JEAN RICHEPIN『LE COIN DES FOUS』(ジャン・リシュパン『狂気の縁』)

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JEAN RICHEPIN『LE COIN DES FOUS―HISTOIRES HORRIBLES』(Le Chat Rouge 2011年)

 

 タイトルは、「au coin de feu(炉辺で)」をもじっています。前回読んだ『Les morts bizarres(風変わりな死)』よりはよくできていて、まだリシュパンは3冊しか読んでませんが、いちばんの傑作集。ジェラルド・ドゥシュマンの序文によると、初出は1892年から1900年に雑誌に掲載されたもので、ページ数があらかじめ決まっているので、みな同じぐらいの長さ。その制約が功を奏したのか、叙述が簡潔で脱線が少なくて、読みやすい。

 

 題名どおり、狂気のさまざまな様態が描かれています。アッシリア魔術の研究に没頭しすぎて大学教授の職を追われた老人、嫉妬に狂って妻を病気にさせる医師、からくり時計を復元するために自分を犠牲にする時計師、古代探究が昂じ狂気を感じさせる学者、自分のなかの敵と戦い遂には殺してしまう自殺者、傑作をものするために悪魔と取引をして死んでいく老画家、鏡の表面に幻覚を見る若者、猿のような二体のミイラを天使のミイラと言う冒険家、肖像画の眼の光に精神を病んだ精神科医、恋人の頭部を手提げ金庫に入れて持ち歩いているロシアの零落貴族、2年ごとにフランス人とイギリス人とに人格が入れ替わる若者、五感を摩耗させ超感覚を手に入れたと信じる修行者、患者の狂気に伝染した精神科医、行者から遠くインドの地にペストを生じさせるのを見せられ夢か現実か分からなくなった男など。

 

 真剣さが昂じて妄想に陥っていく人物、あるいは狂気と紙一重の人物が登場し、読者も語り手の妄想か現実か分からなくなってしまいますが、そういう曖昧な状態を作り出すのに、三人称的叙述のなかに、二人称的な会話や、一人称的語りがあったり手紙の告白があったりする物語という形式がとてもよく合っているのだと思います。全般的な傾向としては、学者が狂気に陥ってしまう探究(妄想?)の激しさ、患者から医者に伝染する狂気の強さが描かれるものがいくつかあり、また序文でも指摘されていたように、視線に捉われたり、眼によって催眠状態が引き起こされるなど、眼が鍵となる話が多くありました。

 

 23の短篇が収録されていますが、なかでも佳篇は、「Le perroquet(鸚鵡)」「Le peintre d’yeux(眼の画家)」「Le miroir(鏡)」「Booglottisme(牛舌症)」「La cité des gemmes(宝石の町)」「L’homme-peste(ペストを作る男)」、次に、「Lilithリリス)」「L’horloge(時計)」「Les deux portraits(二つの肖像画)」「Fezzan(フェザン)」「Les autres yeux(他人の眼)」「Le regard(眼差し)」「Le coffre rouge(赤い金庫)」「l’autre sens(超感覚)」でしょう。簡単に概要を記しておきます。

 

Lilithリリス

貧しい若者二人は、毎夜、老人が庭で奇妙な振る舞いをし「リリス!」と呼びかけるのを聞いた。調べてみると、老人は元大学教授だが、アッシリアの魔術の研究に没頭し、精神異常とみなされて退職させられていた。著書を読もうとしたが解読不能で断念した。が40年後、仲間で魔法でも使ったと思われるぐらい大成功した男が、その老人の孫娘と結婚していたことを知る。話の運びが巧み。

 

Un legs(遺産)

父の古くからの友人から突然遺産を譲られ、遺書を受け取りに行く主人公。父の友人は醜男で愚鈍で薮医者と言われていたが、親の莫大な遺産を受け継ぎ、医者を辞めて地方いちばんの美女と結婚していた。がその家は庭師が次々結核で死ぬという噂だった。はるばる訪ねて行くと、美人の妻も半年前に死んでおり、遺書には狂気の医者による恐ろしい犯罪が告白されていた。

 

〇L’horloge(時計)

悪魔が作ったという伝説のある教会のからくり時計を復活させようと、現代の時計師が他の時計を放ったらかしにして教会に閉じこもり、町中から気違い呼ばわりされていた。最後の重石一つがどうしても見つからず日々が過ぎていたが、ある日鐘が鳴り、時計が動き始めた。町中が賛辞を送ろうと時計師を探すと、自ら重石となるため時計の鎖で首を吊っていた。

 

◎Le perroquet(鸚鵡)

ある研究者の遺贈品を一式買ったが、それは、バスク研究者の友人が喜ぶと思った論文だけが目当てだった。骨董商がしつこく鸚鵡も一緒にと勧めたが、そればかりは断った。マデイラに滞在していた友人に送ると、すぐ電報が来て、鸚鵡はどこだという。論文によれば、アトランティス語を喋る貴重な鳥で、アトランティスアメリカ原住民とバスクの両方に繋がることを証明できる存在だという。二人で骨董商に駆けつけるが、骨董商は鸚鵡は意味不明の言葉ばかり喋るので殺したと告げられる。話の運びが絶妙。

 

〇Les deux portraits(二つの肖像画

主人公が骨董店で見かけた二つの肖像画。互いに憎しみに満ちた目で見つめ合っていた。ロンドンである裁判で有名になった貴族の夫婦だという。イギリスへ行く機会があり、調べてみると、夫人の浮気相手を撲殺した夫が半年後夫人に毒殺されたという事件だった。パリに戻り店に肖像画を見に行ってみると、絵を落としたため、二作品とも顔や目に損傷ができてしまったという。絵には魂が宿ると言うが単なる偶然か。

 

L’ennemi(敵)

ただならぬ気配の男が来院し、敵がいつも自分のしようとすることを妨害し、迫害すると訴えてきた。気違いのようだが、聞いてみると、恋をしてもその女を嫌いになるように仕向けたり、食べようとした料理に唾を吐きかけたりするという。決闘か、裁判か、最悪殺すんですなと言ったところ、男は大喜びで、殺すんだと叫んで出て行った。その夕、男から敵を殺したから見に来てくれとメモが来た。行ってみると、男は自分の胸を撃ち抜いていた。

