アンスティチュフランセ関西のbouquinerie solidaire(古本出店)

  フランス語の先生から、京都のアンスティチュフランセ関西で、29日にマルシェがあり、その中で古本も売られるという情報を聞き、雨天中止に冷や冷やしながら、行ってみました。たしかに建物の入り口の一角に古本コーナーがありましたが、残念ながら量が少ない上に、新しい作家が多く、英米の仏訳などもかなり交じっていて、期待外れ。一冊だけ、Frédérick Tristanの『Les Égarés(迷った人々)』500円に触手が動きましたが、大部でとても読めそうにない感じがしたので、結局買いませんでした。

 

 近くの吉岡書店に寄って、下記を買い、はるばる京都まで行った記念としました

「仏文研究XL」(京都大学フランス語学フランス文学研究会、09年10月、300円)→宇多直久という人の「マックス・ミルネルとロマン主義文学史サタン篇」という論文が掲載されている。原書を持っているがとても読めそうにないので代わりに。

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 フランス書では、先月のはじめにbookfinder.comで検索して、三冊を発注、そのうち二冊が早々と到着。

J.M.A.Paroutaud『LA DESCENTE INFINIE』(on verra bien、16年3月、2543円)

Maurice Pons『Le passager de la nuit』(du Rocher、17年5月、836円)

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 他は、オークションで下記。

呉茂一『ぎりしあの詩人たち』(筑摩書房、昭和31年9月、500円)

松井好夫『大手拓次 人と作品』(上毛新聞社出版局、67年、800円)

ウィル・ワイルズ茂木健訳『時間のないホテル』(東京創元社、17年3月、819円)

谷川健一常世論―日本人の魂のゆくえ』(講談社学術文庫、89年10月、500円)

マリア・M・タタール鈴木晶訳『魔の眼に魅されて―メスメリズムと文学の研究』(国書刊行会、94年3月、1000円)

林三郎『人間巴里』(文藝春秋新社、昭和33年11月、50円)

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 オークションで、ネーモー・ウーティス『ギリシアの墓碑に寄せて』が落札できなかった腹いせに、アマゾン古本で下記を購入。

澤柳大五郎『アッティカの墓碑』(グラフ社、89年11月、769円)

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井本英一『夢の神話学』

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井本英一『夢の神話学』(法政大学出版局 1997年)

 

 これで井本英一を最後にしたいと思います。この本も読んでいて目がちらちら頭がくらくらしてきました。年のせいかとも思いますが、やはり、説明不足のまま話題が急に変わったり、例話が次から次へとめまぐるしく出てきて、そのスピードについていけないからで、頭が整理されないまま多量の情報が入ってくるせいでしょう。それに固有名詞が、中東、ユダヤなどでは意味不明のカタカナ、中国、日本では黒々と漢字で、やたらと多いのも原因。井本英一の執筆法は、いろんな本を読んで、そこからとにかく同じテーマに関する話題を集めるというやり方みたいで、本人なりに整理はしているつもりのようですが。『アンネナプキンの社会史』という本まで読んでいたのは驚き。

 

 と悪口を書きましたが、筋道たって読める章もありました。「臨死体験と文学」、「山の信仰」、「棄老説話の起源」、「死と救済」、「トーテムと始祖伝説」、「味噌買い橋をめぐって」などはエッセイ風で面白く読めました。比較的後期の著作なので、こなれてきたということなのか。

 

 神話や民話の本を読んでいて、いつも疑問に思うのは、いろんな地域に共通の話題が分布しているということを丹念に調べ、多くの例証をあげることに血道になっていることですが、地域を網羅するということにそれほど意味があるとは思えません。話としては面白いですが、むしろその話題のどこに伝播する力があったのか、あるいは人類共通の発想が生まれる元があったのかを論じる方が大事だと思います。また結論に至る過程にどう考えても飛躍があってその根拠が説明されないことが多く、もし勘で結論を導いているとすれば、読んでいる分には面白いですが、他の学問に比べて学術的とは言えない気がします。

 

 この本で主張されている断片的な考えをいくつか私なりにアレンジして羅列しておきます。

①古代の日本では箸と橋と梯子と柱は同系のことばで、神が降臨する場所であった。

②鼻輪、腕輪、首飾り、指輪に共通する「輪」には、信頼、従属の意味があったようだ。

③死者の霊魂が死の時点で女子の胎内に入るという思想は、世界的に広く見られる。孫が祖父母に似るという事実に対して、隔世遺伝という知識がなかったためで、例えば、長男夫婦が死んだ親の遺体のそばで夫婦関係をする習俗があるが、これは死んだ人の魂がもういちど人間の胎内に入るようにという願いを表わしたもの。

④ノアなどの洪水は、出産のとき母胎から流出する羊水を象徴したもので、流出後、羊膜の中から新しい生命が誕生する。その場合、胎児を包む羊膜は、ノアの方舟にあたるもの。

⑤民話の鬼には、赤鬼と黒鬼がよく出てくるが、これは腐敗しはじめた死体の色を表わしている。

⑥女人禁制の霊山の意味は、自然は女であるから、男だけが母胎である山に回帰できるという考え方。

⑦鳥居は古くは笠木に鳥が止まっていたので、インディアンのトーテム・ポールと同類。

⑧「鬼は外、福は内」と同じような呪文は各地に見られる。イランでは年末最後の水曜の前夜、「僕の黄色は君のもの、君の赤色は僕のもの」、清代の中国では12月24日に「阿呆を売りましょう」と唱える。これは、季節の境目に行なわれたお祓い。

