古東哲明『瞬間を生きる哲学』

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古東哲明『瞬間を生きる哲学―〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書 2011年)

 

 知らない人でしたが、同世代で、テーマも面白そうだし、文章が分かりやすかったので購入。文章のやさしさはどこかで読んだことがあるなと思っていたら、内容、書き方ともに森本哲郎によく似ています。最近読んだ河本英夫もそうでしたが、最近の哲学者は理論を説明するだけでなく、問題に対する具体的な処方も同時に書くのが流行のようです。この本では、多忙な日常を生きるなか、瞬間を得る8つの技法が紹介されていました。

 

 論旨はおおざっぱに以下のとおりです。現代に生きる人は、「いま」を生きることをせず、将来のために学業や仕事に克己努力するというように、なにかの「タメに生きる習慣」があたりまえになっている。とくに資本主義経済システムは、世俗化した禁欲精神が基本にあり、今ここに沸き上がる歓喜をガマンし、未来の利得や成果をあてにし将来の幸福に備える備蓄思想である。この近代特有の「先へ前へ競わせ駆り立てる仕組み」が現代の生活を慌ただしくしている。また遠くの世界とつながるラジオや電話、さらにはテレビジョンの登場が、いま・ここでない二重性のなかに生きる生のスタイルを形作ってきた。

 

 「速度」が重要になっている現代では遅刻はもってのほかとされるが、近代以前の社会は時間にルーズであった。いいかえれば、効率的で時間厳守的な人生より、もっと重要なことがあるという人生観を持っていた。日本人は時間を守り勤勉だと言われるが、そうした態度も、昭和に入る頃にかろうじて本格化したものであり、小学校の修身の教科書などで、何も知らない子どもたちの脳味噌に摺り込まれたものである。

 

 プルーストが、「現実というものの表面にはすぐに習慣と理知の氷が張ってしまうので、けっして生の現実を見ることがない」と考え、過去を過去として思い出す通常の「意志的想起」ではなく、かつて「生きられた瞬間」であった過去をそのまま現在に蘇らす「非意志的想起」という技法を編み出し、小説作品においてその実践を試み「真の生」を取り戻そうとした、という例を紹介し、現在をしっかり経験する機会としては、芸術作品に接することだとして、俳句を例にとり説明する。最後にインドで悟りを開いたような少女との会話を紹介しているが、この最後のインドの少女との会話がいかにも創作らしく、そのあたりが森本哲郎と似ているところです。

 

 一元論的思考になっていて、見る角度や持ち出される例はあれこれ変わりますが、結局同じことばかり書かれているので冗長な印象があります。この瞬間を生きることを忘れて非現実的な観念に振り回されてあくせくしている現代人や、そうした構造を作り上げている現代社会は間違っているというのが主張のようですが、では、その問題をどうすれば解決できるかということに関しては、個人レベルでの芸術鑑賞や瞬間を生きる技法の実践を薦めているだけで、社会に対しては何の提言もありません。われわれが学生の頃は、ヒッピー運動というのがあって、人間らしい真の生活を目指して、社会から隔絶してコミュニティを作ろうとする人たちがいましたが、失敗に帰しました。社会全体としてはもう後戻りができない所まで来ているということでしょう。

 

 貴重な現在を未来に投資するなと言っても、70歳の老人と5歳の幼児ではまったく立場が異なります。幼児に対して現在にだけ留まれというのは酷で、未来に対する教育というものが必要でしょうし、逆に老人は放っておいても現在のその時々にしか生きられないものです。また競争に駆られてあくせくした現代人と一言で言っても、学問の研鑽や激しいビジネスの最先端にいる人たちは、切磋琢磨しながら生の燃焼を瞬間的に感じているのではないでしょうか。そもそも「あくせくした現代人」といった設問自体、ニーチェがどこかで書いていたように、生を喪失したところから発せられているのです。

 

 本人も、最後に、「四六時中、瞬間を生き、真の生に見開かれている必要なんかない」(p252)と書いているので、自覚していると分かりましたが、たまに美しい瞬間が訪れるから輝くのではないでしょうか。真の生に溢れた瞬間ばかり連続したのでは疲れてしまって、逆に習慣的で惰性的な日常にゆったりと浸りたいと思うのではないでしょうか。また著者自身が一人で瞬間を楽しみたいという気持ちは分かりますが、それを他人に説教するのはどうかという気がします。

 

 最後に本書で紹介されている瞬間を生きる技法をいくつか引用しておきます。

①1分間何もせずに瞬間を味わうこと、眼前の光景、あるいは物音に集中すること

②自分の体をつねること。痛みの感覚は瞬間の感覚である。

③瞬間に身投げするかのように沈むにまかせる。すなわち意志的主体を放棄するということ。すると自然に浮き上がってくる。

④超スロー歩行。右足を7秒ほどかけて15センチほどの高さまであげ、同じ秒数で降ろす。左足も同様。二歩目はさらに倍のスロー歩行。三歩目はさらに遅くし、次に方向転換してまた三歩かけて戻る。

⑤三度の深呼吸をする。1回の呼吸は20秒。ゆっくりと吸い、気がかりや欲念のすべてを吐き出す。息を引き取る最後の呼吸だと思うこと。

リズムに関する本二冊

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ルートヴィヒ・クラーゲス杉浦実訳『リズムの本質』(みすず書房 1977年)

山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社 2018年)

 