 

Duel d’âme(魂の決闘)

何世代も続く予審判事の家系に生まれ将来を嘱望されていた予審判事のところに、何世代も犯罪者の家系だという男から、決着をつけよう、無実の人を死刑台に送るようにしてやると挑戦状が来た。単なる狂人のたわ言と無視していたが、その後、悪魔の策略が感じられるような複雑な事件が増えた。ある事件で犯人を死刑台送りにした後、お前は無実の男を罰したから私の勝ちだ、と手紙が来た。それで判事を辞める決心をした。

 

◎Le peintre d’yeux(眼の画家)

フランドル派の今は亡き画家に1作だけ大傑作があり、年1回万聖節に1時間だけ開帳される。画家は信心深い3児の父親として、友人や弟子たちから慕われていたが、心底では真の傑作をものしたいと念じていた。ある日見知らぬ男が眼の描き方を教えようとやって来て以来、画家は人を寄せ付けず画室に閉じこもるようになり、最後に描き上げた自画像の前で死んでいた。見知らぬ男は悪魔で、絵が完成すると同時にモデルが死んでしまうと言われ、自画像を描くことにしたという。悪魔と取引をする芸術家譚。

 

◎Le miroir(鏡)

骨董店で奇妙な鏡を手に入れた若者。縁がなく鉛の板が貼りついていて、ゴチック文字で詩が書かれていた。翻訳で読むと、生きながら水の中に閉じ込められ、美しい王子様に助けられるオンディーヌが歌われていた。その詩を読んで鏡を見つめていると、奥の方に次第にオンディーヌの顔が見えてきた。ぼんやりと声まで聞こえて…。がある日若者は鉛の板を抱えた溺死体となって発見された。オンディーヌは解放されたのだろうか。導入部のファンタジックな美しさ。結局語っているのが誰か分からない面白さもある。

 

〇Fezzan(フェザン)

世界中を旅している友人のところで、リビア砂漠の記念品を見ていると、黒人か猿か男か女か分からない二体のミイラの写真があった。何かと訊ねると、それは天使の写真だと言って、現地で体験した話を語る。熱病で衰えた筋肉を復活させる呪術師だという二人の老姉妹に天使のようなマッサージをされたと言うのだった。出だしの語りはとても魅力的だったが、後半尻すぼみ。

 

〇Les autres yeux(他人の眼)

神父が諭したにもかかわらず、「他人の眼」で魂を見ようとした若者。眼前に見えたのは、腐った臭いを放つキノコや毒液を吐く蛇の凝集したような恐ろしい潰瘍で、七つの大罪を象徴するものだった。誰の魂だ?神父お前のか?と、手にした斧を振りまわしたところ、鏡が割れた。自分の魂だったのだ。

 

〇Le regard(眼差し)

精神科医が一人の狂人の説明をするが様子がおかしい。その患者は、骨董店で買った肖像画の眼の中に、古代の黄金都市の遺跡が見えると言っており、たしかに肖像の眼は生き生きした金色の光を放っていて精神がおかしくなるから絵を切り刻んだと医師は言う。が医師の眼には狂気の光が宿っていた。医師が出て行った後、机の上を見ると切り刻んだという肖像画の眼の部分が保管されていた。精神科医もおかしくなっていたのだ。

 

〇Le coffre rouge(赤い金庫)

ロシアの零落貴族が肌身離さず持ち歩いている赤い金庫。大泥棒の俺様が盗んでやると、情報を集めると、その貴族は賭けで無一文になっている筈だと言う。何か貴重なものが入っているに違いないと、ますます意欲が湧き、貴族に近づいて友人になり一緒に住むようになり、催眠薬を飲ませて、いよいよと金庫を開けると、そこから出てきたものは、逆に心を盗まれるような前代未聞のものだった。

 

En robe blanche(白無垢で)

編集室での一コマ。若手が恋の手柄話を話すなか、武骨で醜い編集長が、若かりし頃の少女との思い出を語る。少女から告白され逃げまわっていたが、ある晩家に帰ると、その少女がベッドで待ち構えていて、抱いてくれないと窓から飛び降りると迫られたという話で、結婚式に着る白い服を着ていたという。

 

Le cabri(子ヤギ)

ロシアの寡婦の伯爵夫人が色目を使っているのに、なぜお前は避けようとするのかと、ロシアの士官が聞くと、「子ヤギのせい」との返事。聞けば、その男が昔飼っていた子ヤギの眼が反り、唇が山形になっていたが、それは不幸をもたらす印と山羊飼いに言われたという。伯爵夫人も同じ特徴を持っていたのが理由だった。実際、5人の先夫が変死していた。

 

◎Booglottisme(牛舌症)

トルコの港で、夜、金もなく港に降ろされた若者が、黒人に金貨を握らされ、まだあるよと言われるまま迷路のような小道を通って連れていかれたのは、裸の女がベッドに横たわる部屋だった。顔には革の面が嵌められ、キスもできず一言もしゃべらない。ただ吐息が洩れるだけ。狂ったような愛を交わし、朝黒人が迎えに来て船に乗ると、医者が牛のような舌を持つ女性の症例を話しているのを耳にした。ポケットを探ると金貨がザクザクと唸っていた。ロチの短篇のような東洋趣味の味わい。浦島太郎を卑小にしたような桃源譚。

 

Le masque(仮面の男)

いつも仮面をはずさず、長年雇われている使用人も顔を見たことがないという。情婦も顔を知らず、かつてその男がインドにいたときも仮面をしていた。顔が醜かったからか、いやそうではない美し過ぎたから。ただ一人仮面の男の死に立ち会った医師が素顔を見て、ギリシア神話の神を見たかのように、目が眩み、足が震えたという。

 

Les sœurs Moche(醜い姉妹)

田舎には小説のネタがあるよと、田舎に残っている友人が、われわれが子どものころよく大声で叱られた老姉妹の話を持ち出した。皺だらけの萎びた魔女のような顔で、髭も生えていたのをよく覚えていた。が実際は信心深く貧しい人たちに施しをする人たちだったと記憶している。友人は二人が一緒に自殺をしたんだと言いながら墓に案内する。そこには二人の男性名が書かれていた。