⑨睡眠中に人間の魂が小動物の姿になって肉体から出て行き、その魂の体験が眠っている人の夢として現れるという信仰が全世界に広く見られる。

⑩古くは、鳥居の左右の柱のまん中の祭壇に立てられた木が神であった。後の神社形式では、神の位置が後退し、神殿が建設された。(→何となく逆のような気がするが)。

 

 神話的なイメージもいくつか列挙しておきます。

双子山には、蠍人間が門番として門を守っていた・・・双子山には、古くは二つの洞穴があったと考えられる。一つは死者があの世に入ってゆく洞穴で、一つは産道と同じように、死者があの世から再生して出てくる洞穴であった(p57、『ギルガメシュ叙事詩』)。

ヒズル(船頭)が・・・生命の水の水源に着いたとき、食糧としてたずさえていた干し魚を水中に投ずると、魚は生命をとり戻して泳ぎ去った(p63、エチオピア語版『アレクサンダー伝説』)。

二人の漁師が深山に分け入り、神仙境にたどりついた。二人の美女にかしずかれたが、別れぎわに腕嚢をくれた。開けてはいけないといわれていたのを、家人が男の外出中に開くと、中から青い鳥が飛び立つ・・・男は動かなくなり、蝉の抜け殻のようになった(p107、陶淵明『捜神後記』)。

モンゴル皇帝の宮殿に、外国の皇帝が、二種類の、人に見分けのつかないものをもってきた。一つはラバのような動物で、人の姿を見ると、体が膨れてますます大きくなる動物であった(p152、モンゴル・オルドス地方の民話)。

嫁が姑を憎んで、夫に姑を山に捨てさせる・・・鬼の子が現われ、偶然の頓智で婆は小槌を手に入れる。婆は小槌で地面をたたき、町をつくって女殿様になる(p169、『大和物語』)。

若い方の男が見ていると、寝た男の鼻の穴から一匹の虻が飛び出し、佐渡島の方へ飛んでゆき、やがて戻ってきて寝ている男の鼻の中へ入っていった(p280、関敬吾『日本昔話』より「夢を買うた男」)。

 

 いくつか不勉強で知らない語源的なことを教えられました。

ギリシア語のネモス、ラテン語ネムスという語は、聖なる林を意味する・・・サンスクリット語のナマス(敬礼きょうらい)に対応する。南無阿弥陀仏の南無は、ナマスの主格ナモーの音訳である(p132)。

遊という字は古くは斿と書かれ、旅と同じく、旗をもって出行することを示す語であった。族の字によって知られるように、その旗は氏族の標識(p202)。

アマゾンとは「乳(マゾス)のない(ア)」という意味で(p296)、アマゾン川上流に入り、川を下ったスペインの征服者たちは、途中、インディオの女子軍に襲撃された。そのために、アマゾン川という名をつけた(p300)。

 

 次からしばらくは、論理的な叙述をしてそうな本を読んで行きたいと思います。

Jean Richepin『Les morts bizarres』(ジャン・リシュパン『風変わりな死』)

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Jean Richepin『Les morts bizarres』(Arbre vengeur 2009年)

                                   

 リシュパンはこれまで『CONTES DE LA DÉCADENCE ROMAINE(羅馬頽唐譚)』(2017年9月29日記事参照)を読んだだけです。『Les morts bizarres』は、バロニアンがリシュパンの中でも高く評価している作品なので読んでみました。12篇が収められていますが、題名どおり変わった死に方をした人の話を集めています。

 

 溺死ではなく牡蠣の毒で死ぬ遭難者、盗みに入った先で死んだ泥棒、女子トイレで自殺した妄想男、監獄の中で寝藁を食べて自殺した徒刑囚、臆病な友の自殺幇助者となる話、自らを解剖して死んだ医学生、両親の復讐を果たして死んでいく子ども、理論どおりの傑作を一作残そうと執着しながら高齢で死んでいく文学理論家、形而上学の妄想に憑かれ「絶対」を見つけるために開発した器械で死ぬ哲学者、オリジナルな生き方を求め最後にギロチンの切られ方も工夫して死んでいく独創家、善意の行動がすべて運命に裏切られ最後に死刑になり墓碑銘も間違えられる不幸な男。一作だけ死なずに狂人となった話がありました。

 

 全体の印象は、短篇というよりは日本で言うコントに近いものという気がしました。観念小説的なモダンさがあり、ウィットはありますが、あまり文学的香気といったものは感じられませんでした。中で印象深かったのは、「Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)」、「Le disséqué(解剖された男)」、「Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)」、「Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)」の4篇。やはり奇人変人が登場する作品が面白い。序文で、François Rivièreが、「リシュパンの作品には、レクイエムの響きのような黒いユーモアがあり、慄かされる」と書いているとおり、奇人の強い思い込みが悲惨さ、残酷さにつながり、それが滑稽感を沸き起こしています。

 

 リシュパン自身が監獄を経験していて、本作の中にも、監獄が出てくる話がたくさんありました。ブルジョア社会を嫌悪していたようで、貴族的な社会ではなく、貧乏人など庶民の生活が多く描かれています。「L’assassin nu(裸の殺人者)」など、俗語を多用している作品は当時新鮮だったに違いなく、また話の運びも簡潔で、ハードボイルドを思わせるところもありました。「Un empereur(皇帝)」は、『Contes de la décadence romaine』にテーマも近い短篇です。

 