 以前から気になっていたリズムの本を読んでみました。クラーゲスの本は、学生時代に話題になった本で、当時友人がクラーゲスの名を連呼していたのを覚えています。山崎正和の本はクラーゲスについての章もあり、彼の著作から刺激を受け思考を発展させて成り立ったものと思います。山崎正和の著作は、『このアメリカ』『おんりい・いえすたでい‘60s』『柔らかい個人主義の誕生』『演技する精神』『文化開国への挑戦』など、ひと頃よく読みましたが、最近のものは読んでませんでした。高齢になり、重篤の病のただなかにあってもなお考え続けるその精神の強靭さには感心してしまいます。

 

 両者ともに共通するのは、西洋哲学の主流であった精神と物質の二元論に支配的である硬直した機械論的な見方を廃し、世界を流動し変化するものとして捉え、生命の脈動的なありかたに着目しているところです。異なる点を言えば、クラーゲスはリズム­=生命に特化して考えているのに対し、山崎正和の方は、身体論の成果などを取り入れ、科学研究などにも言及する視野の広いものになっていると感じました。

 

 『リズムの本質』は、冒頭でいきなり、リズムと拍子は異なるものと切りだし縷々説明が続くので狐につままれたようになり、同じようなものなのになぜそんなにこだわるのかと思いながら読んで行って、その違いが分かるようになった頃、ようやくこの本の目指すところが氷解しました。哲学書であり、難しい単語や言い回しも出てきますが、訳者がとても親切で、分かりやすく補いながら訳しており、事項訳注と人名訳注もあって懇切丁寧。また巻末の解説が、この本の骨子を要を得て簡潔に書いていて、本文で挫折した人はここだけ読めば大筋が理解ができると思います。

 

 いくつか曲解をまじえて要点を記しますと、

①人間が体験する現象の世界は、同じ事物にたいしても、5歳の幼児と70歳の老人は異なる風に受容し、また同一の人間であっても「おなじ川に二度入ることはできない」(ヘラクレイトス)ということを考えると、転変する無常の世界である。一方、事物の世界は無時間的、固着的である。

②同じ調子でハンマーを叩く音を聞くとき、客観的には存在しない二音に分節した強弱の周期的交替音を聞きとってしまう。リズムは現象の世界に属するもので無意識的な生命現象であり、拍子は意識の働きによる規則現象である。

③時間の持続を感じとることができるのは、各瞬間ごとの変化の類似性を把握できるからである。持続は分節があってはじめて持続と感じられる。

④生命は熟睡、麻酔、失神のあいだも活動している。一方、覚醒とは単に意識的なものではなく、覚醒のあいだも肉体感情の波打つ下を、無意識的な霊的直観(睡眠的なもの)が絶えず流れ続けており、覚醒と睡眠の時間的交替は生命のリズムの交替に根ざしてるだけの話だ。リズムの体験が意識下でなされる場合、緊張が解かれ睡眠状態に陥ることは皆が経験するところだ。

⑤時間的な現象は同時に空間的である。たとえば、笛の音を、音強、音高、音長、音色、音量で記述するだけでは不十分で、どこから聞こえてくるものかを書きとめなければならない。

⑥天と地、昼と夜、夏と冬、生長と衰弱、拘束と放逐など、自然や人間世界の周期的運動は両極の力関係から生ずるリズム的脈動であり、機械的な均等な分割のありかたとは異なっている。

⑦障害あるいは欠乏によって生命事象が高められるという事実があるように、リズムは拍子の抵抗に遇って屈折することで、顕著な働きを持つようになる。

 

 まとめていて、自分でもよく理解できてないことが分かりましたが、全般的に言えるのは、単調で機械的なものに対する反発がありありとうかがえるところで、メトロノームどおりに正確に演奏された音楽は機械的であるが、名指揮者は旋律が張りつめリズムに乗った演奏をすると書いたり、中世の石の建築は石の継ぎ目の多様性により壁面に生命を与えていると書くなど、職人芸的な流動性や多様性をリズム的なものとして重んじています。「もっとも完全な規則現象である機械の運動はリズムを否定する」とも書いていて、「リズム>拍子」のリズム一元論と言えるでしょう。

 

 『リズムの哲学ノート』も、なかなか難しくてすべて理解したとは言えませんが、著者の眼目は、文中で何度も書いているように、ギリシャ哲学以来の文明と自然、精神と物質、主体と客体などの二項対立を絶対視する偏見を克服しようとするところにあり、「あとがき」でも次のように書いています。「善といえば悪、光といえば闇、神といえば悪魔というように、一元論は必ずその反対物を呼び起こすのである。私はこのジレンマを解決するには、最初から内に反対物を含みこみ、反対物によって活力を強められるような現象を発見し、これを森羅万象の根源に置くほかはないと漠然と考えていた。そしてそういう現象がたぶんリズムだろうということも」(p253)

 

 身体と記憶、アスペクト、鹿おどし構造、ゲシュタルトの地と図、暗黙知などいくつかのキーワードがあり、それに沿って論点をまとめてみます。

①リズムと身体の関係について、リズムを感受するのは脳ではなく身体の全体であり、人が「波のリズムを感じる」と言うとき、真相は波のリズムがすでに波を離れ、身体そのもののリズムとなって拍動しているということである。また同じように、記憶は脳の産物ではなく、筋肉を含めた全身の作用である。泳ぐことも自転車に乗ることも身体で覚える他はない能力であり、練習とは身体から意識の関与を排除し、リズムの支配に委ねるための行動だと言える。

②同じ対象が観点によって違って見えるのが事物であり、対象ごとに唯一の観点しか許さないのが観念である。記憶は当初は受動的で、事物の複雑なアスペクト(多様な側面)のすべてを保とうとするが、次第に事物の素描化を進め、その素描化が極致に達し、アスペクトの数が一つにまで減じたとき、それが観念と呼ばれる。観念とは人が意識によって完全に操作できるようにした対象である。事物が事物らしい生々しさを帯びるのは、それが観念に区切られているからであり、観念もまた、区切るべき事物があって初めて成立しうる存在である。この相互依存性こそ二組の対立がそれぞれリズムの関係にあることを物語っている。