 

L’âme double(二重の魂)

2年ごとに、フランス人とイギリス人の二つの人格を交互に生きる若者。片方の2年間の記憶はまったくない。フランスの医者が相談を受け、2年近くの観察の結果、二重人格者と結論づけようとしたところ、突然失踪し、イギリスの医者に手柄を奪われた。が若者も二重人格と知って自殺したので、科学的知見は永久に失われたと嘆く。

 

〇l’autre sens(超感覚)

心理学と哲学の融合を目指し、チベットの聖者の所へ修行に向かった哲学者。五感を減耗させることで、超感覚を得られるのではないかというのが目的だ。友人のもとへ届いた手紙が公開されるが、最後の手紙には修行が成功し、新しい超感覚を得たと書かれていた。だが、その手紙には、「五感を減耗したという妄想の重篤精神病者が入院した」という精神病医のメモがついていた。どちらの言い分が正しいのだろうか。

 

◎La cité des gemmes(宝石の町)

もう二人もおかしくなったほど伝染性のある狂人だから気をつけてと精神科医は注意を促した。その狂人は鉱物、科学の知識を持った穏やかな学者で、人工的に宝石を作る技術について語り、すでに古代エジプトでそれが成功していて、宝石の町まであったと、滔々と語る。面会を終え、医師と話をした主人公は、医師にもすでに狂気が伝染しているのを見てとり愕然とする。

 

◎L’homme-peste(ペストを作る男)

ロンドンから離れたことのない友人の挿絵画家がインドのペストの猖獗の様を描いて評判になった。見たままを描いただけさと答える画家について行くと、ある居酒屋の一室で、ヨガ行者からまったく同じペストの光景を見せられる。後日、インドの新聞にペストが突然猖獗を極めたという記事が出たことを知るが、発生日時が居酒屋で見た日時と同じだった。たしかに見たんだが、あれは夢だったのだろうか。

 

Le nouvel explosif(新しい爆発)

主人公が友人に、宇宙進化論について弁舌を振るい、いま集中化の時期で、まもなく爆発期に入るからちょっとした衝撃で爆発するだろうと言うと、友人はそれを起こせる人物を最近精神病院から退院させたから紹介しようと言う。狂人と二人きりで会うと、確かに狂人の眼をしていて、公園の大石に何かを塗りつけて爆発させた。友人に後でそれを話すと、よくできた笑劇だと笑う。

河本英夫『哲学の練習問題』

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河本英夫『哲学の練習問題』(講談社学術文庫 2018年)

                                   

 日に日に頭もぼけてきたので、考える訓練でもしようかと手に取りました。昔から、大きな視野でものを言う大言壮語的な理論が好きでしたが、この本には大胆な着想、ドラスティックな思考が溢れていて、面白く読むことができました。知覚や思考のあり方の根底を探る本だと言えます。と分かったようなことを書いてますが、実は、科学的思考に慣れていないせいか、難しくて理解のおよばぬところもたくさんありました。頓珍漢なことを書くかもしれません。

 

 この本に一貫している考え方は、これまで哲学の中心を占めてきた真偽の判定に直結した知覚や思考を廃し、イメージを前面に押し出していることです。その場合のイメージも、現実の感覚の単なる残響ではなく、また現実とは別の世界を仮想するためのものでもなく、現実のなかで経験を新たに組織化するための道具として考えています。

 

 著者の言う「イメージ」が分かりやすくなる例をあげると、狭い通路を通り抜けようとするとき、顔や腹を擦らないように自然と身体の向きを斜め向けたりするのは、事前に自分の身体に関するイメージを持っているからであり、また自転車に乗ることや逆上がりすることが初めてできたとき、単なる知識でなく身体イメージが形成されるので、次に同じことをする際にスムースにできるというわけです。著者はこれを遂行的イメージと呼んでいます。

 

 ですので、問題を解いてみせたり、読者に何か知識を与えたりするのではなく、読者が自ら問うことにより経験として蓄積していくものを重要視し、イメージ療法的な、あるいは臨床哲学的な実践法を提示しています。いくつかの例をあげると次のようなものです。

①自分だけの語を持ち固有の活用法を見つけることを推奨している。例えば、トイレに行くことを「ハコする」と呼び、トイレから出ることを「ハコ出る」、トイレが満杯の場合は「ハコ詰まり」など。また、「光の裏側」や「重力の裏側」という言葉を発してみて、言葉の意味ではなく、指示するものがなにかを感じとるようにする。これは、言葉やイメージを手がかりに経験を動かしているのであり、それを知ろうとしているのではない。

②身体感覚と運動感を微細に感じとるようにする。例えば、握った右手を左手で覆ってみて、その際のゴツゴツした形状の感触や運動感、圧迫感、温かさなど感覚を詳細に書きとめる。さらに呼吸と組み合わせて、利き腕の手を開きながら息を吐く。吐けるだけ吐き終えると、今度は息を吸いながら手を閉じていく。そしてその状態をいつでも脳裏に再現できるようイメージとして蓄える。

③物語を題材にした思考の訓練を提案。浦島太郎の玉手箱、カフカの「掟」、シャミッソーの「影をなくした男」などを展開した例が示されている。「影をなくした男」では、影がなくなってしまう瞬間の場面設定をいろいろ変えてみる。プラットフォームにいて、逆方向に疾走する急行列車が通り抜けた後に、人々の足元から影がなくなってしまう。建物や電線には以前と同じように、くっきりとした黒い影があるのに。あるいは美人に見とれてるうちに、人と影が分離してしまい、影が美人について行ってしまうような場面を思い描いてみる。

④あるいは無限をイメージしてみる。大きさのない点と無限大が同じ一つのものの裏返された二つの見え姿だと考え、点と無限大は裏側ですべて地続きになっているとイメージしてみる。次元を超えた存在でイメージするのは困難だが。

⑤また生物の進化に関して仮想のトレーニングをしてみる。例えばヒトデのように前後がなく、回転運動を行なっているものが、イカのような前後の方向のあるものに変わるためには、どのような変化の段階が必要なのかを考えてみる。まずヒトデの口が飛び出て尻が背後に伸びる段階、ヒトデの5本足が進行方向に沿うような形になる段階、次に5本足の根元が二つに分かれて10本になる段階というように。

