):卒業式の式典でテセウスミノタウロスの物語が演じられている。鏡の部屋なので自分の鏡像と闘っているとも見える。私は剣を避けながら鏡にしがみついている。どうやらここは石けり遊びの枠のなかのようだ。

逃亡する占い師(わたし):高台に登る途中に、架空の動物も含めさまざまな動物の石像群があり、それらの像を足場にして攀じ登った。占い師は死者の国へ行って最上のルートを聞いてきたはずなのに教えてくれない。ガイドたちが占い師を縛り付けて吐かそうとすると、大音響とともに縄が解け、占い師はグリフィンの石像に乗って空高く舞い上がって行った。

地上と地下が対称的な形をした寺(ピルジェが商人から聞いた話):寺を建築中に隕石が落ちて穴を開けた。それをきっかけに地下にも地上と対称の寺を作る。降りて行くほどに部屋が小さくなる形をしている。世界の終りの日が来ると、地上の寺は崩れ落ち地下の寺は埋まるという。

若き日のピアノのレッスンの思い出(ヴェンゼル):占い師から呪いをかけられたヴェンゼルは日に日に弱って行き、動けなくなったので、牧童のテントで世話になる。そこでピアノの先生からいつも間違いを指摘されていたことを思い出す。それはシューベルトの遺作のソナタだった。

族長の墓(わたし):丘の麓に墓が立ち並んでいたが、そのなかでひときわ立派な墓があった。どうやらかつての族長の墓らしい。子どもから大人になるまでの姿、前世の様々な生き物の姿の像に囲まれていた。

ベルグの失踪(作者):氷に覆われた高台でキャンプしていたとき、ベルグは子どもの頃飼っていた小犬の鳴き声を聞いたように思って外に出た。その小犬は大きな鳥に襲われ、幼いベルグは必死で鳥と格闘したが攫われてしまった苦い思い出がある。小犬について穴のなかに入り頭を撫ぜていると穴が閉じた。

小人が広げる絨毯の上に乗って見る幻影の庭(グラーム):夢のなかに身体もろとも吸い込まれグラームはベッドから消えたが、戻ってきて見た夢の話をする。小人が広げた絨毯の上に乗ると、そこは十字路で池と花壇があり、果てしない平原が広がっていた。外へ出ろと言う小人の声で出ると、そこは石けり遊びの枠のなかだった。別の枠に移ると、ピアノを前にしたヴェンゼルがいたり、テセウスミノタウロスの部屋だったり、ある男を追いかけてあと少しで列車が出て行ったり、帰るホテルを忘れてさまよったりし、最後に天文学者たちが群れる観測所で訳の分からない地獄に落とされたように感じ、ようやく階段を見つけ登り詰めた。


 夢の在り方が一つのテーマになっていると思われます。最後のグラームの夢で起こったように、夢のなかに身体も入りこんで、そのままベッドから消えてしまうということが起こります。またすべて夢と言ってしまえばそれで終わりですが、夢を操る小人がいたり、見知らぬ男が夢のなかにまで入りこんで追いかけてきたりします。物語の最初から最後まで、石けり遊びの枠という言葉がよく出てきて、その枠のなかで幻を展開して見せますが、これも夢の一種と言えます。

 もうひとつは、ペテルセンが語る地底の町の話に、時間感覚を喪失する話が二種類見られることです。ペテルセンは地底の湖の町に何ヶ月いや何年も行っていたと言い窶れ果てていますが、実際は1週間足らずでした。これは浦島物語の逆パターン。また市場で見つけた水差しの腹の部分に細密画が描かれていて、自分自身の一生がそこで展開しているのを見ます。これは邯鄲の一炊の夢と似ています。

 前にも書きましたが、ブリヨンの作風は、一つの詩を冗舌と反復によって大きく引き伸ばして長編に仕立て上げている感じがあります。同じような詩的情緒が繰り返される一種のマニエリスムマンネリズム)と言えるでしょうが、バロックマニエリスムにありがちなけたたましさは感じられません。「夜」、「光」、「沈黙」、「影」などの詩語は、若いころには共感しても、そのうち単純な技巧に思えて忌避するようになりますが、私のような歳になると、使い古された詩語であっても嫌な気がしなくなっているので、静謐な雰囲気に浸れるのが心地よく感じられます。