③リズムが生まれるにはまず運動の流動を堰き止める抵抗体が必要となる。このリズムの構造を体現しているのが日本庭園にある鹿おどしである。歩行を例に考えると、身体の行動にとっての空間は、疲れをもたらす源であり抵抗体である。一歩の適切な歩幅は、力の流動に「ため」を与え、それによって力を増幅するという意味で、鹿おどしに喩えられる。

ゲシュタルトの考えから、活力と疲労という例を見ると、畑を耕す人間にとっては最初は土や鋤が「図」であり、身体は行動の「地」となって陰に隠れているが、体が疲れると「図」は完全に身体に移る。が休息によって活力が回復すると、また「図」と「地」は交替する。ここには明らかにリズム構造があり、ゲシュタルトはリズム現象の一種と考えることができる。

暗黙知とは、個人の身についた知恵と技芸であり、科学研究を考えた場合、研究にヴィジョンを与えてそれを研究者に確信させる力は、暗黙知のなかからしか生まれてこない。一方、科学は、小さく分割された領域での因果関係の解明という分節知によって推し進められてきた。つまり、科学は暗黙知と分節知の相互促進的な協働、両者間のリズム構造であったともいえる。実は、この一見非論理的な見かけを持つ暗黙知も、それを深く究明すれば、内部には複雑な論理構造が畳み込まれていることが分かるのである。

 

 末尾に、ほぼ結論として次のようなことが書かれていました。「自然現象であれ文化現象であれ、そのなかでみずからが『運ばれて』いることを鋭く感知し、リズムに乗せられていることを自覚することが重要である。これは常識的には人が謙虚になるということだが、哲学的にはリズムの顕現が認識されるということである。人が『運ばれ』て生きている事実を自覚するには、藝術とスポーツに親しむことが格好の方途である」と。私は、芸術やスポーツよりは、麻雀がいちばんいいと思いますが。

プレイヤード版のボードレールとヴェルレーヌを買う

 今月は、フランス書は下記の三冊。ユベール・アダッドは先月フランスの古本屋に発注していたもの。ボードレールヴェルレーヌのプレイヤード版は、昔から手元にと思いつつ高くて買えなかったのが、オークションで少し安く出ていたので買ったもの。読むはずはないが、積年の恨みを果たしました。

HUBERT HADDAD『Un rêve de glace』(ZULMA、06年1月、1864円)→バロニアンの本では代表作として名前が挙がっていた。

Baudelaire『Œuvres complètes』(GALLIMARD、71年7月、3100円)

Verlaine『Œuvres poétiques complètes』(GALLIMARD、68年3月、2700円) 

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 店頭では、恒例の会社OB麻雀会の途上、堺筋本町の槇尾書店にて。

トーマス・パヴェル江口修訳『ペルシャの鏡』(工作舎、93年3月、756円)→幻想哲学小説だの、ルーマニアボルヘスだのの惹句に誘われて。

高階絵里加『異界の海―芳翠・清輝・天心における西洋』(三好企画、00年12月、1080円)→19世紀末日仏交流の一断面の詳細が記されている。

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オークションでは、長谷川郁夫の大作が収穫か。これも読みそうにありませんが。

長谷川郁夫『堀口大學―詩は一生の長い道』(河出書房新社、09年11月、1600円)

柳宗玄監修/写真『フランス古寺巡礼』(岩波写真文庫、55年11月、216円)

植朗子『「ドイツ伝説集」のコスモロジー―配列・エレメント・モティーフ』(鳥影社、13年6月、400円)

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 アマゾンで下記。妙な味わいの詩を書く人。生駒山麓在住らしいので何かの縁で。

『貞久秀紀詩集』(思潮社、15年4月、1143円)

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『ギュスターヴ・モロー展』カタログ

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喜多崎親ほか『ギュスターヴ・モロー展―サロメと宿命の女たち』カタログ(パナソニック留美術館、あべのハルカス美術館ほか 2019年)                                  

 

 奈良日仏協会で美術クラブ鑑賞会があったので、その準備としてカタログを読みました。昨年の『プーシキン美術館展』のときも、このブログでカタログを取りあげていますが(9月26日記事参照)、両方の経験から言えることは、美術展はカタログを先に読んでから見た方がいいということです。

 

 なぜかというと、展覧会では、つい説明ばかりを読んでしまって作品をあまり注視しなくなり、説明書きを見ている時間の方が長くなりがちです。それに説明の字が小さいので読むのに難儀してしまいます。これが事前にカタログを読み込んで行けば、説明をパスして絵をじっくり見ることができるのです。さらに事前に展覧会の趣旨や画家の全体像が理解できているので作品を見る目も変わってくるし、また好きな絵を密かに選定しているので、実物を見るのが楽しみになってくるのです。どの絵を時間をかけて見ればいいかあらかじめ段取りができるということです。

 

 マイナスがあるとすれば、初めて絵を見る驚きがなくなることでしょうか。観光地に出かけるのに、ガイドブックに書いてあることを確認しながら歩いているだけという笑い話がありますが、それに近いものがあるように思います。展覧会の場合はすでに絵が選ばれた後なので、また少し違うような気もしますがよく分かりません。もう一つは忙しい人の場合、カタログを買うためにだけ会場に行くのは、なかなか大変だということです。暇人ならではのことかも分かりません。

 