  他にもいろいろありましたが、難しくて分からないこともたくさんありました。

 

 身近な例えを持ち出せば、ゴルフでよく言われる「クラブは小鳥を包むように握れ」という、手に力が入り過ぎるのを諫める言葉も、こうしたエクササイズのひとつになるでしょうか。私も、入社直後の営業時代、気が弱いものでしたから、得意先の店先で、自分が注射針になったイメージで先方の身体に突きさして、どくどくと液体を注ぎ込むイメージを頭に描くと、自由にものが言えすらすらと商談が運んだことを思い出します。これもイメージ訓練の一つなんでしょう。

 

 ついでに書けば、私が若い頃から実践している眠れないときの処方箋をご紹介しましょう。

①まず、一晩眠らなくても大したことはないと考える。横たわるだけで寝ることの半分は達成するし、座禅では眠っているときよりも休まっているというではないかと。すると体がホッと楽になる。この楽になっているという感覚をゆったり味わう。

②次に、深い呼吸に入る。これも簡単で、吐いたときに息を30秒ほど止めると、次からは深呼吸できる。

③そして、体の力を抜く。いったん全身の力を抜いて、次に指先、細かく言うと、右手の人差し指の尖端から、指が金(石とか木でもいい)になっていくイメージを描く。それを左右すべての指先に広げる。腕まで上って来て腕全体が石になると、腕の重みが感じられてぽかぽかと温かくなってくる。このぽかぽかとした感覚をゆったりと味わう。次に足に移って、次は頭という風に全身に広げる。最後は、全身の重みを布団に委ねて沈み込む感じになる。

④全身の力が抜けたら、自分のからだが垂直になっているイメージを思い描く。例えば崖に貼りついて下を見降ろしているという感じ。次に逆さになったイメージ。次に横に。最後は魔法の絨毯に背中をくっつけてくるくる回りながら空を飛ぶイメージ。とこの頃にはだいたい眠りに入っている。

  卑近な例になり過ぎたようで、本題から大きくそれたかも分かりません。

原田武『共感覚の世界観』

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 原田武『共感覚の世界観―交流する感覚の冒険』(新曜社 2010年)

 

  4年ほど前に、当時四天王寺にあった一色文庫の100円均一で買った本。目次を見て面白そうだと思ったとおり、興味を刺激する内容でした。何より冒頭から引用される文学作品の文章が、どれも心に沁みるものばかり。例えば、最初に出てくる谷崎潤一郎『陰翳礼讃』の日本家屋の薄暗い室内で羊羹を味わう次のような文章。「人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う」(p1)。

 

 文学・芸術に関心のある人であれば必ず感覚の特性について一度は考えるものだと思いますが、この本は、五感の働きと、文学・芸術との関係を論じたもので、まさしくその興味に答えるものです。著者はフランス文学者ですが、音に色を感じたりする共感覚という精神分析的な分野にまで踏み込んで、探求しています。初めに提示される問題意識は、文学者が共感覚的な表現をする場合、その人が生来の共感覚者なのか、それとも比喩として使われたのか、というものですが、著者の最終意見と同じく、その区別にたいして意味があるようには思われません。

 

 私の場合の興味は、共感覚的表現が、文芸作品を豊かに美しくするというところにあります。共感覚的表現というのは喩の一種で、作品の膨らみを作るためのものという風に考えます。著者も同様のことを書いていましたが、喩の作用というのは、現実のものごとを直截に描かず曖昧にしたうえで、読者に想像力を働かせることを強要し、新しい現実感を出現させることにあります。共感覚的な五感をフルに使うことで喩の働きがより効果的になるということではないでしょうか。

 

 この本で議論されているのは、感覚の特性、五感と芸術各ジャンルとの関係、宗教における共感覚万物照応の思想、マクルーハン理論などに見られる五感と社会のあり方などですが、とくに感覚について、以下のような指摘が印象的でした。「⇒」以下は私見

①皮膚感覚に限っても、手で触ること以外に、圧覚、温覚、冷覚、痛覚などがあり、運動感覚、平衡感覚、内臓感覚など、五感だけでは捉えきれない感覚作用はいくつもあり得る。37種あるとする人もいる。

②なぜ共感覚が起こるか。例えば、通常は視覚情報を扱っている脳内部位や脳内経路に聴覚情報が漏れてしまうというような感覚漏洩説(ハリソン)がその一つの答え。

③五感の発達史を考えると、もともとアメーバのような単細胞動物には触覚しかなかったのが、対象の性質を知るための特異な感覚として味覚に分かれ(この二つが近感覚)、そのあと、次々と嗅覚、聴覚、視覚の遠感覚が生まれることになる。人類の段階になり、直立歩行で頭部が地面を離れたことから嗅覚の持つ意味が低下し、視覚刺激が優位を占めるようになる。

④古くは神の言葉を聴くことが信仰だというルターの言葉に表われているように、聴覚が感覚序列の首位にあったが、現在では、五感の代表といえばまず視覚であって、人間が取り入れる情報のほぼ80パーセントは眼によって得られるという。⇒この聴覚から視覚への転換は、印刷の普及が転機か?

⑤諸説に共通するのは、五感の基礎には触覚があるということで、共感覚の転移は「触覚→味覚→嗅覚→視覚→聴覚」の順に進むとする人もいる。

⑥宗教に香が多用されるのは、匂いと魂の類似にその源があるとルクレティウスが言っているが、空気と一体となり見えないのに確固とした存在感を保つという匂いのあり方が神の存在の仕方に等しいのではないか。

アメリカの心理学者(ケヴィン・ダンら)の研究実験で、視覚的な明暗と音の高低が連合することが証明された。

⑧触覚が事物そのものを捉えるのに対して、視覚とは単にその名称にすぎない(バークリー)。マクルーハンも、映画を文字文化の側に立つ視覚的なメディアと位置づける一方、テレビはお茶の間に侵入して視聴者にまとわりついてくる触覚的な媒体だとしている。⇒触覚の重要性に気づかされた。EメールとLINEの区別が判じがたかったが、要はLINEは触覚的ということか。セールストークでも触覚的な言葉使いが成功の秘訣なんだろう。

