堺筋本町天牛書店の跡にできた槇尾古書店へ行く

 今年初めに天牛堺書店が閉店したのでがっくりしていましたが、先日、船場店と同じ場所で元店員が古書店を開業したとの情報を「関西古本屋マップ」のサイトで見つけ、飲み会のついでに行ってきました。槇尾古書店という店名で、営業時間は以前と同じ。4日単位で展示替えをする天牛堺店のシステムはさすがに無理と見えて、「少しずつ入れ替えます」という返事でしたが、300円、500円、1000円、2000円、3000円と5段階の均一本がずらりと並んでいました。探求書を2冊見つけ、やや高価なるも購入。他に見たことのない本も。

長谷川郁夫『美酒と革嚢―第一書房長谷川巳之吉』(河出書房新社、06年8月、2160円)

門田眞知子『クローデルと中国詩の世界―ジュディット・ゴーチェの「玉書」などとの比較』(多賀出版、98年2月、2160円)

原田実『黄金伝説と仏陀伝―聖伝に隠された東西交流』(人文書院、92年11月、540円) 

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  オークションでは、何と言っても下記の本が珍しいのでは。

齊藤信子『筏かづらの家―父島田謹二の思ひ出』(近代出版社、05年4月、500円)

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 他に、甘露書房、ブックオフなどから下記を購入。

立花種久『妖星を見た日』(れんが書房新社、14年12月、748円)

前田鐡之助自選詩集『點滴詩抄』(目黒書店、昭和21年3月、500円)→「詩洋」主宰者で、フランス詩に詳しい人。

清水茂『新しい朝の潮騒』(舷燈社、07年3月、324円)

九鬼周造『巴里心景』(甲鳥書林昭和17年11月、420円)→以前持っていたが、背が割れかけていたので処分。この本も割れそうな気がする。結局造本が悪かったのか。

関口良雄『昔日の客』(夏葉社、11年11月、900円)→古本マニア必読の書というので。

荻原規子『グリフィンとお茶を―ファンタジーに見る動物たち』(徳間書店、12年2月、216円)

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G.-O.CHÂTEAUREYNAUD『Singe savant tabassé par deux clowns』(G・O・シャトレイノー『二人の道化師に殴られる曲芸猿』)

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GEORGE-OLIVIER CHÂTEAUREYNAUD『Singe savant tabassé par deux clowns』(ZULMA 2013年)

 

 このところシャトレイノーにはまっています。これで6冊目。この作品で2005年の「短篇ゴンクール賞」を受賞しているとありました。題名となっている「Singe savant tabassé par deux clowns」自体はあまり面白くない作品ですが、この賞は短篇集全体に与えられるもののようです。11の短篇のなかで、最高作は「LES ORMEAUX(ミミガイ)」、つぎに「LES SOEURS TÉNÈBRE(暗黒姉妹)」、「LA RUE DOUCE(甘露町)」、「DANS LA CITÉ VENTEUSE(風吹く町で)」、「LA SEULE MORTELLE(不死になれなかった女)」となるでしょうか。

 

 いずれもシャトレイノーらしい不思議な魅力にあふれた作品です。非現実的な世界が描かれ、SF的な設定の作品もあって、その奇想が特徴ですが、とりわけ魅力に感じるのは、その細部がくっきりと描かれているところで、これが凄い。「LES ORMEAUX」で弦楽器職人が、弦楽器に象嵌する貝殻の砕片をウィスキーを蒸留するかのように何段階にも分けて細かく精製して行く手順、「LES SOEURS TÉNÈBRE」では、舟で逃亡する主人公が川の中央にいて、両岸が鏡のように同じ風景となり、上空のヘリコプターが二つに分かれて両岸へ着陸して行く場面、「ÉCORCHEVILLE(削ぎ落す町)」の自動銃殺装置のとどめの一発や死体処理の巧妙な仕掛け、「CIVILS DE PLOMB(鉛の市民)」の鉛のように重たくゆっくりと動く寡黙な死者たちの姿など。

 