 それはさておき、ギュスターヴ・モローは昔から好きな画家の一人です。今回あらためて、感心したのは、やはり絵の上を覆う細い銀色の線描の美しさで、このカタログによると、ウィルマンの『フランスのモニュメント』という本からグロテスク文様、フランツ・マルコー編『比較彫刻美術館アルバム』からロマネスク教会を飾る動物や怪物の柱頭彫刻を模写し、熱心に練習していたことがよく分かります。「踊るサロメ」(この展覧会には出品されていない)で、線描が人物の身体や柱などの枠をはみ出して広がっていくのは、解説の喜多崎親によれば、サロメの神秘的な性格を比喩的に表わすものとしていますが、さらに言えばモローがこの装飾的図柄に淫していたからに違いありません。

 

 そうした模写や練習のデッサンの展示を見ていると、モローの事前の準備の周到さは並々ならぬもので、神話の想像上の一場面を描くのに、人物のポーズをさまざまなモデルに依頼して描いており、また同じテーマでいくつもの違う場面を下絵として描いているのに、驚きました。

 

 もう一つ印象的だったのは、モローの東洋趣味で、神話を題材にするということ自体に異国情緒への嗜好がうかがえます。古代ローマという一種の東方を描くのにも、さまざまな東洋の装飾を混淆させ、どの時代、どの地域と特定できないような世界を描いているという喜多崎親の指摘にも共感しました。とくに衣装や冠、宝飾などに注目してみると、そうした味わいが増します。

 

 モローは幼い頃父親から西洋古典の手ほどきを受け、ギリシアローマ神話や、旧約の世界に親しんだこともあり、後年の文学的な性向が育まれたもののようです。私の好きな世紀末作家ジャン・ロランとの交友もあり(書簡集が出版されている)、ロランの詩集にモローが挿絵を描いたり、ロランがモローに詩を捧げたりしています。当時の文学的流行にも敏感だったに違いありません。フランス詩の歴史のなかで、うろ覚えですが、高踏派の前後に、ギリシア神話や旧約などの古代世界やインド・オリエントを舞台とした詩が流行した時期があったというので、モローはそうした動きの影響を受けていたのかもしれません。

 

 サロメの舞は、福音書の時代には触れられていないが、19世紀半ば頃からアルメと呼ばれるエジプトの踊り子の舞と同一視されるようになったという指摘がありましたが、意外と新しいことだったのを知りました。同時代のランボーの詩句に「アルメであるか、あの女」というのがあったのを思い出します。意味がよく分からないまま頭にこびりついていましたが、踊り子のことだったんですね。アルメの出し物が「蜜蜂の踊り」というもので、衣服の中に蜂が入ったという設定で演じられる一種のストリップティーズとありましたが、一度見てみたいものです。

JEAN RICHEPIN『LE COIN DES FOUS』(ジャン・リシュパン『狂気の縁』)

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JEAN RICHEPIN『LE COIN DES FOUS―HISTOIRES HORRIBLES』(Le Chat Rouge 2011年)

 

 タイトルは、「au coin de feu(炉辺で)」をもじっています。前回読んだ『Les morts bizarres(風変わりな死)』よりはよくできていて、まだリシュパンは3冊しか読んでませんが、いちばんの傑作集。ジェラルド・ドゥシュマンの序文によると、初出は1892年から1900年に雑誌に掲載されたもので、ページ数があらかじめ決まっているので、みな同じぐらいの長さ。その制約が功を奏したのか、叙述が簡潔で脱線が少なくて、読みやすい。

 

 題名どおり、狂気のさまざまな様態が描かれています。アッシリア魔術の研究に没頭しすぎて大学教授の職を追われた老人、嫉妬に狂って妻を病気にさせる医師、からくり時計を復元するために自分を犠牲にする時計師、古代探究が昂じ狂気を感じさせる学者、自分のなかの敵と戦い遂には殺してしまう自殺者、傑作をものするために悪魔と取引をして死んでいく老画家、鏡の表面に幻覚を見る若者、猿のような二体のミイラを天使のミイラと言う冒険家、肖像画の眼の光に精神を病んだ精神科医、恋人の頭部を手提げ金庫に入れて持ち歩いているロシアの零落貴族、2年ごとにフランス人とイギリス人とに人格が入れ替わる若者、五感を摩耗させ超感覚を手に入れたと信じる修行者、患者の狂気に伝染した精神科医、行者から遠くインドの地にペストを生じさせるのを見せられ夢か現実か分からなくなった男など。

 

 真剣さが昂じて妄想に陥っていく人物、あるいは狂気と紙一重の人物が登場し、読者も語り手の妄想か現実か分からなくなってしまいますが、そういう曖昧な状態を作り出すのに、三人称的叙述のなかに、二人称的な会話や、一人称的語りがあったり手紙の告白があったりする物語という形式がとてもよく合っているのだと思います。全般的な傾向としては、学者が狂気に陥ってしまう探究(妄想?)の激しさ、患者から医者に伝染する狂気の強さが描かれるものがいくつかあり、また序文でも指摘されていたように、視線に捉われたり、眼によって催眠状態が引き起こされるなど、眼が鍵となる話が多くありました。

 

 23の短篇が収録されていますが、なかでも佳篇は、「Le perroquet(鸚鵡)」「Le peintre d’yeux(眼の画家)」「Le miroir(鏡)」「Booglottisme(牛舌症)」「La cité des gemmes(宝石の町)」「L’homme-peste(ペストを作る男)」、次に、「Lilithリリス)」「L’horloge(時計)」「Les deux portraits(二つの肖像画)」「Fezzan(フェザン)」「Les autres yeux(他人の眼)」「Le regard(眼差し)」「Le coffre rouge(赤い金庫)」「l’autre sens(超感覚)」でしょう。簡単に概要を記しておきます。

 