 

 著者はたいへんな勉強家らしく、この本も多くの引用が織りなす作品と言えます。いくつか新しい知見を得ることができました。

ランボーの「母音」の発想は、独自の着想というわけではなく、1820年から1870年にかけて、ユゴー(「街路と森の歌」)やデンマークのゲオウ・ブランデスポルトガルフェリシアーノ・カスティーリョなどが試みていて、当時、母音に色をつけるのはヨーロッパ文学の常套句であったこと(エチアンブルによる)。

little、petitなど「小ささ(chiisai)」を表わす言葉と〔i〕の音の結合が万国共通であること(ダニエル・タメットによる)。⇒これは言葉の発音と意味との間にまったく関係がないという説への反証例として有効ではないか。

ボードレールの詩「照応」には、「森のような列柱」、「堂内の陰翳」など、聖堂を連想させるモチーフがふんだんに用いられている(シャルル・モーロンによる)。

 

 「万物照応の思想は、一面、事物のあいだの対立が解消され和解を遂げるような、個物が全体のなかに抱きしめられるような、おおらかさと励ましの効果を持つ」(p155)という著者の言葉も、新鮮でした。

アンスティチュフランセ関西のbouquinerie solidaire(古本出店)

  フランス語の先生から、京都のアンスティチュフランセ関西で、29日にマルシェがあり、その中で古本も売られるという情報を聞き、雨天中止に冷や冷やしながら、行ってみました。たしかに建物の入り口の一角に古本コーナーがありましたが、残念ながら量が少ない上に、新しい作家が多く、英米の仏訳などもかなり交じっていて、期待外れ。一冊だけ、Frédérick Tristanの『Les Égarés(迷った人々)』500円に触手が動きましたが、大部でとても読めそうにない感じがしたので、結局買いませんでした。

 

 近くの吉岡書店に寄って、下記を買い、はるばる京都まで行った記念としました

「仏文研究XL」(京都大学フランス語学フランス文学研究会、09年10月、300円)→宇多直久という人の「マックス・ミルネルとロマン主義文学史サタン篇」という論文が掲載されている。原書を持っているがとても読めそうにないので代わりに。

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 フランス書では、先月のはじめにbookfinder.comで検索して、三冊を発注、そのうち二冊が早々と到着。

J.M.A.Paroutaud『LA DESCENTE INFINIE』(on verra bien、16年3月、2543円)

Maurice Pons『Le passager de la nuit』(du Rocher、17年5月、836円)

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 他は、オークションで下記。

呉茂一『ぎりしあの詩人たち』(筑摩書房、昭和31年9月、500円)

松井好夫『大手拓次 人と作品』(上毛新聞社出版局、67年、800円)

ウィル・ワイルズ茂木健訳『時間のないホテル』(東京創元社、17年3月、819円)

谷川健一常世論―日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫、89年10月、500円)

マリア・M・タタール鈴木晶訳『魔の眼に魅されて―メスメリズムと文学の研究』(国書刊行会、94年3月、1000円)

林三郎『人間巴里』(文藝春秋新社、昭和33年11月、50円)

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 オークションで、ネーモー・ウーティス『ギリシアの墓碑に寄せて』が落札できなかった腹いせに、アマゾン古本で下記を購入。

澤柳大五郎『アッティカの墓碑』(グラフ社、89年11月、769円)

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井本英一『夢の神話学』

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井本英一『夢の神話学』(法政大学出版局 1997年)

 

 これで井本英一を最後にしたいと思います。この本も読んでいて目がちらちら頭がくらくらしてきました。年のせいかとも思いますが、やはり、説明不足のまま話題が急に変わったり、例話が次から次へとめまぐるしく出てきて、そのスピードについていけないからで、頭が整理されないまま多量の情報が入ってくるせいでしょう。それに固有名詞が、中東、ユダヤなどでは意味不明のカタカナ、中国、日本では黒々と漢字で、やたらと多いのも原因。井本英一の執筆法は、いろんな本を読んで、そこからとにかく同じテーマに関する話題を集めるというやり方みたいで、本人なりに整理はしているつもりのようですが。『アンネナプキンの社会史』という本まで読んでいたのは驚き。

 

 と悪口を書きましたが、筋道たって読める章もありました。「臨死体験と文学」、「山の信仰」、「棄老説話の起源」、「死と救済」、「トーテムと始祖伝説」、「味噌買い橋をめぐって」などはエッセイ風で面白く読めました。比較的後期の著作なので、こなれてきたということなのか。

 

 神話や民話の本を読んでいて、いつも疑問に思うのは、いろんな地域に共通の話題が分布しているということを丹念に調べ、多くの例証をあげることに血道になっていることですが、地域を網羅するということにそれほど意味があるとは思えません。話としては面白いですが、むしろその話題のどこに伝播する力があったのか、あるいは人類共通の発想が生まれる元があったのかを論じる方が大事だと思います。また結論に至る過程にどう考えても飛躍があってその根拠が説明されないことが多く、もし勘で結論を導いているとすれば、読んでいる分には面白いですが、他の学問に比べて学術的とは言えない気がします。

 

 この本で主張されている断片的な考えをいくつか私なりにアレンジして羅列しておきます。

①古代の日本では箸と橋と梯子と柱は同系のことばで、神が降臨する場所であった。

②鼻輪、腕輪、首飾り、指輪に共通する「輪」には、信頼、従属の意味があったようだ。

③死者の霊魂が死の時点で女子の胎内に入るという思想は、世界的に広く見られる。孫が祖父母に似るという事実に対して、隔世遺伝という知識がなかったためで、例えば、長男夫婦が死んだ親の遺体のそばで夫婦関係をする習俗があるが、これは死んだ人の魂がもういちど人間の胎内に入るようにという願いを表わしたもの。

④ノアなどの洪水は、出産のとき母胎から流出する羊水を象徴したもので、流出後、羊膜の中から新しい生命が誕生する。その場合、胎児を包む羊膜は、ノアの方舟にあたるもの。