 日本の弓道について、「矢はそれ自身が的である」という禅問答的な言葉とともに、言及がありました(p269)。

今年初めて古本市へ行く

 ついに今年になって初めて奈良県外へ出ました。古本市も今年初、しかも大阪古書会館の即売会と阪神百貨店古書ノ市の二つの古本市をはしごしました。さすがに寄る年波にどっと疲れて、夜の部の待ち合わせ時間まで持たず、喫茶店で休憩するはめに。自分も出ておいて言うのもなんですが、結構人出が多く、大丈夫かなという感じです。

 大阪古書会館では下記二冊。とにかく安い。
小島政二郎『俳句の天才―久保田万太郎』(彌生書房、80年6月、200円)
R・N・シェパード鈴木光太郎/芳賀康朗訳『視覚のトリック―だまし絵が語る〈見る〉しくみ』(新曜社、94年1月、300円)
f:id:ikoma-san-jin:20210325132333j:plain:w154
 阪神古書ノ市は白っぽい本が多く、欲しい本もありますが値段もそれなりに高い。なかで比較的リーズナブルな本を購入。
PAUL MORAND『POÈMES(1914-1924)』(AU SANS PAREIL、24年?月、300円)
千田稔『奈良・大和を愛したあなたへ』(東方出版、18年1月、500円)
→奈良を訪れた文人を紹介している。
荒川紘『龍の起源』(紀伊國屋書店、00年1月、900円)
西澤美仁編『西行―魂の旅路』(角川ソフィア文庫平成23年12月、200円)
君野隆久『ことばで織られた都市―近代の詩と詩人たち』(三元社、08年5月、700円)
→「ことばで織られた都市」、「水路の詩学・断章」の二編が気に入って。
京都国立近代美術館監修『長谷川潔』(便利堂、06年4月、1200円)
→展覧会図録は持っているが、瀟洒な造本が気に入って無性に欲しくなる。これは病気か。
f:id:ikoma-san-jin:20210325132426j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20210325132450j:plain:w162
 店買いでは、近所のBOOK-OFFで。
野口冨士男編『荷風随筆集(上)―日和下駄他十六篇』(岩波文庫、08年1月、98円)

 ネット注文やオークションでぽつぽつ買ううちに、積もり積もって結構な量となりました。反省至極。
Georges-Olivier Châteaureynaud『Le château de verre』(JULLIARD、94年8月、送料込み2570円)
Georges-Olivier Châteaureynaud『LA FACULTE DES SONGES』(France-Loisir、83年3月、送料込み3296円)
→この二冊はフランスへの発注。私の数少ない読書で知る限り、現役のフランス幻想作家のなかでは、Hubert Haddadと並んで双璧ではないでしょうか。
Claude Puzin『LE FANTASTIQUE』(FERNAND NATHAN、84年5月、300円)
幻想文学論だが概論的なもののよう。慶應義塾大学研究室の蔵印が捺してある。
f:id:ikoma-san-jin:20210325132600j:plain:w146  f:id:ikoma-san-jin:20210325132536j:plain:w158  f:id:ikoma-san-jin:20210325132620j:plain:w150
西條八十『巴里小曲集』(交蘭社、大正15年4月、1500円)
賀陽亜希子訳『フランス詩人によるプチ鳥類図鑑』(白鳳社、93年6月、550円)
→鳥詩のアンソロジー。同じ訳者の『パリ小事典』というアンソロジーも所有している。
植田実『真夜中の庭―物語にひそむ建築』(みすず書房、11年6月、1530円)
→児童文学やファンタジー小説の場について論じている、ようだ。
赤瀬雅子『フランス随想―比較文化的エセー』(秀英書房、07年10月、300円)
佐藤輝夫他『フランス文學名句集』(河出書房、昭和29年4月、300円)
マーリオ・ヤコービ松代洋一訳『楽園願望』(紀伊國屋書店、88年11月、880円)
f:id:ikoma-san-jin:20210325132651j:plain:w146  f:id:ikoma-san-jin:20210325132722j:plain:w148  f:id:ikoma-san-jin:20210325132745j:plain:w150  f:id:ikoma-san-jin:20210325132804j:plain:w150