 これまで読んだシャトレイノー作品に共通するテーマもいくつか目につきました。まず私の好きな桃源郷、竜宮的な場所としては、「LA SEULE MORTELLE」の不死の若者が裸で集う高山、「LES ORMEAUX」の潮が引いた後に現われた島の別荘、「LA RUE DOUCE」の地図にない町で、これまでの作品では何と言っても「La belle charbonnière(美しき炭焼き女)」(同名書籍所収)の老騎士が甘美な体験をする川中の島でしょう。また「Le verger(果樹園)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS(腕を負傷した英雄)』所収)の秘密の隠れ処や、「Mangeurs et décharnés(食べる人と痩せた人)」(『Le goût de l’ombre(闇への愛着)』所収)の常連客が和気藹々と集う美味なレストランも桃源郷的な場所でした。

 

 死後譚では、主人公の死後を描いたものでは、本作の「DANS LA CITÉ VENTEUSE」が該当しますが、これまでの作品では、「Le voyage des âmes(魂の旅)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』所収)、「Le Styx(三途の川)」(『Le goût de l’ombre』所収)がそれぞれ秀逸でした。主人公のまわりが死者でにぎわう話としては、本作中の「CIVILS DE PLOMB」と、これまででは「Ténèbres(暗冥)」(『La belle charbonnière』所収)が印象に残っています。

 

 本作中にはありませんでしたが、酒や悪夢による幻覚的世界を描いた作品は、「L’habitant de deux villes(二つの町の住人)」(『La belle charbonnière』所収)と「Essuie mon front, Lily Miracle(汗を拭いてくれ、リリー・ミラクル)」(『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』所収)が何と言っても屈指です。他に、「Paradiso(天国)」(『La belle charbonnière』所収)、「Le Joueur de dulceola(ドルセオラを弾く人)」(『LE KIOSQUE ET LE TILLEUL(東屋と菩提樹)』所収)にもそうした味わいがありました。

 

 シャトレイノー作品には蠱惑的な場として、サーカスや移動遊園が舞台となったり、古色蒼然とした店が登場したりする作品が目につきます。本作では、「SINGE SAVANT TABASSÉ PAR DEUX CLOWNS」がサーカス、「LA SENSATIONNELLE ATTRACTION(過激な見世物)」が移動遊園、これまでの本では、「Newton go home!(ニュートン帰れ!)」(『La belle charbonnière』所収)がサーカスを舞台にしていました。蠱惑的な店では、『Le goût de l’ombre』の「Le chef-d’œuvre de Guardicci(グァルディッチの傑作)」の剥製店と「Tombola(福引)」の手芸店が出色でしたが、他にもたくさんあるので省略します。

 

 エパルヴェという町を舞台にした作品もたくさんありますが、どうやらこの町はシャトレイノーが作った架空の町のようです。本作では、「LES ORMEAUX」、「LA SENSATIONNELLE ATTRACTION」で登場。『LE KIOSQUE ET LE TILLEUL』の「Rêveur de fond(夢見る人)」、「Le Joueur de dulceola」、『Le goût de l’ombre』の「Tombola」にも出てきました。

 

 以下に、各作品の概要を記します(ネタバレ注意)。                                   

◎LA SEULE MORTELLE(不死になれなかった女)

ある高級娼婦が幼い頃の体験を語る。貧乏な村の8歳の少女の額にシャーマンの印が顕れたと連れていかれたのは、同じ印をつけた不死の若者たちが裸で自由に暮らす桃源郷だった。が長じるに連れ普通の人間だと分かる。印は母が娘を薬で眠らせている間に刺青したものだった。彼女は幼かったころの貧乏な村こそ桃源郷だったと語る。千夜一夜物語を思わせる夜伽話。

 

◎LES ORMEAUX(ミミガイ)

母とともに貧しい暮らしをしている若者が新しい町へ引越し、名士の子女たちの通う学校で、同じ平民の友人を得る。年に2回の大潮の日、友人と貴重で高価なミミガイ採りに行くがはぐれてさ迷ううちにふだんは海中に潜っている別荘を見つけ、そこで少女に出合う。少女はミミガイがたくさん採れる場所を教えてくれた。潮が急に戻ってきて命からがら陸に上がると、バケツ一杯のミミガイに町中が大騒ぎになる。その夜のパーティでは名士の子女たちから大もてとなり、またミミガイを弦楽器職人に買ってもらって、念願の新しい家具を買えた。一種の竜宮譚。狂気じみた弦楽器職人が登場するのも魅力。

 

〇CIVILS DE PLOMB(鉛の市民)