Lilithリリス

貧しい若者二人は、毎夜、老人が庭で奇妙な振る舞いをし「リリス!」と呼びかけるのを聞いた。調べてみると、老人は元大学教授だが、アッシリアの魔術の研究に没頭し、精神異常とみなされて退職させられていた。著書を読もうとしたが解読不能で断念した。が40年後、仲間で魔法でも使ったと思われるぐらい大成功した男が、その老人の孫娘と結婚していたことを知る。話の運びが巧み。

 

Un legs(遺産)

父の古くからの友人から突然遺産を譲られ、遺書を受け取りに行く主人公。父の友人は醜男で愚鈍で薮医者と言われていたが、親の莫大な遺産を受け継ぎ、医者を辞めて地方いちばんの美女と結婚していた。がその家は庭師が次々結核で死ぬという噂だった。はるばる訪ねて行くと、美人の妻も半年前に死んでおり、遺書には狂気の医者による恐ろしい犯罪が告白されていた。

 

〇L’horloge(時計)

悪魔が作ったという伝説のある教会のからくり時計を復活させようと、現代の時計師が他の時計を放ったらかしにして教会に閉じこもり、町中から気違い呼ばわりされていた。最後の重石一つがどうしても見つからず日々が過ぎていたが、ある日鐘が鳴り、時計が動き始めた。町中が賛辞を送ろうと時計師を探すと、自ら重石となるため時計の鎖で首を吊っていた。

 

◎Le perroquet(鸚鵡)

ある研究者の遺贈品を一式買ったが、それは、バスク研究者の友人が喜ぶと思った論文だけが目当てだった。骨董商がしつこく鸚鵡も一緒にと勧めたが、そればかりは断った。マデイラに滞在していた友人に送ると、すぐ電報が来て、鸚鵡はどこだという。論文によれば、アトランティス語を喋る貴重な鳥で、アトランティスアメリカ原住民とバスクの両方に繋がることを証明できる存在だという。二人で骨董商に駆けつけるが、骨董商は鸚鵡は意味不明の言葉ばかり喋るので殺したと告げられる。話の運びが絶妙。

 

〇Les deux portraits(二つの肖像画

主人公が骨董店で見かけた二つの肖像画。互いに憎しみに満ちた目で見つめ合っていた。ロンドンである裁判で有名になった貴族の夫婦だという。イギリスへ行く機会があり、調べてみると、夫人の浮気相手を撲殺した夫が半年後夫人に毒殺されたという事件だった。パリに戻り店に肖像画を見に行ってみると、絵を落としたため、二作品とも顔や目に損傷ができてしまったという。絵には魂が宿ると言うが単なる偶然か。

 

L’ennemi(敵)

ただならぬ気配の男が来院し、敵がいつも自分のしようとすることを妨害し、迫害すると訴えてきた。気違いのようだが、聞いてみると、恋をしてもその女を嫌いになるように仕向けたり、食べようとした料理に唾を吐きかけたりするという。決闘か、裁判か、最悪殺すんですなと言ったところ、男は大喜びで、殺すんだと叫んで出て行った。その夕、男から敵を殺したから見に来てくれとメモが来た。行ってみると、男は自分の胸を撃ち抜いていた。

 

Duel d’âme(魂の決闘)

何世代も続く予審判事の家系に生まれ将来を嘱望されていた予審判事のところに、何世代も犯罪者の家系だという男から、決着をつけよう、無実の人を死刑台に送るようにしてやると挑戦状が来た。単なる狂人のたわ言と無視していたが、その後、悪魔の策略が感じられるような複雑な事件が増えた。ある事件で犯人を死刑台送りにした後、お前は無実の男を罰したから私の勝ちだ、と手紙が来た。それで判事を辞める決心をした。

 

◎Le peintre d’yeux(眼の画家)

フランドル派の今は亡き画家に1作だけ大傑作があり、年1回万聖節に1時間だけ開帳される。画家は信心深い3児の父親として、友人や弟子たちから慕われていたが、心底では真の傑作をものしたいと念じていた。ある日見知らぬ男が眼の描き方を教えようとやって来て以来、画家は人を寄せ付けず画室に閉じこもるようになり、最後に描き上げた自画像の前で死んでいた。見知らぬ男は悪魔で、絵が完成すると同時にモデルが死んでしまうと言われ、自画像を描くことにしたという。悪魔と取引をする芸術家譚。

 

◎Le miroir(鏡)

骨董店で奇妙な鏡を手に入れた若者。縁がなく鉛の板が貼りついていて、ゴチック文字で詩が書かれていた。翻訳で読むと、生きながら水の中に閉じ込められ、美しい王子様に助けられるオンディーヌが歌われていた。その詩を読んで鏡を見つめていると、奥の方に次第にオンディーヌの顔が見えてきた。ぼんやりと声まで聞こえて…。がある日若者は鉛の板を抱えた溺死体となって発見された。オンディーヌは解放されたのだろうか。導入部のファンタジックな美しさ。結局語っているのが誰か分からない面白さもある。

 

〇Fezzan(フェザン)

世界中を旅している友人のところで、リビア砂漠の記念品を見ていると、黒人か猿か男か女か分からない二体のミイラの写真があった。何かと訊ねると、それは天使の写真だと言って、現地で体験した話を語る。熱病で衰えた筋肉を復活させる呪術師だという二人の老姉妹に天使のようなマッサージをされたと言うのだった。出だしの語りはとても魅力的だったが、後半尻すぼみ。

 

〇Les autres yeux(他人の眼)

神父が諭したにもかかわらず、「他人の眼」で魂を見ようとした若者。眼前に見えたのは、腐った臭いを放つキノコや毒液を吐く蛇の凝集したような恐ろしい潰瘍で、七つの大罪を象徴するものだった。誰の魂だ?神父お前のか?と、手にした斧を振りまわしたところ、鏡が割れた。自分の魂だったのだ。