 では、恒例により、各篇を簡単に紹介しておきます。それぞれの作品を捧げている当時の文学者の名前を見るのも面白い。

Juin, juillet, août(6月、7月、8月)―コクラン・カデに捧ぐ

毎日昔習った言葉どおりに生活し、かつ自分のことしか考えない小心な男の乗った船が沈没した。幸い救命具を持っていたので、すがってくる人を跳ねのけながら、二日間漂流する。岩に打ち上げられて牡蠣で命をつなぎ、ようやく発見されるが、強烈な腹痛で瀕死となる。医者が死に至る毒と診断するなか、男は「6月は牡蠣を食べるな」という言葉を思い出して泣き崩れる。

 

L’assassin nu(裸の殺人者)―レオン・クラデルに

出獄した男が、仕事もなく放浪した末に、故郷に戻り、むかし小僧として仕えていた家に盗みに入ろうとする。監獄で仲間から聞いた「裸で、一人で」という必勝法を取り入れ、慎重に事を運びうまく大金を奪取するが、逃げようとしたとき予想外のことが起こって自滅する。

 

Un empereur(皇帝)―アブドル・アジの思い出に

公衆トイレに入ってきた女性がなかなか出てこないので、ドアを蹴破ったところ、若い男が死んでいた。置手紙があり、「自分には頽唐期羅馬の皇帝という妄想があり、ヘリオガバルスのように死んでいきます」と書かれていた。

 

La paille humide des cachots(牢獄の湿った藁)―テオドール・ド・バンヴィル

30年の刑で監獄に入った男。10年過ぎて、無為が恥ずかしくなり、最後に乾いた藁の上で寝ることを夢見て、毎日陽が射す半時間の間に一本ずつ乾かすことにした。あと少しになったとき、水差しをこぼして全部湿らせてしまった。絶望した囚人は思い切った行動に出る。

 

Un lâche(臆病者)―バルベー・ドールヴィイ

犯罪者の父と無軌道な母との私生児で、無職で他人の好意にすがってぶらぶらしている臆病な男。がいい奴で私のただ一人の友だ。そんな彼から殺してくれと頼まれた。「このままだと犯罪者になってしまうし、好きな女性がいるがたとえ彼女に愛されたとしても悪い血を残すだけで、自殺しようと思うが、臆病で自殺できないから助けてくれ」と言うのだ。

 

〇Le disséqué(解剖された男)―ギュスターヴ・フローベール

コミューンのさなか、食堂で常連の学生と懇意になる。彼は優秀な医学生で詩も書き、意気投合するが、「解剖して思考が物質的現象であることを発見したい」と言う。銃声のなか、学生が瀕死の状態で上の階から落ちてきた。見ると胸の皮がべろりと捲れている。「自分で解剖した」と言う。そこへ負傷し運び込まれた戦士が「革命の一大事に自殺とは無駄死にだ」とののしるので、「科学に身を捧げた」と弁護する。と一人が言った。「どいつもこいつも馬鹿ばかり」。思考の現象は電気のようなものと学生に語らせているのは当時としては慧眼だろう。

 

◎Le chef-d’œuvre du crime(犯罪の傑作)―アドリエン・ジュヴィニーに

天才だと信じているが売れない三文作家の主人公が、ある偶然から二人を殺し、無実の人に濡れぎぬを着せる完璧な手口を弄した。10年後、誰かに吹聴したい思いを押さえきれず、顛末を克明に描いて作品にしたところ、絶賛の嵐を受ける。が誰も本当とは信じないので、真実だと触れ回り、事件担当の判事のところまで押しかけて、あげくに精神病院に入れられる。治癒のお墨付きを受けて退院したとき、殺人を犯してないと信じる本当の狂人になっていた。

 

Le chassepot du petit Jésus(幼いイエスの銃)―ジェルマン・ヌーヴォーに

普仏戦争時、両親を目の前で銃殺された子どもが、助けにきたフランス軍についてくる。たっての願いの銃をクリスマスプレゼントとしてもらった子どもが、胸に銃弾を受け瀕死になりながら、両親を殺したプロシア軍の士官を撃つ話。お涙ちょうだい譚だが後味が悪い。

 

Bonjour, monsieur!(皆さん、こんにちは)―アンドレ・ジルに

時代にはその時代にふさわしい表現があるはずだと理論が先行するへぼ作家が、現代生活を活写しようと一篇の詩を書いた。友人たちが絶賛するなか一人が「そのテーマなら私はドラマにする」の一言で、詩を破棄し劇作にとりかかる。5年後完成すると、今度は「内面描写は小説の方が向いている」の言葉で、燃やしてしまう。そしてようやく60歳になってついに27巻の巨編が完成した。が今度は長すぎると、どんどん巻数を減らし、最後に100ページの中篇にした時すでに80歳になっていた。それでも長いと圧縮し続け、92歳の死の床で、ただ一人残った友人に、ついに搾りに搾った傑作を見つけたと告白し、友人が口もとに耳を近づけると、「皆さん、こんにちは」と言って死んだ。ブラック・ユーモア的滑稽譚。

 

La machine à métaphysique(形而上学の器械)―ポール・ブールジェに

古今東西の書物を読み耽り形而上学に取りつかれた男が、「絶対」に辿り着くには直観が必要で、そのためには苦痛を持続させて光を見ないといけないと妄想し、15年間、それを実現させる器械を作り上げる。それは歯医者の器械のように歯にドリルで穴を開けるようになっており、いったんスイッチを入れると自分では止められないものだった。召使が見に行くと、男は苦痛に苛まれて死んでいた。前段の高邁な理論と後半の卑近な器械との落差が大きく、滑稽譚としてしか読めない。一種のマッドドクターもの。

 