夫婦と三人の子が暮らしている。夫が初めに亡き祖父を蘇らせて連れてきた。次に若くして戦死した叔父。妻も独身で死んだ女家庭教師を連れてきた。すると子どもたちも愛犬を戻してくれと泣きつき…そうしているうちに、叔母、初恋の人、別の叔父夫婦、父方の祖母、母方の祖父、小学校時代の秀才、ギリシア語教師など15人に。少人数の時は遠慮気味だった死者たちも人数が増えると厚かましくなって…とうとう妻は子どもを連れて家出するはめに。グロテスク滑稽譚。

 

LA SENSATIONNELLE ATTRACTION(過激な見世物)

喧嘩して2ヵ月妻と口をきいていない主人公が、会社の帰りに、子どもの頃から親しんできた移動遊園の見世物に入る。片思いの青年が心臓を好きな女性に贈るという殺人ショーだった。売れ残りのパンを買って帰った主人公はその夜妻と縒りを戻すが、妻も同じパンを買っていた。尻切れトンボ感がぬぐえない。

 

◎DANS LA CITÉ VENTEUSE(風吹く町で)

どこか分からない町で目覚めるが、自分の名前も分からない。中近東風の別荘で、二人の女と一人の男の仲間がいた。自分の腕には注射の痕がおびただしくあり、女の一人にも手首に傷があった。仲間の男を二人の女が取りあい激しく喧嘩する毎日。もう一人の女の腹にも傷がある夢を見る。ある日カフェの占いのとおりに、風に吹き飛んでいる新聞の切れ端を読んでみると、われわれと思しき4人の銀行襲撃犯の記事があった。この町は死者が最初に立ち寄る場所だったのだ。物語の中に「風吹く町で」という小説を読む場面が何度も出てくる自己言及的作品。

 

COURIR SOUS L’ORAGE(雷雨に走る)

雷に打たれて引退した女優のその後を記事に書こうと、三文雑誌の記者が彼女の夏の避暑地に赴く。元女優と接触してさりげなく生活のことを聞くと「待っている」と言う。連れの男にあれこれ聞くが、「このホテルの客はみんな雷雨を待っている」と謎めいた答えしか返ってこない。嵐の夜、みんなが山に向かうのを目撃するが、翌朝元女優と一人の少年が雷に打たれて死んでいるのが発見される。雷の光の向うの世界へ行こうとしたという。

 

◎LES SOEURS TÉNÈBRE(暗黒姉妹)

映画会社に勤める主人公は、ルミエール(光)兄弟にあやかって「暗黒姉妹」という会社を作ろうとしているが、妻から疎んじられ借金もかさんで苦境に立たされていた。ある日偶然ぶつかって知り合った娘に家に誘われ媚薬を飲まされて一晩過ごす。娘の盲目の姉のところで、さらに強烈な酒を飲まされ弄ばれ、長女の館のパーティでは悪夢を見ているような展開の末、逃亡しようとするが…、好色な姉妹に次々と翻弄されマゾヒスティックな眩暈のうちに終わる。ダジャレから生まれた傑作。

 

TIGRES ADULTES ET PETITS CHIENS(大人の虎と子犬)

高額の医療費を取る結核療養所に入居した主人公の青年。医院長の若夫人に恋い焦がれ恋文を書いたりするがたしなめられるだけ。ところが懇意にしている年寄りの患者仲間から「夫人が自分に身を捧げた、見事なおっぱいだった」と聞かされる。何か不自然なことがあると睨んでいるうちに、その老人は自殺しすぐ次の入居者が入った。どうやら金持ちの入居者と入れ替えるための工作らしい。と、次に夫人が恋する目で主人公を見つめ始めた。策略とは知りつつもおっぱいが気になる。結末がどうなったかは書かれていないが、策略と見抜いている主人公は逆にうまくやるに違いない。

 

ÉCORCHEVILLE(削ぎ落す町)

自動銃殺装置が設置された町。主人公が、独身の仲間たちと装置のあり方を話している所へ、鸚鵡占いのジプシー女が現われ、余命を占ってもらうと1週間と出た。絶望した主人公は好きな女性に告白するが相手にされず、自動銃殺装置の前に。すると子連れの女が先に金を入れ目の前で銃殺された。そこへ鸚鵡に逃げられたジプシー女がきたので「占いは嘘か」と訊ねる。女は何か答えようとするが鸚鵡を見つけて走り出し、主人公も後を追う。これもはっきりしないリドル・ストーリー的終わり方が特徴。