⑤民話の鬼には、赤鬼と黒鬼がよく出てくるが、これは腐敗しはじめた死体の色を表わしている。

⑥女人禁制の霊山の意味は、自然は女であるから、男だけが母胎である山に回帰できるという考え方。

⑦鳥居は古くは笠木に鳥が止まっていたので、インディアンのトーテム・ポールと同類。

⑧「鬼は外、福は内」と同じような呪文は各地に見られる。イランでは年末最後の水曜の前夜、「僕の黄色は君のもの、君の赤色は僕のもの」、清代の中国では12月24日に「阿呆を売りましょう」と唱える。これは、季節の境目に行なわれたお祓い。

⑨睡眠中に人間の魂が小動物の姿になって肉体から出て行き、その魂の体験が眠っている人の夢として現れるという信仰が全世界に広く見られる。

⑩古くは、鳥居の左右の柱のまん中の祭壇に立てられた木が神であった。後の神社形式では、神の位置が後退し、神殿が建設された。(→何となく逆のような気がするが)。

 

 神話的なイメージもいくつか列挙しておきます。

双子山には、蠍人間が門番として門を守っていた・・・双子山には、古くは二つの洞穴があったと考えられる。一つは死者があの世に入ってゆく洞穴で、一つは産道と同じように、死者があの世から再生して出てくる洞穴であった(p57、『ギルガメシュ叙事詩』)。

ヒズル(船頭)が・・・生命の水の水源に着いたとき、食糧としてたずさえていた干し魚を水中に投ずると、魚は生命をとり戻して泳ぎ去った(p63、エチオピア語版『アレクサンダー伝説』)。

二人の漁師が深山に分け入り、神仙境にたどりついた。二人の美女にかしずかれたが、別れぎわに腕嚢をくれた。開けてはいけないといわれていたのを、家人が男の外出中に開くと、中から青い鳥が飛び立つ・・・男は動かなくなり、蝉の抜け殻のようになった(p107、陶淵明『捜神後記』)。

モンゴル皇帝の宮殿に、外国の皇帝が、二種類の、人に見分けのつかないものをもってきた。一つはラバのような動物で、人の姿を見ると、体が膨れてますます大きくなる動物であった(p152、モンゴル・オルドス地方の民話)。

嫁が姑を憎んで、夫に姑を山に捨てさせる・・・鬼の子が現われ、偶然の頓智で婆は小槌を手に入れる。婆は小槌で地面をたたき、町をつくって女殿様になる(p169、『大和物語』)。

若い方の男が見ていると、寝た男の鼻の穴から一匹の虻が飛び出し、佐渡島の方へ飛んでゆき、やがて戻ってきて寝ている男の鼻の中へ入っていった(p280、関敬吾『日本昔話』より「夢を買うた男」)。

 

 いくつか不勉強で知らない語源的なことを教えられました。

ギリシア語のネモス、ラテン語ネムスという語は、聖なる林を意味する・・・サンスクリット語のナマス(敬礼きょうらい)に対応する。南無阿弥陀仏の南無は、ナマスの主格ナモーの音訳である(p132)。

遊という字は古くは斿と書かれ、旅と同じく、旗をもって出行することを示す語であった。族の字によって知られるように、その旗は氏族の標識(p202)。

アマゾンとは「乳(マゾス)のない(ア)」という意味で(p296)、アマゾン川上流に入り、川を下ったスペインの征服者たちは、途中、インディオの女子軍に襲撃された。そのために、アマゾン川という名をつけた(p300)。

 

 次からしばらくは、論理的な叙述をしてそうな本を読んで行きたいと思います。

Jean Richepin『Les morts bizarres』(ジャン・リシュパン『風変わりな死』)

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Jean Richepin『Les morts bizarres』(Arbre vengeur 2009年)

                                   

 リシュパンはこれまで『CONTES DE LA DÉCADENCE ROMAINE(羅馬頽唐譚)』(2017年9月29日記事参照)を読んだだけです。『Les morts bizarres』は、バロニアンがリシュパンの中でも高く評価している作品なので読んでみました。12篇が収められていますが、題名どおり変わった死に方をした人の話を集めています。

 

 溺死ではなく牡蠣の毒で死ぬ遭難者、盗みに入った先で死んだ泥棒、女子トイレで自殺した妄想男、監獄の中で寝藁を食べて自殺した徒刑囚、臆病な友の自殺幇助者となる話、自らを解剖して死んだ医学生、両親の復讐を果たして死んでいく子ども、理論どおりの傑作を一作残そうと執着しながら高齢で死んでいく文学理論家、形而上学の妄想に憑かれ「絶対」を見つけるために開発した器械で死ぬ哲学者、オリジナルな生き方を求め最後にギロチンの切られ方も工夫して死んでいく独創家、善意の行動がすべて運命に裏切られ最後に死刑になり墓碑銘も間違えられる不幸な男。一作だけ死なずに狂人となった話がありました。

 

 全体の印象は、短篇というよりは日本で言うコントに近いものという気がしました。観念小説的なモダンさがあり、ウィットはありますが、あまり文学的香気といったものは感じられませんでした。中で印象深かったのは、「Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)」、「Le disséqué(解剖された男)」、「Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)」、「Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)」の4篇。やはり奇人変人が登場する作品が面白い。序文で、François Rivièreが、「リシュパンの作品には、レクイエムの響きのような黒いユーモアがあり、慄かされる」と書いているとおり、奇人の強い思い込みが悲惨さ、残酷さにつながり、それが滑稽感を沸き起こしています。

 

 リシュパン自身が監獄を経験していて、本作の中にも、監獄が出てくる話がたくさんありました。ブルジョア社会を嫌悪していたようで、貴族的な社会ではなく、貧乏人など庶民の生活が多く描かれています。「L’assassin nu(裸の殺人者)」など、俗語を多用している作品は当時新鮮だったに違いなく、また話の運びも簡潔で、ハードボイルドを思わせるところもありました。「Un empereur(皇帝)」は、『Contes de la décadence romaine』にテーマも近い短篇です。

 