福永光司『道教と古代日本』

f:id:ikoma-san-jin:20210320065905j:plain:w150
福永光司道教と古代日本』(人文書院 1987年)


 このところ読んだ『数の文化史を歩く』や『日本史を彩る道教の謎』によく引用されていた本。肝心な説はだいたい読んだことのある話が多かったので、読む順序が逆だったと反省しております。それと、あちこちで講演した記録や雑誌に掲載されたのをまとめたものなので、重複が多いのが難点。

 これまでになかった話としては(と思うが見過ごしていただけかもしれない)、
①古代日本と中国江南地方(呉)の密接な関係が語られていた。応神天皇の時代に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つがのおみ)という二人の朝鮮系人物を呉に派遣して、四人の縫工女(きぬぬいひめ)を日本に呼んで、織物の技術を導入したとのこと。その他、呉からは鏡や、刀鍛冶の技術も導入。著者は実際に南の中国に行って、子どもの背負い方から田植えの仕方、祭りの笛や太鼓の鳴らし方、神楽の舞い方などが日本とよく似ており、宇治か嵯峨野あたりを歩いている印象を受けたという。

道教の歴史についての記述。古くからある江南地方のシャーマニズムを基盤に、呉の葛玄が陰陽五行の「易」と『老子』の「玄」の哲学を導入して、3世紀頃道教の神学を形成したこと。流派としては、葛玄から葛洪に受け継がれた金丹を重視する洞玄霊宝派、その後、東晋時代に楊羲、許謐を中心とする神のお告げを重視する上清派茅山道教があり、この二つを統合し、さらに、後の大平道の宗教一揆五斗米道につながる山東地方のシャーマニズムの斉巫の理論も取り込んで、5世紀頃、陸修静が教理を整備し、陶弘景がそれを完成させた。教典としては、6世紀後半の『無上秘要』(100巻中68巻残存)、11世紀前半の『雲笈七籤』(120巻)、15世紀半ばの『正統道蔵』(5485巻)がある。ちなみに、現在の中国の道教は、古く正統的な正一派と宗教改革で誕生した全真派の二つに分かれるとのこと。

道教の多面的な様相への言及があった。ひとつは、仙術の具体的な手法で、一が呼吸法、二が太極拳につながる導引、三が服薬、四が房中術ということ。ふたつめは、道教社会福祉的な側面で、古くから「義舎」という無料宿泊所を運営していて、「共同」とか「連帯」を重んじていたこと。近代中国社会の秘密結社、青帮(ちんばん)や紅帮(ほんばん)の「帮」も道教のそういった思想と関連している。

④渡来人についての記述がたくさん見られた。595年に渡来して、仏教を広めた百済の僧恵聡、602年に渡来して、暦本、天文地理の書、遁甲方術の書を献上した百済の僧観勒、聖徳太子の仏教学や学術の師だった高麗の僧恵慈、小野妹古の孫小野毛野とともに遣新羅使に任命された伊吉博徳(いきのはかとこ)、また著者の郷里の宇佐には新羅系の人たちがたくさん渡来して、香春岳の麓の河原に住み、採銅・造鏡の技術を伝えたらしい。そこから、八幡大神というのは中国大陸から来た神で、金属器と水稲稲作に代表される弥生式文化の守護神ではないかとしている。

 中国の昔の歴史書には「日本人が中国にやってくると、彼らは口をそろえて、われわれはお国の太伯という王様の子孫であると言う」(p51)と書いてあると指摘したり、「不幸なことに・・・日清戦争で日本が勝ちますと、いよいよ中国を侮蔑する考え方が強くなって・・・中国人を・・・チャンコロとか呼ぶようになりますが、チャンコロというのは中国人を中国音で読むと、チョンクオレンになるので、それがチャンコロに訛った・・・もともとは軽蔑する意味などなかった」(p53)という記述を読むと、これはまったく私の勝手な想像ですが、著者は、戦前(1918年)生まれなので、戦争に導いた国学的思想への反感がどこかにあって、彼らの崇める古代日本も結局は中国にルーツがあるという説に向かわせているような気がします。