 

SINGE SAVANT TABASSÉ PAR DEUX CLOWNS(二人の道化師に殴られる曲芸猿)

サーカスの下働きに雇われた青年。馬乗りの女性に恋い焦がれるが、彼女は3人兄弟のアクロバット師に弄ばれ脅迫されている。猿と鸚鵡の芸を担当していた老人が死に、遺言により車など財産は青年に相続されることになり、団長からショーを引き継ぐよう言われた。青年は馬乗りの女性と猿と鸚鵡とともに車で逃げようとするが、三人兄弟に追いかけられて…。

 

◎LA RUE DOUCE(甘露町)

古書好きのタクシーの運転手が乗せた古書店主は、ベテランの運転手も知らない通りを言った。男の指図どおりに走らせ、男を降ろしたあと町を歩くと、そこはおいしい果物やパンに溢れたところだった。スケボーの少女を避けようとして怪我した運転手は少女の家に招かれ、そこで家族と団欒し、姉とダンスを踊った。翌日その町を必死になって探すも見つからない。道路課に問い合わせてもそんな通りはないと言う。20年後、再び同じ客を乗せるが、町が放っていた輝きは失せ、店は寂れ、少女も妊婦になっていた。姉のことを尋ねると死んだという。実はあの日姉と一晩愛し合ったのだった。古本偏執狂が出てくる桃源郷譚となれば二重丸の評価にせざるをえない。

井本英一『死と再生』

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井本英一『死と再生―ユーラシアの信仰と習俗』(人文書院 1982年)

 しばらく井本英一が続きます。発行年の古い順から読んで行きます。この本は、雑誌の連載記事をまとめたものなので、記述に重複が多く、断片的な情報の積み重ねが目につき、ややまとまりに欠けるところがあります。個々の話は興味を惹きますが、読んでいて疲れることこの上なし。

 題名のとおり、いろんな神話や習俗を「死と再生」という切り口から語っています。穀類の刈り取りと成長からくる農耕儀礼を基本とし、その変奏ともいえる「阿闍世伝説」「オイディプス神話」など生まれてくる息子が父王を殺す物語、七日ごとに死と再生を繰り返す四十九日の考え方、解脱直前の釈尊と死を意味する魔との闘争などが取り上げられていますが、二つのものの対照的なあり方にことさら注目し、二元論的対立を見ようとしている姿勢には、やや無理を感じるところがあります

 一年のサイクルで言えば、冬を追放し春を迎えるという春分儀礼に死と再生が現われており、これはまた正月の行事や、七夕、冬至などの儀礼と関連するものとしています。東大寺のお水取りとして親しまれている修二会も、十度の化身を一身に表わしたとされる十一面観音に関連した経を読み、再生と関連のある若水取りや最後の三日間に行なわれる走りの行法から考えて、変身をともなった再生の儀礼であるとしています。

 空間的なものとしては、この世とあの世をつなぐ場所、死と再生が行なわれる場所として、冥界への途中にある川、塔や石柱、山頂のくぼみ、境界石、石積み、橋、泉・瀬、三叉路・十字路などの境界に注目しています。あの世へ行く際に死者の口にオボロス貨を咥えさせたり、三途の川の脱衣婆にビタ銭を渡したりするのは交換儀礼であること、地神が地下から湧出したのがオベリスクミナレットなどの塔であり、塔の礎石が仏足石の原型であること、来迎橋やかけ橋は天への階段を横にしたものであること、地蔵信仰やヘルメス信仰が四つ辻で行なわれていたことなどが書かれていました。幻想小説ではおなじみの場所ばかりです。

 死と再生に関連した道具類については、連続三角文・流水文・渦巻文などの喪紋が銅鐸に見られることに触れ、副葬陶器と同じように、何らかの魂をその中に留めておき、必要なときにはその魂に触れることができる器であったとしています。馬は神・聖人のシャマニズム的飛翔の乗物で、駒ヶ嶽や生駒山の名前にみられる「駒」とは神が降臨する際の乗馬を意味していること、イランでは煉瓦を葬儀に枕として使い出産では踏み台にするが、これは境界石の意味をもつこと、箒は生命を与える呪具でもあり、手草や杖、菩提樹の表象もすべて再生を表わすもの。また古代インドでは、家の中にある炉・砥石・箒・杵臼・水瓶の五つを穢れと感じていたが、これは同時に死と再生の両義性を持つ場所であったとしています。