 

〇Le regard(眼差し)

精神科医が一人の狂人の説明をするが様子がおかしい。その患者は、骨董店で買った肖像画の眼の中に、古代の黄金都市の遺跡が見えると言っており、たしかに肖像の眼は生き生きした金色の光を放っていて精神がおかしくなるから絵を切り刻んだと医師は言う。が医師の眼には狂気の光が宿っていた。医師が出て行った後、机の上を見ると切り刻んだという肖像画の眼の部分が保管されていた。精神科医もおかしくなっていたのだ。

 

〇Le coffre rouge(赤い金庫)

ロシアの零落貴族が肌身離さず持ち歩いている赤い金庫。大泥棒の俺様が盗んでやると、情報を集めると、その貴族は賭けで無一文になっている筈だと言う。何か貴重なものが入っているに違いないと、ますます意欲が湧き、貴族に近づいて友人になり一緒に住むようになり、催眠薬を飲ませて、いよいよと金庫を開けると、そこから出てきたものは、逆に心を盗まれるような前代未聞のものだった。

 

En robe blanche(白無垢で)

編集室での一コマ。若手が恋の手柄話を話すなか、武骨で醜い編集長が、若かりし頃の少女との思い出を語る。少女から告白され逃げまわっていたが、ある晩家に帰ると、その少女がベッドで待ち構えていて、抱いてくれないと窓から飛び降りると迫られたという話で、結婚式に着る白い服を着ていたという。

 

Le cabri(子ヤギ)

ロシアの寡婦の伯爵夫人が色目を使っているのに、なぜお前は避けようとするのかと、ロシアの士官が聞くと、「子ヤギのせい」との返事。聞けば、その男が昔飼っていた子ヤギの眼が反り、唇が山形になっていたが、それは不幸をもたらす印と山羊飼いに言われたという。伯爵夫人も同じ特徴を持っていたのが理由だった。実際、5人の先夫が変死していた。

 

◎Booglottisme(牛舌症)

トルコの港で、夜、金もなく港に降ろされた若者が、黒人に金貨を握らされ、まだあるよと言われるまま迷路のような小道を通って連れていかれたのは、裸の女がベッドに横たわる部屋だった。顔には革の面が嵌められ、キスもできず一言もしゃべらない。ただ吐息が洩れるだけ。狂ったような愛を交わし、朝黒人が迎えに来て船に乗ると、医者が牛のような舌を持つ女性の症例を話しているのを耳にした。ポケットを探ると金貨がザクザクと唸っていた。ロチの短篇のような東洋趣味の味わい。浦島太郎を卑小にしたような桃源譚。

 

Le masque(仮面の男)

いつも仮面をはずさず、長年雇われている使用人も顔を見たことがないという。情婦も顔を知らず、かつてその男がインドにいたときも仮面をしていた。顔が醜かったからか、いやそうではない美し過ぎたから。ただ一人仮面の男の死に立ち会った医師が素顔を見て、ギリシア神話の神を見たかのように、目が眩み、足が震えたという。

 

Les sœurs Moche(醜い姉妹)

田舎には小説のネタがあるよと、田舎に残っている友人が、われわれが子どものころよく大声で叱られた老姉妹の話を持ち出した。皺だらけの萎びた魔女のような顔で、髭も生えていたのをよく覚えていた。が実際は信心深く貧しい人たちに施しをする人たちだったと記憶している。友人は二人が一緒に自殺をしたんだと言いながら墓に案内する。そこには二人の男性名が書かれていた。

 

L’âme double(二重の魂)

2年ごとに、フランス人とイギリス人の二つの人格を交互に生きる若者。片方の2年間の記憶はまったくない。フランスの医者が相談を受け、2年近くの観察の結果、二重人格者と結論づけようとしたところ、突然失踪し、イギリスの医者に手柄を奪われた。が若者も二重人格と知って自殺したので、科学的知見は永久に失われたと嘆く。

 

〇l’autre sens(超感覚)

心理学と哲学の融合を目指し、チベットの聖者の所へ修行に向かった哲学者。五感を減耗させることで、超感覚を得られるのではないかというのが目的だ。友人のもとへ届いた手紙が公開されるが、最後の手紙には修行が成功し、新しい超感覚を得たと書かれていた。だが、その手紙には、「五感を減耗したという妄想の重篤精神病者が入院した」という精神病医のメモがついていた。どちらの言い分が正しいのだろうか。

 

◎La cité des gemmes(宝石の町)

もう二人もおかしくなったほど伝染性のある狂人だから気をつけてと精神科医は注意を促した。その狂人は鉱物、科学の知識を持った穏やかな学者で、人工的に宝石を作る技術について語り、すでに古代エジプトでそれが成功していて、宝石の町まであったと、滔々と語る。面会を終え、医師と話をした主人公は、医師にもすでに狂気が伝染しているのを見てとり愕然とする。

 

◎L’homme-peste(ペストを作る男)

ロンドンから離れたことのない友人の挿絵画家がインドのペストの猖獗の様を描いて評判になった。見たままを描いただけさと答える画家について行くと、ある居酒屋の一室で、ヨガ行者からまったく同じペストの光景を見せられる。後日、インドの新聞にペストが突然猖獗を極めたという記事が出たことを知るが、発生日時が居酒屋で見た日時と同じだった。たしかに見たんだが、あれは夢だったのだろうか。

 

Le nouvel explosif(新しい爆発)