 では、恒例により、各篇を簡単に紹介しておきます。それぞれの作品を捧げている当時の文学者の名前を見るのも面白い。

Juin, juillet, août(6月、7月、8月)―コクラン・カデに捧ぐ

毎日昔習った言葉どおりに生活し、かつ自分のことしか考えない小心な男の乗った船が沈没した。幸い救命具を持っていたので、すがってくる人を跳ねのけながら、二日間漂流する。岩に打ち上げられて牡蠣で命をつなぎ、ようやく発見されるが、強烈な腹痛で瀕死となる。医者が死に至る毒と診断するなか、男は「6月は牡蠣を食べるな」という言葉を思い出して泣き崩れる。

 

L’assassin nu(裸の殺人者)―レオン・クラデルに

出獄した男が、仕事もなく放浪した末に、故郷に戻り、むかし小僧として仕えていた家に盗みに入ろうとする。監獄で仲間から聞いた「裸で、一人で」という必勝法を取り入れ、慎重に事を運びうまく大金を奪取するが、逃げようとしたとき予想外のことが起こって自滅する。

 

Un empereur(皇帝)―アブドル・アジの思い出に

公衆トイレに入ってきた女性がなかなか出てこないので、ドアを蹴破ったところ、若い男が死んでいた。置手紙があり、「自分には頽唐期羅馬の皇帝という妄想があり、ヘリオガバルスのように死んでいきます」と書かれていた。

 

La paille humide des cachots(牢獄の湿った藁)―テオドール・ド・バンヴィル

30年の刑で監獄に入った男。10年過ぎて、無為が恥ずかしくなり、最後に乾いた藁の上で寝ることを夢見て、毎日陽が射す半時間の間に一本ずつ乾かすことにした。あと少しになったとき、水差しをこぼして全部湿らせてしまった。絶望した囚人は思い切った行動に出る。

 

Un lâche(臆病者)―バルベー・ドールヴィイ

犯罪者の父と無軌道な母との私生児で、無職で他人の好意にすがってぶらぶらしている臆病な男。がいい奴で私のただ一人の友だ。そんな彼から殺してくれと頼まれた。「このままだと犯罪者になってしまうし、好きな女性がいるがたとえ彼女に愛されたとしても悪い血を残すだけで、自殺しようと思うが、臆病で自殺できないから助けてくれ」と言うのだ。

 

〇Le disséqué(解剖された男)―ギュスターヴ・フローベール

コミューンのさなか、食堂で常連の学生と懇意になる。彼は優秀な医学生で詩も書き、意気投合するが、「解剖して思考が物質的現象であることを発見したい」と言う。銃声のなか、学生が瀕死の状態で上の階から落ちてきた。見ると胸の皮がべろりと捲れている。「自分で解剖した」と言う。そこへ負傷し運び込まれた戦士が「革命の一大事に自殺とは無駄死にだ」とののしるので、「科学に身を捧げた」と弁護する。と一人が言った。「どいつもこいつも馬鹿ばかり」。思考の現象は電気のようなものと学生に語らせているのは当時としては慧眼だろう。

 

◎Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)―アドリエン・ジュヴィニーに

天才だと信じているが売れない三文作家の主人公が、ある偶然から二人を殺し、無実の人に濡れぎぬを着せる完璧な手口を弄した。10年後、誰かに吹聴したい思いを押さえきれず、顛末を克明に描いて作品にしたところ、絶賛の嵐を受ける。が誰も本当とは信じないので、真実だと触れ回り、事件担当の判事のところまで押しかけて、あげくに精神病院に入れられる。治癒のお墨付きを受けて退院したとき、殺人を犯してないと信じる本当の狂人になっていた。

 

Le chassepot du petit Jésus(幼いイエスの銃)―ジェルマン・ヌーヴォーに

普仏戦争時、両親を目の前で銃殺された子どもが、助けにきたフランス軍についてくる。たっての願いの銃をクリスマスプレゼントとしてもらった子どもが、胸に銃弾を受け瀕死になりながら、両親を殺したプロシア軍の士官を撃つ話。お涙ちょうだい譚だが後味が悪い。

 

Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)―アンドレ・ジルに

時代にはその時代にふさわしい表現があるはずだと理論が先行するへぼ作家が、現代生活を活写しようと一篇の詩を書いた。友人たちが絶賛するなか一人が「そのテーマなら私はドラマにする」の一言で、詩を破棄し劇作にとりかかる。5年後完成すると、今度は「内面描写は小説の方が向いている」の言葉で、燃やしてしまう。そしてようやく60歳になってついに27巻の巨編が完成した。が今度は長すぎると、どんどん巻数を減らし、最後に100ページの中篇にした時すでに80歳になっていた。それでも長いと圧縮し続け、92歳の死の床で、ただ一人残った友人に、ついに搾りに搾った傑作を見つけたと告白し、友人が口もとに耳を近づけると、「皆さん、こんにちは」と言って死んだ。ブラック・ユーモア的滑稽譚。

 

La machine à métaphysique(形而上学の器械)―ポール・ブールジェに

古今東西の書物を読み耽り形而上学に取りつかれた男が、「絶対」に辿り着くには直観が必要で、そのためには苦痛を持続させて光を見ないといけないと妄想し、15年間、それを実現させる器械を作り上げる。それは歯医者の器械のように歯にドリルで穴を開けるようになっており、いったんスイッチを入れると自分では止められないものだった。召使が見に行くと、男は苦痛に苛まれて死んでいた。前段の高邁な理論と後半の卑近な器械との落差が大きく、滑稽譚としてしか読めない。一種のマッドドクターもの。

 

Deshoulières(デズリエール)―ラウル・ポンションへ

芸術、文学、科学を極めた男が、何事も独創的でなければと突拍子もないことをすることにし、毎日外見を替えたりしていたが、単なる変人ではないことを証明しようと、愛人を殺して防腐処理をして留め置き、完璧な犯罪だったが自ら名乗りを上げる。裁判も弁護士の雄弁で無罪になりかけたとき、自ら犯罪を告発して、希望どおり死刑を勝ち取る。処刑の段になっても、普通のギロチンの死に方では面白くないと、頭が輪切りになるように首をずらす。奇人変人譚。

 