 新たに得た知見としては、

牛耕式の書き方というのがあって、最初の一行は正常、次行が上下あべこべ、第三行はまた正常にもどるという風に書く。向かいあった二人が順番に声を出して読めばすらすらと読めるという(p66)。

古くは寺社には賽銭箱というものはなく、人々は目に見えぬ神仏の家に米や銭を投げ込んでいたという(p70)

→賽銭箱はいつごろから登場したのだろう。

閻魔は梵語ヤマから来ていて、ヤマには「抑止」と「双王」の二つの意味があるが、後者は米国の二人乗り宇宙船ジェミニも同系の語ということ(p108)

→フランス語ではjumeauと同系ということか。

鳥居は神道起源ではなくユーラシア的なもので、もとは生と死を象徴する二本の柱で、頂上に鳥の止まっているものだった(p170)。

御開帳とは年一回、あるいは忌年ごとに覆われていた幕をとり払い、仏を再生させる儀礼(p249)。

サン=サーンスのチェロ協奏曲

  サン=サーンスは、サラリーマン時代、通勤途上でよくヴァイオリンとオーケストラの曲を下記のCDで聴いておりました。

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Saint-Saëns『L’œuvre pour violon & orchestre』(EMI)

Ulf Hoelscher(Vl)、Pierre Dervaux(Cond)、New Philharmonia Orchestra他

今でも、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲を聞くと、その頃の情景や出来事がよみがえってきます。ヴァイオリン協奏曲は第3番が人気のようで、CDも多く出ていますし、演奏会でもよく取り上げられるようです。私も2010年6月17日の記事でコンサートで聴いたこの曲を話題にしています。第1番、第2番の方がどちらかというと好きですが。

 

 この半年ほどは、サン=サーンスのチェロに惹かれて、ずっと一枚のCDを聴き続けています。

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Saint-Saëns『Cello Concertos Nos.1&2』(BMG)

Steven Isserlis(Vc)、Tilson Thomas(Cond)、London Symphony Orchestra

 

 サン=サーンスの音楽は、フォーレやその後のフランス作曲家たちの出発点になっているという評価をよく耳にしますが、音楽の性格は印象派のお洒落さ、モダンさとは一線を画すものがあって、ロマン主義的で、どちらかというと、ドイツ風とも感じられます。ロマン主義風と言っても、初期の清楚で簡素な響きよりは複雑な味わいがあり、楽曲の流れが予想を裏切るような奔放さで展開されていて、後期ロマン派に近いように思います。うまく表現できませんが奇想とかイロニーといったようなものを感じるようなところもあります。チェロ協奏曲第2番第1楽章の半ばぐらいに出てくる旋律では、マーラーを聴いているような錯覚にいつも陥ってしまいます(https://www.youtube.com/watch?v=yJPiffJRSoY)。

 

 サン=サーンスの音楽は、『動物の謝肉祭』の「白鳥」や歌劇『サムソンとデリラ』の「あなたの声に心が開く」のように、とてもメロディが美しいのが特徴ですが、ヴァイオリンやチェロの協奏曲的作品では、メロディだけが突出しているというよりは、つぎつぎと展開していくそれぞれの細部に魅力があり、全体の雰囲気がよく調っているように思います。このCDに収められているチェロ協奏曲は、第1番と第2番、それと「チェロとオーケストラのための組曲」という協奏曲にしては少し軽めのものがありますが、どちらかというと第1番の方が好きで、とくに第1楽章、第3楽章が充実していると感じます。

 

 このCDでは、「La Muse et le poète(ミューズと詩人)」というヴァイオリンとチェロの二重協奏曲的作品がいちばんのお気に入りです。冒頭の淋しさに溢れた旋律を聞くと胸がギュッと絞めつけられてしまいます(https://www.youtube.com/watch?v=N_kF3QWu1d8)。サン=サーンスは昔にしてはとても長生きをした人で、作曲年が1910年となっていますから、まさに現代音楽に突入しようかというときに、こうした浪漫的古風な味わいの作品が誕生していたというのが驚きです。

 