主人公が友人に、宇宙進化論について弁舌を振るい、いま集中化の時期で、まもなく爆発期に入るからちょっとした衝撃で爆発するだろうと言うと、友人はそれを起こせる人物を最近精神病院から退院させたから紹介しようと言う。狂人と二人きりで会うと、確かに狂人の眼をしていて、公園の大石に何かを塗りつけて爆発させた。友人に後でそれを話すと、よくできた笑劇だと笑う。

河本英夫『哲学の練習問題』

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河本英夫『哲学の練習問題』(講談社学術文庫 2018年)

                                   

 日に日に頭もぼけてきたので、考える訓練でもしようかと手に取りました。昔から、大きな視野でものを言う大言壮語的な理論が好きでしたが、この本には大胆な着想、ドラスティックな思考が溢れていて、面白く読むことができました。知覚や思考のあり方の根底を探る本だと言えます。と分かったようなことを書いてますが、実は、科学的思考に慣れていないせいか、難しくて理解のおよばぬところもたくさんありました。頓珍漢なことを書くかもしれません。

 

 この本に一貫している考え方は、これまで哲学の中心を占めてきた真偽の判定に直結した知覚や思考を廃し、イメージを前面に押し出していることです。その場合のイメージも、現実の感覚の単なる残響ではなく、また現実とは別の世界を仮想するためのものでもなく、現実のなかで経験を新たに組織化するための道具として考えています。

 

 著者の言う「イメージ」が分かりやすくなる例をあげると、狭い通路を通り抜けようとするとき、顔や腹を擦らないように自然と身体の向きを斜め向けたりするのは、事前に自分の身体に関するイメージを持っているからであり、また自転車に乗ることや逆上がりすることが初めてできたとき、単なる知識でなく身体イメージが形成されるので、次に同じことをする際にスムースにできるというわけです。著者はこれを遂行的イメージと呼んでいます。

 

 ですので、問題を解いてみせたり、読者に何か知識を与えたりするのではなく、読者が自ら問うことにより経験として蓄積していくものを重要視し、イメージ療法的な、あるいは臨床哲学的な実践法を提示しています。いくつかの例をあげると次のようなものです。

①自分だけの語を持ち固有の活用法を見つけることを推奨している。例えば、トイレに行くことを「ハコする」と呼び、トイレから出ることを「ハコ出る」、トイレが満杯の場合は「ハコ詰まり」など。また、「光の裏側」や「重力の裏側」という言葉を発してみて、言葉の意味ではなく、指示するものがなにかを感じとるようにする。これは、言葉やイメージを手がかりに経験を動かしているのであり、それを知ろうとしているのではない。

②身体感覚と運動感を微細に感じとるようにする。例えば、握った右手を左手で覆ってみて、その際のゴツゴツした形状の感触や運動感、圧迫感、温かさなど感覚を詳細に書きとめる。さらに呼吸と組み合わせて、利き腕の手を開きながら息を吐く。吐けるだけ吐き終えると、今度は息を吸いながら手を閉じていく。そしてその状態をいつでも脳裏に再現できるようイメージとして蓄える。

③物語を題材にした思考の訓練を提案。浦島太郎の玉手箱、カフカの「掟」、シャミッソーの「影をなくした男」などを展開した例が示されている。「影をなくした男」では、影がなくなってしまう瞬間の場面設定をいろいろ変えてみる。プラットフォームにいて、逆方向に疾走する急行列車が通り抜けた後に、人々の足元から影がなくなってしまう。建物や電線には以前と同じように、くっきりとした黒い影があるのに。あるいは美人に見とれてるうちに、人と影が分離してしまい、影が美人について行ってしまうような場面を思い描いてみる。

④あるいは無限をイメージしてみる。大きさのない点と無限大が同じ一つのものの裏返された二つの見え姿だと考え、点と無限大は裏側ですべて地続きになっているとイメージしてみる。次元を超えた存在でイメージするのは困難だが。

⑤また生物の進化に関して仮想のトレーニングをしてみる。例えばヒトデのように前後がなく、回転運動を行なっているものが、イカのような前後の方向のあるものに変わるためには、どのような変化の段階が必要なのかを考えてみる。まずヒトデの口が飛び出て尻が背後に伸びる段階、ヒトデの5本足が進行方向に沿うような形になる段階、次に5本足の根元が二つに分かれて10本になる段階というように。

  他にもいろいろありましたが、難しくて分からないこともたくさんありました。

 

 身近な例えを持ち出せば、ゴルフでよく言われる「クラブは小鳥を包むように握れ」という、手に力が入り過ぎるのを諫める言葉も、こうしたエクササイズのひとつになるでしょうか。私も、入社直後の営業時代、気が弱いものでしたから、得意先の店先で、自分が注射針になったイメージで先方の身体に突きさして、どくどくと液体を注ぎ込むイメージを頭に描くと、自由にものが言えすらすらと商談が運んだことを思い出します。これもイメージ訓練の一つなんでしょう。

 

 ついでに書けば、私が若い頃から実践している眠れないときの処方箋をご紹介しましょう。

①まず、一晩眠らなくても大したことはないと考える。横たわるだけで寝ることの半分は達成するし、座禅では眠っているときよりも休まっているというではないかと。すると体がホッと楽になる。この楽になっているという感覚をゆったり味わう。

②次に、深い呼吸に入る。これも簡単で、吐いたときに息を30秒ほど止めると、次からは深呼吸できる。

③そして、体の力を抜く。いったん全身の力を抜いて、次に指先、細かく言うと、右手の人差し指の尖端から、指が金(石とか木でもいい)になっていくイメージを描く。それを左右すべての指先に広げる。腕まで上って来て腕全体が石になると、腕の重みが感じられてぽかぽかと温かくなってくる。このぽかぽかとした感覚をゆったりと味わう。次に足に移って、次は頭という風に全身に広げる。最後は、全身の重みを布団に委ねて沈み込む感じになる。