Deshoulières(デズリエール)―ラウル・ポンションへ

芸術、文学、科学を極めた男が、何事も独創的でなければと突拍子もないことをすることにし、毎日外見を替えたりしていたが、単なる変人ではないことを証明しようと、愛人を殺して防腐処理をして留め置き、完璧な犯罪だったが自ら名乗りを上げる。裁判も弁護士の雄弁で無罪になりかけたとき、自ら犯罪を告発して、希望どおり死刑を勝ち取る。処刑の段になっても、普通のギロチンの死に方では面白くないと、頭が輪切りになるように首をずらす。奇人変人譚。

 

〇Constant Guinard(コンスタン・ギニャール)―モールス・ブショルへ

不幸な星のもとに生まれた男。試験の日には病気になり、バカロレアではカンニングした相手が通って、本人は落とされた。初めて勤めた初日、職場が火事になり、金庫を持って逃げ出そうとして逮捕され、監獄で反乱が起きたとき、看守を助けようとして誤って暴動の手に押しやり死なせた。送還された重罪監獄を脱獄し、善行を施そうと尽くすがことごとく運命に裏切られる。孤児の女の子を引き取って育てたが愛を告白され父親と思っていると答えて自殺され、知り合いの犯罪を未然に防ごうと仲間に加わって、彼だけが逮捕された。裁判で満場一致で死刑となる。彼の善意を信じた友人の一人が墓碑銘を作らせたが、原稿の字が歪んでいたので墓屋が間違えて、「善意の男(bien)」とすべきところを「品性下劣の男(rien)」としてしまった。

井本英一『習俗の始原をたずねて』

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井本英一『習俗の始原をたずねて』(法政大学出版局 1992年)

 

 井本英一の本は相変わらず重複の多い話ばかりですが、慣れてきたのか、読み物として面白い章節もありました。例えば、「あべこべの世界」などは、澁澤龍彦種村季弘が書いてもおかしくないような味わいが感じられましたし、「初物の話」は目新しい話題が多かったように思います。いくつかまとまったテーマが目に留まりましたので、ご紹介します。

 

①偶数と奇数について、古代人はいろんな考えを持っていたようで、ひとつは、奇数を偶数よりも重要視する見方。奇数は二等分できずいつも余りが出るが、これこそ生成の芽であるとする。月でいえば三日月や上弦月には生成の芽があるが、満月は完成したあとの衰えしかない(p17)。また古代ローマの霊魂の祭りが必ず奇数の日で行われたように、死者の世界との交渉や死者の再生には奇数が必要と考えられたらしい(p19)。一方で、贈答や婚姻は円満であるべきなので偶数を尊ぶということもあった(p18)。

 

②はっきりとは書かれていないように思うが、五穀の初穂など初物を神に返すという風習があり、それが神から与えられる十分の一を捧げるという習慣となり、十分の一税のもととなったようである。なぜ初物かというと、初物は危険なエネルギーを持っているからである。花嫁の初夜権も花嫁の処女性のもつ危険性を除去するのが本来の意味という(p40)。また金銭は初穂以上に危険なエネルギーを持つと思われたので、新銭からそれを除去する手続きが必要とされ、経済の発達とともに、五穀からそれを買える金銭へと移行していった(p44)。

 

③この世とあの世のあべこべについていろんな事例が引かれていて、この世とあの世は、地面を境として鏡の映像のように、上下左右が逆さまになっていると多くの民族は考えていたらしい(p80)。イザナギの黄泉国訪問、イシュタルの冥界降りなど、古代から中世にかけての異郷訪問譚では、冥界へ降りていく前半と戻ってくる後半とが裏返しの構造を持っていることや(p82)、アルタイ系諸民族が死者の世界は左右が逆と考え、死者の服は生者の右ではなく左でボタンを留め、刀は死者の右側の帯のところにつけるというようにしたこと(p92)など。

 

④多くの文化では、祭司や信者が裸になるのは神に近づくためとされていて、裸にして人を打つのは懲罰のためではなく、権威を授けるためということがあった(p116)。打つことには、打たれる者から力を引き出す場合と、その中に魂や力を鎮め込めてしまうという二つの場合があり(p141)、ものを打つと、そのものが持っている不思議な力が出て、打つ人の身体につくという。不思議な力の代わりに、食物や宝物が出る場合もある(p142)。さじで食器を叩くと祖先霊が出て来る信仰が、日本では食器を箸で叩くことに対するタブーに変化したのだろう(p137)。

 

⑤悠久の昔には、死者の魂はいつも生者の世界に留まっていたと考えられていたようで(p150)、家の床下に埋葬するのは人類共通の習俗であったらしい。死者と生者が同じ家で生活するという考えがあったと思われるし、人間は彼が生まれた場所で死に、そこに埋葬されるべきであるという考えもあったようだ(p168)。沖縄では長らく家の背や軒下に埋葬する習慣が残っていた(p167)。日本では古くから幼児の埋葬は、家の入口の敷居の下にするという伝統があった。それは、もう一度、死んだ子どもの魂がここを出入りする母親の胎内に入って、生まれ変わるようにという願いからだったろう(p169)。

 