 最後に収められている「La Prière(祈り)」はオルガンとチェロという不思議な組み合わせで、1919年の最晩年の作品ですが、第一次世界大戦の悲劇に対する鎮魂の祈りのように聞こえます。オルガンとヴァイオリンの組み合わせの曲ではラインベルガー「ヴァイオリンとオルガンのための組曲」のCDをひと頃よく聞きましたが、これもやはりオルガンに引きずられてか穏やかな響きが印象に残っています。

井本英一『輪廻の話』

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井本英一『輪廻の話―オリエント民俗誌』(法政大学出版局 1991年)

 

 井本英一の本は、『古代の日本とイラン』、『飛鳥とペルシア』に次いで読みました。この二冊は2014年12月30日の記事で取りあげていますが、その時書いているのと同じ感想を持ちました。次から次へと奇妙な面白い事例が紹介されるその多さにびっくり。思い出したようにどんどん出てきます。少し関連づけながら次へと移って行きますが、どちらかというと、例のソシュールの用語で言うと範列的で、構造的な理解は進みません。前回読んだキャンベルの『宇宙意識』は、数少ない例を挙げながら全体を考えているという意味で、連辞的と言えるでしょうか。

 

 似たような事例をまとめて紹介していますが、すべてが関連があるように考えるのは、推理が働きすぎているような気がします。偶然似かよっているということもあり得るのに、そこに関連を見ようとするのは、民俗学にありがちな一種の病癖とも言えるのではないでしょうか。読み物としては好奇心をそそられわくわくして面白いものですが。

 

 この本はイランを中心に、インド、中国、日本など東洋の宗教・儀礼・風習・民話のなかに出てくる共通のテーマを紹介しながら、その意味をさぐったもので、学会誌など専門的な雑誌に発表したものと(Ⅰ部)、一般向きに新聞に書かれたもの(Ⅱ、Ⅲ部)を収めています。どんなテーマかを羅列してみると、魂の転生(輪廻思想、動物の皮を被る風習、変身合戦)、ふくべ=ひょうたん=ひさご(中空に異世界を見る、ひさごの呪性)、七夕(男女の交わりの日、再生の日)、羽衣(異類通婚、神と人との婚姻、井戸のそばで女性に逢うモチーフ、妻選び)、境界(二つの社の形式、境界石)、水の女神(アナーヒター、母子神)、ミスラ→ミトラ→ミフラク弥勒、みそぎ(生命の水、脱皮)、正月の風習(キリスト教ユダヤ、古代イラン、中国)、とんど(ヨーロッパの火祭り、イランのサダ祭、中国の寒食、灯火祭、東大寺の修二会)、まだまだありますが疲れてきたのでこの辺で。

 

 読んでいて懐かしかったのは、『西遊記』のなかの二つの事例。ひとつは変身合戦で、悟空が真君と闘うときに雀―鷹―鵜―海鶴―海老―蛇―丹頂鶴―野雁などいろいろな動物に変身し合い、また牛魔王芭蕉扇をめぐって闘争した時も、白鳥―鷲―鷹―黒鳥―白い牛と変身し合います。もうひとつは、ひょうたんの口を空に向けて開け、人を呼び「応」と返事をすると、その人を中に吸いとるという赤いひょうたんの話。

 

 不勉強で知らなかった、いくつか面白い断片的情報を引用しておきます。

天皇大嘗祭で天の羽衣を着用して水につかり、それを脱ぐ儀礼がある。羽衣は本来は多くの鳥の皮を縫い合わせてつくった衣服・・・それを着て脱ぐことは天皇への魂の移転を意味していた/p24

 

七夕は・・・七月十五日の盂蘭盆の導入部としての再生の日であった/p84

大麻を使用して幻覚をおぼえ他界を遍歴する物語は、すでにアケメネス朝代に成立/p107

 

境界石の本体である柱石の下には、そこを通る者が、一個ずつ石を置いて行った。この習俗は、ギリシアをはじめ、広い地域でみられるケルンのそれである/p149

 

弥勒は、仏教梵語ではマーイトレーヤ・・・マイートリーはミトラの派生語・・・漢訳されたときは、イラン語の呼び名が写音された・・・ミフラクがそれで、ミーラク、ミーラグとも実際には聞こえた/p151