④全身の力が抜けたら、自分のからだが垂直になっているイメージを思い描く。例えば崖に貼りついて下を見降ろしているという感じ。次に逆さになったイメージ。次に横に。最後は魔法の絨毯に背中をくっつけてくるくる回りながら空を飛ぶイメージ。とこの頃にはだいたい眠りに入っている。

  卑近な例になり過ぎたようで、本題から大きくそれたかも分かりません。

原田武『共感覚の世界観』

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 原田武『共感覚の世界観―交流する感覚の冒険』(新曜社 2010年)

 

  4年ほど前に、当時四天王寺にあった一色文庫の100円均一で買った本。目次を見て面白そうだと思ったとおり、興味を刺激する内容でした。何より冒頭から引用される文学作品の文章が、どれも心に沁みるものばかり。例えば、最初に出てくる谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の日本家屋の薄暗い室内で羊羹を味わう次のような文章。「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」(p1)。

 

 文学・芸術に関心のある人であれば必ず感覚の特性について一度は考えるものだと思いますが、この本は、五感の働きと、文学・芸術との関係を論じたもので、まさしくその興味に答えるものです。著者はフランス文学者ですが、音に色を感じたりする共感覚という精神分析的な分野にまで踏み込んで、探求しています。初めに提示される問題意識は、文学者が共感覚的な表現をする場合、その人が生来の共感覚者なのか、それとも比喩として使われたのか、というものですが、著者の最終意見と同じく、その区別にたいして意味があるようには思われません。

 

 私の場合の興味は、共感覚的表現が、文芸作品を豊かに美しくするというところにあります。共感覚的表現というのは喩の一種で、作品の膨らみを作るためのものという風に考えます。著者も同様のことを書いていましたが、喩の作用というのは、現実のものごとを直截に描かず曖昧にしたうえで、読者に想像力を働かせることを強要し、新しい現実感を出現させることにあります。共感覚的な五感をフルに使うことで喩の働きがより効果的になるということではないでしょうか。

 

 この本で議論されているのは、感覚の特性、五感と芸術各ジャンルとの関係、宗教における共感覚万物照応の思想、マクルーハン理論などに見られる五感と社会のあり方などですが、とくに感覚について、以下のような指摘が印象的でした。「⇒」以下は私見

①皮膚感覚に限っても、手で触ること以外に、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などがあり、運動感覚、平衡感覚、内臓感覚など、五感だけでは捉えきれない感覚作用はいくつもあり得る。37種あるとする人もいる。

②なぜ共感覚が起こるか。例えば、通常は視覚情報を扱っている脳内部位や脳内経路に聴覚情報が漏れてしまうというような感覚漏洩説(ハリソン)がその一つの答え。

③五感の発達史を考えると、もともとアメーバのような単細胞動物には触覚しかなかったのが、対象の性質を知るための特異な感覚として味覚に分かれ(この二つが近感覚)、そのあと、次々と嗅覚、聴覚、視覚の遠感覚が生まれることになる。人類の段階になり、直立歩行で頭部が地面を離れたことから嗅覚の持つ意味が低下し、視覚刺激が優位を占めるようになる。

④古くは神の言葉を聴くことが信仰だというルターの言葉に表われているように、聴覚が感覚序列の首位にあったが、現在では、五感の代表といえばまず視覚であって、人間が取り入れる情報のほぼ80パーセントは眼によって得られるという。⇒この聴覚から視覚への転換は、印刷の普及が転機か?

⑤諸説に共通するのは、五感の基礎には触覚があるということで、共感覚の転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚」の順に進むとする人もいる。

⑥宗教に香が多用されるのは、匂いと魂の類似にその源があるとルクレティウスが言っているが、空気と一体となり見えないのに確固とした存在感を保つという匂いのあり方が神の存在の仕方に等しいのではないか。

アメリカの心理学者(ケヴィン・ダンら)の研究実験で、視覚的な明暗と音の高低が連合することが証明された。

⑧触覚が事物そのものを捉えるのに対して、視覚とは単にその名称にすぎない(バークリー)。マクルーハンも、映画を文字文化の側に立つ視覚的なメディアと位置づける一方、テレビはお茶の間に侵入して視聴者にまとわりついてくる触覚的な媒体だとしている。⇒触覚の重要性に気づかされた。EメールとLINEの区別が判じがたかったが、要はLINEは触覚的ということか。セールストークでも触覚的な言葉使いが成功の秘訣なんだろう。

 

 著者はたいへんな勉強家らしく、この本も多くの引用が織りなす作品と言えます。いくつか新しい知見を得ることができました。

ランボーの「母音」の発想は、独自の着想というわけではなく、1820年から1870年にかけて、ユゴー(「街路と森の歌」)やデンマークのゲオウ・ブランデスポルトガルフェリシアーノ・カスティーリョなどが試みていて、当時、母音に色をつけるのはヨーロッパ文学の常套句であったこと(エチアンブルによる)。

little、petitなど「小ささ(chiisai)」を表わす言葉と〔i〕の音の結合が万国共通であること(ダニエル・タメットによる)。⇒これは言葉の発音と意味との間にまったく関係がないという説への反証例として有効ではないか。

ボードレールの詩「照応」には、「森のような列柱」、「堂内の陰翳」など、聖堂を連想させるモチーフがふんだんに用いられている(シャルル・モーロンによる)。

 

 「万物照応の思想は、一面、事物のあいだの対立が解消され和解を遂げるような、個物が全体のなかに抱きしめられるような、おおらかさと励ましの効果を持つ」(p155)という著者の言葉も、新鮮でした。