⑥至福の島や箱庭など天国のイメージを小さなものの中に表現する事例として、イスラム教のモスクや聖者廟の中庭中央に配された沐浴用の池と、周囲の樹木とそれに憩う小鳥が人工の楽園を思わせること(p270)、イスラム教でもキリスト教でも古くから楽園に眠りたいという希望があり、いずれもモスクや教会の庭内に墓があること(p271)、また極東では、海に浮かぶ至福者の島を箱庭として表現していて、ハノイでは水槽の中に岩を置き、その上に植物を植えたヌイ・ノン・ボという箱庭があることや、中国では漢代に、水盤の中に博山炉を立て、文人たちが香を焚いてそれを愛でたこと、蓬莱・方丈・瀛(えい)州は至福の島で壺の形で表象されたこと(p277)などが紹介されていた。蘇我馬子が「庭に小さい池を掘り、池の中に小さい島を築いた」ことは『境界・祭祀空間』にも出ていた。

 

最後に、変身譚に関連した面白い話があったので、書いておきます。

ある武士が苦行中に夢でお告げがあり、そのとおりに、朝、頭を剃り手に棒をもって門のところに隠れ、やってきた雲水僧をめった打ちにすると、僧は黄金がいっぱい詰まった水瓶となった。床屋がこれを見て、同じようにやって来た僧をめった打ちにしたところ、僧は死んで、床屋は殺人の罪で役人に打たれて死んでしまった(インドの説話集『ヒトーパデーシャ』)(p142)。

ある王女が家来と恋をして結婚したいと言うが、父王は許さないので二人は馬に乗って逃げる。王が追ってくるが、馬は土地、馬具は畑に、王女はレタス、家来は農夫に変身する。さらに父に追わると今度は、馬は礼拝堂に、馬具は聖壇に、王女は聖女像に、家来は聖器係僧に変身する。最後にはめでたく結婚(ポルトガルの民話「白花姫」)(p244)。

井本英一『境界・祭祀空間』

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井本英一『境界・祭祀空間』(平河出版社 1994年)

 

 読んでいるうちに頭がくらくらしてきました。というのは、いちおう項目別に整理されているにもかかわらず、同じ話があちこちに出てきて、迷宮に入りこんだような気になってしまうからです。そのうえに、その話の半分以上が、著者のこれまでの本のどこかで読んだことのある、というかそう思えるものなので一層です。しかし、いかんせん頭の中にきちんと覚えていないので、それがどこかと問われれば答えようもありません。著者の本をずらりと並べて、全体を整理して項目・テーマ別に並べ直したら、すっきりするものができるでしょうが、そんな力もありません。それで一度頭を白紙にして、もし古代人になってみて聖なる場所をどこかに特定しようとするならどうするかと、考えてみました。

 

 まず考えつくのは、尋常ではない場所。巨岩だとか、滝とか、大きな穴、陸続きの島、聳える山、大地から一つだけ盛り上がった丘。神の力が働いているとしか思えないような自然の不思議さが実感できるところです。次に、身近なところでは、囲われた場所。自然な形では、湖や池の中の島が最適。普通の場所なら、その場所の周囲を堀や垣で囲むことになります。それがさらに簡略化されれば、四隅や入口に柱を立てる、あるいは段を作って高くするというふうに。境界が重要になるのは、そうした聖別された空間と日常的な空間を隔てるものだからでしょう。

 

 地形的な場所ではなく、人生の段階で考えれば、誕生と死の場所。とくに死後の世界につながる墓。あるいは日々の生活で聖なるものを考えると、日常から離れて、清新な気持ちにさせるもの。風呂に入る、酒を飲む、服を変える、爪を切る、散髪する、特別なものを食べるとかが思い浮かびます。再生を感じる場面としては、二日酔いとか、賭けですってんてんになり呆然となった状態で、再生するためにはその前に仮死状態のようなものが必要というわけです。

 

 と、本から離れて、テキトーなことを書いてみました。重複ばかりとは言っても、いくつかの新しい指摘も目に留まりました(単に忘れているだけかもしれない)。概略を記します。

大嘗祭では、天皇が衾という布団のようなものに覆われて仮死状態を演じる儀式がある。この衾が中国の王権移行の際には先王の死骸を覆っていたものを用いていたことから分かるように、大嘗祭は再生の儀式であり、衾の原形は羊膜であった。また、古代イランでは王権を手に入れる場合裸になったが、大嘗祭では着衣のまま入水する。

伊勢神宮神嘗祭の翌日、天武天皇が有力者を召してサイコロ戯をさせたというのは、大地母神デメテルが冥界でランプシニスト王とサイコロ戯をしたのと同じで、境界を通過する際の模擬闘争を意味している。古代中国でも冬至には博打を解禁していた。祭日に博打、勝負ごとをするのは再生の境界における闘争儀礼の名残りである。

③境界につくられる石塚や土饅頭は一種の三角表象であり、服喪の家で三本の棒を斜めに組んで戸口に立てる左義長といわれるものは一種のピラミッドと考えられる。また四角い紙の対角線の方向に忌の字を書き、角が上にくるようにして、入口に貼ったり、あるいは死者の額に三角の紙をあてがうのも三角表象。これらは祭壇の観念から発達したものである。

④仏像の頭に釘を打ち込むことは、許すべからざる行為とみなされるが、古くは、仏像の聖性をつなぎとめるための行為であった。神殿の壁にも釘がよく打ち込まれているのはそこが境界であるからであり、仏像に釘を打つのと同じ意味がある。

⑤古代には、敵を破るのにしばしば詐術にたよったが、詐術はたんなるぺてんではなく、知恵や精神の優位を表わすものであった。

 

 神話的あるいは珍妙なイメージとしては次のようなものがありました(文章は少し変えています)。

17世紀のイスファハンでは、貧しい人々が自らを埋葬する習慣があった。口まで地中に身を入れ、残りの頭の部分を特別に作った土器で覆う。彼らは一日中、このままの姿で過ごす(p19)。