日本書紀』によると・・・百済から鹿深(かふか=甲賀)臣が弥勒の石像を一軀もって帰来し・・・境界石として戸口に祀られた・・・甲賀三郎譚は、もとは、甲賀氏が百済からもたらした、境界神弥勒にまつわる冥界めぐりの話/p152

東方教会では、一月六日はキリスト生誕日・・・西方教会ではキリスト生誕日は十二月二十五日に移行し、ギリシア教会では一月六日は洗礼祭として固定したが、アルメニア教会では一月六日は現在でもクリスマスであり洗礼祭の日である/p167

古代オリエントでは春分が新年とされ、その伝統はイランによって引き継がれている。この暦では冬至が冬のはじめの十月一日になり、春分が一月一日になる/p178

人間の赤ん坊には舌の下がわにもう一つの小舌があるが、大人になると退化する/p226→ほんまかいな

日本でも昔は正月にも祖先が帰ってきた・・・祖先を供養し、交換・共食することで自分のからだにも祖霊の力を移した。この力は年玉といわれたもので、人間どうしの間でも贈与された/p248

J・キャンベル『宇宙意識』

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J・キャンベル鈴木晶/入江良平訳『宇宙意識―神話的アプローチ』(人文書院 1991年)

 

 古代の宇宙観に関連した本を引き続き読んでみました。キャンベルの本は、20年ほど前に、『神話の力』と『生きるよすがとしての神話』の二冊を読んだ記憶があります。当時の読書ノートを見てみると、東西の宗教思想や民族神話に対する知識の該博さに驚いていることと、そこに生き方の知恵を求める姿勢と柔らかい語り口に共感している様子がうかがえました。この本も、講演の記録をもとにしているので喋り言葉で分かりやすく書かれていました。

 

 いくつかの点で驚きましたが、ひとつは、著者が旧約聖書およびユダヤ教、ひいてはキリスト教のある一面に対して激しい憎悪を抱いていることです。聖書のなかに、他民族を殺戮し掠奪することを正当化するような文章があること、またキリストやキリスト教の聖人たち、聖母マリアでさえ、掠奪を重ねる軍隊の守護神に変えられていることを指摘し、その了見の狭さを厳しく叱責しています。

 

 もう一つは、現代の物理学も考察の射程のなかに加えている幅の広さです。現代物理学では宇宙を、180億年前のビッグバン以来膨張を続け、おびただしい数の渦巻型銀河がたがいに遠ざかりつつあるものと捉え、中心のない相対論的性格があるとしていますが、キャンベルは、すでに東洋の宇宙観にそのような見方があったことを指摘し、「いったい誰が宇宙の数を数えることができようか・・・これらの宇宙は頼りなげな小舟のように浮かんでいる。偉大なヴィシュヌの身体の毛孔と同じように、宇宙の数も無数であり、その一つ一つが神々を数知れず宿している」(p64)という紀元5世紀ごろのインドの物語の一節を引用しています。

 

 全体からうかがえることは、著者の東洋的な神秘主義への嗜好です。古代においては、全体との調和を重んじ、世界は円環的な時間のなかで充足していましたが、イランに起こったゾロアスター教が善と悪を峻別し終末を予言する二元論的宗教観を持ちこんだことによって、直線的な歴史的時間が始まり、闘争や努力、情熱をよしとする倫理観が生まれたとしています。著者はそれに対して、善と悪は時間的な幻影にすぎず、これまで悪を根絶しようとしたことでしばしば恐るべき悪夢を世界にもたらすことになったと、善悪を対峙させる考えを否定しています。

 

 いくつか印象に残った指摘がありました。曲解をまじえてまとめると次のようなことでしょうか。

①神話と夢を動機づけているのは、同一の精神生理学的な源泉であり、それは人間の想像力にもとづいている。神話の物語やイメージは、字義通りにではなく、隠喩として読まなければならない。芸術作品に接したとき人々が直観の中に残っている元型を感じ心が揺さぶられるように、神話にも太古の記憶を取り戻させる働きがあり、その神話を知ることによって、共同体の成員が精神と感情の両面で結束し、調和のうちに生きるよう仕向けるものである。

②人生の後半になって生涯の歩みを思い返すと、その当時は偶然と見えた出会いや出来事が、人生を築いてゆく決定的な要因になったということ、自らがこの人生を意図的に作り上げたわけではなく、これらの出会いや出来事が自分に潜在していた可能性を促してきたということに気づく。同様に、世界史のコンテクストそのものが、こういった相互的影響が織りなす広大な網の目なのであり、時間を通じて展開する人々の運命によって構成されているわけである。