〇Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)―モールス・ブショルへ

不幸な星のもとに生まれた男。試験の日には病気になり、バカロレアではカンニングした相手が通って、本人は落とされた。初めて勤めた初日、職場が火事になり、金庫を持って逃げ出そうとして逮捕され、監獄で反乱が起きたとき、看守を助けようとして誤って暴動の手に押しやり死なせた。送還された重罪監獄を脱獄し、善行を施そうと尽くすがことごとく運命に裏切られる。孤児の女の子を引き取って育てたが愛を告白され父親と思っていると答えて自殺され、知り合いの犯罪を未然に防ごうと仲間に加わって、彼だけが逮捕された。裁判で満場一致で死刑となる。彼の善意を信じた友人の一人が墓碑銘を作らせたが、原稿の字が歪んでいたので墓屋が間違えて、「善意の男(bien)」とすべきところを「品性下劣の男(rien)」としてしまった。

井本英一『習俗の始原をたずねて』

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井本英一『習俗の始原をたずねて』(法政大学出版局 1992年)

 

 井本英一の本は相変わらず重複の多い話ばかりですが、慣れてきたのか、読み物として面白い章節もありました。例えば、「あべこべの世界」などは、澁澤龍彦種村季弘が書いてもおかしくないような味わいが感じられましたし、「初物の話」は目新しい話題が多かったように思います。いくつかまとまったテーマが目に留まりましたので、ご紹介します。

 

①偶数と奇数について、古代人はいろんな考えを持っていたようで、ひとつは、奇数を偶数よりも重要視する見方。奇数は二等分できずいつも余りが出るが、これこそ生成の芽であるとする。月でいえば三日月や上弦月には生成の芽があるが、満月は完成したあとの衰えしかない(p17)。また古代ローマの霊魂の祭りが必ず奇数の日で行われたように、死者の世界との交渉や死者の再生には奇数が必要と考えられたらしい(p19)。一方で、贈答や婚姻は円満であるべきなので偶数を尊ぶということもあった(p18)。

 

②はっきりとは書かれていないように思うが、五穀の初穂など初物を神に返すという風習があり、それが神から与えられる十分の一を捧げるという習慣となり、十分の一税のもととなったようである。なぜ初物かというと、初物は危険なエネルギーを持っているからである。花嫁の初夜権も花嫁の処女性のもつ危険性を除去するのが本来の意味という(p40)。また金銭は初穂以上に危険なエネルギーを持つと思われたので、新銭からそれを除去する手続きが必要とされ、経済の発達とともに、五穀からそれを買える金銭へと移行していった(p44)。

 

③この世とあの世のあべこべについていろんな事例が引かれていて、この世とあの世は、地面を境として鏡の映像のように、上下左右が逆さまになっていると多くの民族は考えていたらしい(p80)。イザナギの黄泉国訪問、イシュタルの冥界降りなど、古代から中世にかけての異郷訪問譚では、冥界へ降りていく前半と戻ってくる後半とが裏返しの構造を持っていることや(p82)、アルタイ系諸民族が死者の世界は左右が逆と考え、死者の服は生者の右ではなく左でボタンを留め、刀は死者の右側の帯のところにつけるというようにしたこと(p92)など。

 

④多くの文化では、祭司や信者が裸になるのは神に近づくためとされていて、裸にして人を打つのは懲罰のためではなく、権威を授けるためということがあった(p116)。打つことには、打たれる者から力を引き出す場合と、その中に魂や力を鎮め込めてしまうという二つの場合があり(p141)、ものを打つと、そのものが持っている不思議な力が出て、打つ人の身体につくという。不思議な力の代わりに、食物や宝物が出る場合もある(p142)。さじで食器を叩くと祖先霊が出て来る信仰が、日本では食器を箸で叩くことに対するタブーに変化したのだろう(p137)。

 

⑤悠久の昔には、死者の魂はいつも生者の世界に留まっていたと考えられていたようで(p150)、家の床下に埋葬するのは人類共通の習俗であったらしい。死者と生者が同じ家で生活するという考えがあったと思われるし、人間は彼が生まれた場所で死に、そこに埋葬されるべきであるという考えもあったようだ(p168)。沖縄では長らく家の背や軒下に埋葬する習慣が残っていた(p167)。日本では古くから幼児の埋葬は、家の入口の敷居の下にするという伝統があった。それは、もう一度、死んだ子どもの魂がここを出入りする母親の胎内に入って、生まれ変わるようにという願いからだったろう(p169)。

 

⑥至福の島や箱庭など天国のイメージを小さなものの中に表現する事例として、イスラム教のモスクや聖者廟の中庭中央に配された沐浴用の池と、周囲の樹木とそれに憩う小鳥が人工の楽園を思わせること(p270)、イスラム教でもキリスト教でも古くから楽園に眠りたいという希望があり、いずれもモスクや教会の庭内に墓があること(p271)、また極東では、海に浮かぶ至福者の島を箱庭として表現していて、ハノイでは水槽の中に岩を置き、その上に植物を植えたヌイ・ノン・ボという箱庭があることや、中国では漢代に、水盤の中に博山炉を立て、文人たちが香を焚いてそれを愛でたこと、蓬莱・方丈・瀛(えい)州は至福の島で壺の形で表象されたこと(p277)などが紹介されていた。蘇我馬子が「庭に小さい池を掘り、池の中に小さい島を築いた」ことは『境界・祭祀空間』にも出ていた。

 

最後に、変身譚に関連した面白い話があったので、書いておきます。

ある武士が苦行中に夢でお告げがあり、そのとおりに、朝、頭を剃り手に棒をもって門のところに隠れ、やってきた雲水僧をめった打ちにすると、僧は黄金がいっぱい詰まった水瓶となった。床屋がこれを見て、同じようにやって来た僧をめった打ちにしたところ、僧は死んで、床屋は殺人の罪で役人に打たれて死んでしまった(インドの説話集『ヒトーパデーシャ』)(p142)。

ある王女が家来と恋をして結婚したいと言うが、父王は許さないので二人は馬に乗って逃げる。王が追ってくるが、馬は土地、馬具は畑に、王女はレタス、家来は農夫に変身する。さらに父に追わると今度は、馬は礼拝堂に、馬具は聖壇に、王女は聖女像に、家来は聖器係僧に変身する。最後にはめでたく結婚(ポルトガルの民話「白花姫」)(p244)。