中国の富豪の息子が美女を探しに行く。ある寺の仏の乳房をもち上げると、穴があいた。穴に入ると、立派な城があった。息子は歓待された。ふと帰郷したくなった。地上からさらわれてきていた伎女が、鋤で東のかきに穴を開け、息子をおし出した。そこは長安の東の場所であった(p197)。

中国の長者の子の指から四方に光を放った。長者の家が傾き、その子燈指は乞食となり狂って、屍骸を背負って王宮に入ろうとするが、追い返される。家に帰ると、屍骸が黄金の頭と手足になり、大金持となる。阿闍世王がこれを取ろうとすると、死人の頭・手足となる(p224)。

英雄ヨロの敵のラマ僧が、ヨロの目を刺すために、自分の外魂であるスズメバチを送った。ヨロはハチを手に掴み、手を閉じたり開いたりする。とラマ僧は、失神したり意識を回復したりした(p227)。

冥界の女王はイナンナ(イシュタルのアッカド版)を死体に変えて釘に掛ける。イナンナの父は娘を呼び戻すために二人を冥界へ送る。二人は、冥界の女王から釘に掛かった死体をもらい、生命の食物と生命の水を与えると、イオンナはよみがえった(p280)。

 

 目からうろこの発見がありました。浦島伝説の玉手箱に入っていたものは実は浦島自身の魂で、それで玉手箱を開けたとき魂どおりの老人になったということです。それに関連して、死体の首に掛ける頭陀袋は、現在は故人が日常愛用した小物や渡船用のビタ銭などを入れますが、本来は魂を入れる袋だったということです(p248,250)。

 

 ひとつ得意になったことは、著者が「仏画にはヘソから蓮花が生え出るものがある。どのような典拠があるのか知らない」(p320)と書いていますが、これは先日読んだ吉田敦彦『天地創造神話の謎』(大和書房)の「ヒンズー教神話」の項目に書いてありました。『マチヤ・プラーナ』という経典からで、次のようなくだりです。「世界が創造されるべき時がくると、この大洋に浮かび眠っているヴィシュヌの臍から、蓮が芽を出し、やがて黄金色に光り輝く一輪の花を咲かせる・・・この蓮の花が大地となり、また万物を生み出す大地女神の女陰ともなって、ヴィシュヌの内にある世界が、現実のものとして創造されるのである」(p35)。

堺筋本町天牛書店の跡にできた槇尾古書店へ行く

 今年初めに天牛堺書店が閉店したのでがっくりしていましたが、先日、船場店と同じ場所で元店員が古書店を開業したとの情報を「関西古本屋マップ」のサイトで見つけ、飲み会のついでに行ってきました。槇尾古書店という店名で、営業時間は以前と同じ。4日単位で展示替えをする天牛堺店のシステムはさすがに無理と見えて、「少しずつ入れ替えます」という返事でしたが、300円、500円、1000円、2000円、3000円と5段階の均一本がずらりと並んでいました。探求書を2冊見つけ、やや高価なるも購入。他に見たことのない本も。

長谷川郁夫『美酒と革嚢―第一書房長谷川巳之吉』(河出書房新社、06年8月、2160円)

門田眞知子『クローデルと中国詩の世界―ジュディット・ゴーチェの「玉書」などとの比較』(多賀出版、98年2月、2160円)

原田実『黄金伝説と仏陀伝―聖伝に隠された東西交流』(人文書院、92年11月、540円) 

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  オークションでは、何と言っても下記の本が珍しいのでは。

齊藤信子『筏かづらの家―父島田謹二の思ひ出』(近代出版社、05年4月、500円)

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 他に、甘露書房、ブックオフなどから下記を購入。

立花種久『妖星を見た日』(れんが書房新社、14年12月、748円)

前田鐡之助自選詩集『點滴詩抄』(目黒書店、昭和21年3月、500円)→「詩洋」主宰者で、フランス詩に詳しい人。

清水茂『新しい朝の潮騒』(舷燈社、07年3月、324円)

九鬼周造『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月、420円)→以前持っていたが、背が割れかけていたので処分。この本も割れそうな気がする。結局造本が悪かったのか。

関口良雄『昔日の客』(夏葉社、11年11月、900円)→古本マニア必読の書というので。

荻原規子『グリフィンとお茶を―ファンタジーに見る動物たち』(徳間書店、12年2月、216円)

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G.-O.CHÂTEAUREYNAUD『Singe savant tabassé par deux clowns』(G・O・シャトレイノー『二人の道化師に殴られる曲芸猿』)

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GEORGE-OLIVIER CHÂTEAUREYNAUD『Singe savant tabassé par deux clowns』(ZULMA 2013年)

 

 このところシャトレイノーにはまっています。これで6冊目。この作品で2005年の「短篇ゴンクール賞」を受賞しているとありました。題名となっている「Singe savant tabassé par deux clowns」自体はあまり面白くない作品ですが、この賞は短篇集全体に与えられるもののようです。11の短篇のなかで、最高作は「LES ORMEAUX(ミミガイ)」、つぎに「LES SOEURS TÉNÈBRE(暗黒姉妹)」、「LA RUE DOUCE(甘露町)」、「DANS LA CITÉ VENTEUSE(風吹く町で)」、「LA SEULE MORTELLE(不死になれなかった女)」となるでしょうか。

 