 しかし、中国にルーツがあると指摘することだけに終わってしまえば、日本がオリジナルだと讃美するのと同じ落とし穴にはまってしまうように思えます。史実をできる限り具体的に調べ、なぜそうした影響を受けることになったのか、何が元からあり、影響や融合によって何が新しく生まれたか、影響を受けずに残ったのは何かなど、いろいろと相互の関係で探究すべきことが多いように考えます。

高橋徹/千田稔『日本史を彩る道教の謎』

f:id:ikoma-san-jin:20210315101033j:plain:w150
高橋徹/千田稔『日本史を彩る道教の謎』(日本文芸社 1992年)


 先日読んだ田坂昻『数の文化史を歩く』で、日本の古代に道教の影響が色濃くあるという話を読んで興味が湧いたので、ちょうどうまい具合に本棚にあったこの本を引っ張り出してきました。なぜか昨年夏に、現在の興味を先取りしたかのように買っていたのでびっくりした次第です。

 著者は、『数の文化史を歩く』でも引用されていた福永光司の学恩を受けて、この研究の道に進んだらしいのですが、専門的な本というより、一般読者向けに若干興味本位で書かれたという感じ。道教が日本に与えた影響の痕跡が習俗や信仰のなかに残っていると列挙しています。カバーデザインが「酒場放浪記」の吉田類というのが珍しい。

 いくつか分かったことは、
①日本における道教研究の歴史についてで、江戸時代や戦前までは散発的に道教の影響が指摘されてはきたが、戦時中はとくに天皇の名称の起源にもかかわる問題を孕んでいたこともあり、そうした研究は排除され、かろうじて庚申信仰修験道への影響が認められていた程度だった。戦後になって、上田正昭、上山春平、福永光司らが道教は古代日本文化の根幹に影響をもたらしたのではないかと主張しはじめたということ。

②古代日本が道教の影響を受けることになったのは、中国から学ぼうと遣唐船を送ったとき、当時の中国では道教が盛んだったこと、また中国においても、仏教の経典をインドから移入する際、土俗の宗教用語を使って翻訳したので、そこに道教的なものがすでに交じってしまっていたことがある。

道教と仏教の大きな違いは、道教が現世利益、仏教が来世利益を説いているということ。仏教の中でも『法華経』に収められた「観音経」が、他の教典と比べて現世利益的で、中国では、観音様は「観音娘々(ニャンニャン)」や「観音媽」と呼ばれ、道教の神として信仰されているという。

 道教の影響として列挙されていることのいくつかを紹介すると、
道教の神仙思想がもたらしたものとして、『懐風藻』にすでに神仙思想を背景とした漢詩文がたくさん載せられていること、山で修行し九字を切ったりする修験道への影響、道教養生術の導引と呼ばれる健康法が按摩になったこと、金粉入りのお神酒や陀羅尼助という漢方薬なども道教の仙薬由来であること。

②日本に現在も続いている習俗で言うと、絵馬は牛馬を殺す漢神信仰がもとであり、てるてる坊主は道教の人形(ひとがた)信仰、神社や寺の護符はもともと道教のもの、さらに、屠蘇や七草粥、小豆粥、羽根つきの顔の墨塗り、端午の節句、七夕など、日本古来の習俗と思われていたことが、だいたい中国江南の習俗を記録した『荊楚歳時記』に書かれている。中元ももとは中国で7月15日(中元の日)に道教の神に供え物をするのが起こり、節分の追儺も中国古来の悪鬼を払い疫病を除く道教儀式であり、茅の輪くぐりも茅が仙薬ということから始まっている。

道教の神で日本にも関係があるのは、北極星が神格化された天皇大帝(これが天皇という言葉の出典と推測される)、端午の節句鍾馗、七夕の織女(道教の神・西王母が変化したもの)、妙見さん(北極星を神格化)、鎮宅さん(北斗七星の神格化)、荒神さん(道教の竈神信仰の影響)、祇園祭牛頭天王木星の神格化)、七福神の福禄寿と寿老人など。

④その他
平安時代、元旦に天皇自らが行っていた「四方拝」の儀礼は、「急々如律令」という道教の呪文を唱えるなどして、道教儀礼そのものであること、また日本古来の神璽である鏡と剣の象徴性は道教と深い関係にあるとしている。