 いずれもシャトレイノーらしい不思議な魅力にあふれた作品です。非現実的な世界が描かれ、SF的な設定の作品もあって、その奇想が特徴ですが、とりわけ魅力に感じるのは、その細部がくっきりと描かれているところで、これが凄い。「LES ORMEAUX」で弦楽器職人が、弦楽器に象嵌する貝殻の砕片をウィスキーを蒸留するかのように何段階にも分けて細かく精製して行く手順、「LES SOEURS TÉNÈBRE」では、舟で逃亡する主人公が川の中央にいて、両岸が鏡のように同じ風景となり、上空のヘリコプターが二つに分かれて両岸へ着陸して行く場面、「ÉCORCHEVILLE(削ぎ落す町)」の自動銃殺装置のとどめの一発や死体処理の巧妙な仕掛け、「CIVILS DE PLOMB(鉛の市民)」の鉛のように重たくゆっくりと動く寡黙な死者たちの姿など。

 

 これまで読んだシャトレイノー作品に共通するテーマもいくつか目につきました。まず私の好きな桃源郷、竜宮的な場所としては、「LA SEULE MORTELLE」の不死の若者が裸で集う高山、「LES ORMEAUX」の潮が引いた後に現われた島の別荘、「LA RUE DOUCE」の地図にない町で、これまでの作品では何と言っても「La belle charbonnière(美しき炭焼き女)」(同名書籍所収)の老騎士が甘美な体験をする川中の島でしょう。また「Le verger(果樹園)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS(腕を負傷した英雄)』所収)の秘密の隠れ処や、「Mangeurs et décharnés(食べる人と痩せた人)」(『Le goût de l’ombre(闇への愛着)』所収)の常連客が和気藹々と集う美味なレストランも桃源郷的な場所でした。

 

 死後譚では、主人公の死後を描いたものでは、本作の「DANS LA CITÉ VENTEUSE」が該当しますが、これまでの作品では、「Le voyage des âmes(魂の旅)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』所収)、「Le Styx(三途の川)」(『Le goût de l’ombre』所収)がそれぞれ秀逸でした。主人公のまわりが死者でにぎわう話としては、本作中の「CIVILS DE PLOMB」と、これまででは「Ténèbres(暗冥)」(『La belle charbonnière』所収)が印象に残っています。

 

 本作中にはありませんでしたが、酒や悪夢による幻覚的世界を描いた作品は、「L’habitant de deux villes(二つの町の住人)」(『La belle charbonnière』所収)と「Essuie mon front, Lily Miracle(汗を拭いてくれ、リリー・ミラクル)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』所収)が何と言っても屈指です。他に、「Paradiso(天国)」(『La belle charbonnière』所収)、「Le Joueur de dulceola(ドルセオラを弾く人)」(『LE KIOSQUE ET LE TILLEUL(東屋と菩提樹)』所収)にもそうした味わいがありました。

 

 シャトレイノー作品には蠱惑的な場として、サーカスや移動遊園が舞台となったり、古色蒼然とした店が登場したりする作品が目につきます。本作では、「SINGE SAVANT TABASSÉ PAR DEUX CLOWNS」がサーカス、「LA SENSATIONNELLE ATTRACTION(過激な見世物)」が移動遊園、これまでの本では、「Newton go home!(ニュートン帰れ!)」(『La belle charbonnière』所収)がサーカスを舞台にしていました。蠱惑的な店では、『Le goût de l’ombre』の「Le chef-d’œuvre de Guardicci(グァルディッチの傑作)」の剥製店と「Tombola(福引)」の手芸店が出色でしたが、他にもたくさんあるので省略します。

 

 エパルヴェという町を舞台にした作品もたくさんありますが、どうやらこの町はシャトレイノーが作った架空の町のようです。本作では、「LES ORMEAUX」、「LA SENSATIONNELLE ATTRACTION」で登場。『LE KIOSQUE ET LE TILLEUL』の「Rêveur de fond(夢見る人)」、「Le Joueur de dulceola」、『Le goût de l’ombre』の「Tombola」にも出てきました。

 

 以下に、各作品の概要を記します(ネタバレ注意)。                                   

◎LA SEULE MORTELLE(不死になれなかった女)

ある高級娼婦が幼い頃の体験を語る。貧乏な村の8歳の少女の額にシャーマンの印が顕れたと連れていかれたのは、同じ印をつけた不死の若者たちが裸で自由に暮らす桃源郷だった。が長じるに連れ普通の人間だと分かる。印は母が娘を薬で眠らせている間に刺青したものだった。彼女は幼かったころの貧乏な村こそ桃源郷だったと語る。千夜一夜物語を思わせる夜伽話。

 

◎LES ORMEAUX(ミミガイ)

母とともに貧しい暮らしをしている若者が新しい町へ引越し、名士の子女たちの通う学校で、同じ平民の友人を得る。年に2回の大潮の日、友人と貴重で高価なミミガイ採りに行くがはぐれてさ迷ううちにふだんは海中に潜っている別荘を見つけ、そこで少女に出合う。少女はミミガイがたくさん採れる場所を教えてくれた。潮が急に戻ってきて命からがら陸に上がると、バケツ一杯のミミガイに町中が大騒ぎになる。その夜のパーティでは名士の子女たちから大もてとなり、またミミガイを弦楽器職人に買ってもらって、念願の新しい家具を買えた。一種の竜宮譚。狂気じみた弦楽器職人が登場するのも魅力。

 

〇CIVILS DE PLOMB(鉛の市民)

夫婦と三人の子が暮らしている。夫が初めに亡き祖父を蘇らせて連れてきた。次に若くして戦死した叔父。妻も独身で死んだ女家庭教師を連れてきた。すると子どもたちも愛犬を戻してくれと泣きつき…そうしているうちに、叔母、初恋の人、別の叔父夫婦、父方の祖母、母方の祖父、小学校時代の秀才、ギリシア語教師など15人に。少人数の時は遠慮気味だった死者たちも人数が増えると厚かましくなって…とうとう妻は子どもを連れて家出するはめに。グロテスク滑稽譚。

 

LA SENSATIONNELLE ATTRACTION(過激な見世物)

喧嘩して2ヵ月妻と口をきいていない主人公が、会社の帰りに、子どもの頃から親しんできた移動遊園の見世物に入る。片思いの青年が心臓を好きな女性に贈るという殺人ショーだった。売れ残りのパンを買って帰った主人公はその夜妻と縒りを戻すが、妻も同じパンを買っていた。尻切れトンボ感がぬぐえない。

 

◎DANS LA CITÉ VENTEUSE(風吹く町で)

どこか分からない町で目覚めるが、自分の名前も分からない。中近東風の別荘で、二人の女と一人の男の仲間がいた。自分の腕には注射の痕がおびただしくあり、女の一人にも手首に傷があった。仲間の男を二人の女が取りあい激しく喧嘩する毎日。もう一人の女の腹にも傷がある夢を見る。ある日カフェの占いのとおりに、風に吹き飛んでいる新聞の切れ端を読んでみると、われわれと思しき4人の銀行襲撃犯の記事があった。この町は死者が最初に立ち寄る場所だったのだ。物語の中に「風吹く町で」という小説を読む場面が何度も出てくる自己言及的作品。

 

COURIR SOUS L’ORAGE(雷雨に走る)

雷に打たれて引退した女優のその後を記事に書こうと、三文雑誌の記者が彼女の夏の避暑地に赴く。元女優と接触してさりげなく生活のことを聞くと「待っている」と言う。連れの男にあれこれ聞くが、「このホテルの客はみんな雷雨を待っている」と謎めいた答えしか返ってこない。嵐の夜、みんなが山に向かうのを目撃するが、翌朝元女優と一人の少年が雷に打たれて死んでいるのが発見される。雷の光の向うの世界へ行こうとしたという。

 

◎LES SOEURS TÉNÈBRE(暗黒姉妹)

映画会社に勤める主人公は、ルミエール(光)兄弟にあやかって「暗黒姉妹」という会社を作ろうとしているが、妻から疎んじられ借金もかさんで苦境に立たされていた。ある日偶然ぶつかって知り合った娘に家に誘われ媚薬を飲まされて一晩過ごす。娘の盲目の姉のところで、さらに強烈な酒を飲まされ弄ばれ、長女の館のパーティでは悪夢を見ているような展開の末、逃亡しようとするが…、好色な姉妹に次々と翻弄されマゾヒスティックな眩暈のうちに終わる。ダジャレから生まれた傑作。

 

TIGRES ADULTES ET PETITS CHIENS(大人の虎と子犬)

高額の医療費を取る結核療養所に入居した主人公の青年。医院長の若夫人に恋い焦がれ恋文を書いたりするがたしなめられるだけ。ところが懇意にしている年寄りの患者仲間から「夫人が自分に身を捧げた、見事なおっぱいだった」と聞かされる。何か不自然なことがあると睨んでいるうちに、その老人は自殺しすぐ次の入居者が入った。どうやら金持ちの入居者と入れ替えるための工作らしい。と、次に夫人が恋する目で主人公を見つめ始めた。策略とは知りつつもおっぱいが気になる。結末がどうなったかは書かれていないが、策略と見抜いている主人公は逆にうまくやるに違いない。

 

ÉCORCHEVILLE(削ぎ落す町)

自動銃殺装置が設置された町。主人公が、独身の仲間たちと装置のあり方を話している所へ、鸚鵡占いのジプシー女が現われ、余命を占ってもらうと1週間と出た。絶望した主人公は好きな女性に告白するが相手にされず、自動銃殺装置の前に。すると子連れの女が先に金を入れ目の前で銃殺された。そこへ鸚鵡に逃げられたジプシー女がきたので「占いは嘘か」と訊ねる。女は何か答えようとするが鸚鵡を見つけて走り出し、主人公も後を追う。これもはっきりしないリドル・ストーリー的終わり方が特徴。

 

SINGE SAVANT TABASSÉ PAR DEUX CLOWNS(二人の道化師に殴られる曲芸猿)

サーカスの下働きに雇われた青年。馬乗りの女性に恋い焦がれるが、彼女は3人兄弟のアクロバット師に弄ばれ脅迫されている。猿と鸚鵡の芸を担当していた老人が死に、遺言により車など財産は青年に相続されることになり、団長からショーを引き継ぐよう言われた。青年は馬乗りの女性と猿と鸚鵡とともに車で逃げようとするが、三人兄弟に追いかけられて…。

 

◎LA RUE DOUCE(甘露町)

古書好きのタクシーの運転手が乗せた古書店主は、ベテランの運転手も知らない通りを言った。男の指図どおりに走らせ、男を降ろしたあと町を歩くと、そこはおいしい果物やパンに溢れたところだった。スケボーの少女を避けようとして怪我した運転手は少女の家に招かれ、そこで家族と団欒し、姉とダンスを踊った。翌日その町を必死になって探すも見つからない。道路課に問い合わせてもそんな通りはないと言う。20年後、再び同じ客を乗せるが、町が放っていた輝きは失せ、店は寂れ、少女も妊婦になっていた。姉のことを尋ねると死んだという。実はあの日姉と一晩愛し合ったのだった。古本偏執狂が出てくる桃源郷譚となれば二重丸の評価にせざるをえない。