③芸術作品は、生の祝祭のただ中にあって生に対して否と言うことができない。英雄の人生の盛りにおける死であっても、運命を非難すべきものとして描くのではなく、その悲しみを超えて運命が肯定されるのだ。この肯定そのものにおいて、精神は死の恐怖の彼方へと運ばれ、恐怖をぬぐわれ、浄化されることになる。これがカタルシスという悲劇の効果である。

 

 恒例により気に入った神話的イメージを引用しておきます。

杖でその像に触れようとして、杖を左から右へと振ってみた。杖はただ虚空を打っただけだった・・・次に彼が杖を右から左へと振ると、杖は像に触れた・・・こうして彼は、神が形をもちながら、同時に形なきものであることを悟った(ラーマクリシュナ)/p92

一つの存在者が夢見る大いなる夢・・・同時にその夢をすべての人物がともに夢見る・・・いっさいは相互にからみあい、適合しあうのである。網の中の宝石の各々には他のすべての宝石が映っているという、インドの「宝玉の網」のイメージは、この思想に照応・・・さらにこれと似たイメージに、仏教の「縁起」の説があります/p156

理解がない者によってのみ理解される、すなわち、理解する者はすべて、それを知らない。知る者によって知られない者、それは知らない者によって知られる(ケーナウパニシャッド)/p164

自然は私たちの外部にあると同時に、私たちの内部にもある・・・芸術はこの両者の境界にある鏡なのです/p186

吉村貞司の本二冊

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吉村貞司『原初の太陽神と固有暦』(六興出版 1984年)

吉村貞司『日本神話の原像』(泰流社 1980年)

 

 古代の宇宙論への関心の延長で『原初の太陽神と固有暦』を手に取り、ついで『日本神話の原像』を読みました。吉村貞司は初めてですが、語り口の異様さに驚きました。文学青年風の感情過多の文章で、岡本太郎を彷彿とさせます。生命力を称揚する姿勢には共感しますが、表現が過剰、もう少し節度が欲しい。神話のストーリーを下手な通俗小説的な描写に置き換えて説明しているところは、こちらが恥ずかしくなるくらい。

 

 勢いで書いているために、叙述に論理的な簡素さがなく、重複が多いのが欠点。とくに、『日本神話の原像』の後半では、こちらが日本神話をあまり覚えていないせいもあるが、詳しい説明がないまま神話の物語が引用され、火の神やムスビの神など、神の名がたくさん出てきて頭が混乱してしまいました。調べてみると、著者はドイツ文学から出発して、雑誌の編集者となり、その後大学教授となって日本美術を中心に研究された方のようで、それで通説に囚われない大胆な物言いになっているということが分かりました。ストレートに育ってきた国学者歴史学者に対抗心を抱いているようにも感じられました。

 

『原初の太陽神と固有暦』を読んだのは、ちょうど平成から令和に移行する時期で、大嘗祭のことなども報じられていたので、興味深く読めました。この本で主張されているのは、古代の日本は太陽を中心とした世界観だったが、中国から新しい世界観が入ってきてせめぎ合いが生じたということで、それを、いくつかの点から論じています。

①一つは暦で、持統天皇以前は冬至を元旦とする太陽暦を採用していて、新嘗=大嘗=即位式冬至は一致していたが、中国から太陰暦が導入されて混乱に陥ったこと。

②古代の日本は日の出と日没の東西の線が中心で、その線に沿って、奈良春日山―生駒草香山―旧生国魂神社(磐舟神社、石山本願寺大坂城)、河内往生院―四天王寺西方浄土、伊勢―奈良―淡路、法隆寺―竜田神社―住吉大社などいろんな線が引かれ得る。また伊勢神宮春分秋分の日出日没をつらねた太陽の縦線にぴったり沿って建てられているという。一方、中国では不動の星北極星への信仰にもとづく南北の線が中心であった。

③しかし、直接太陽を祭祀する儀礼祝詞は今日ほとんど残っていず、一種の太陽祭祀であった八十島祭も廃絶し、天照らすを名乗る神社はたくさんあったが今栄えているのは伊勢神宮を除いてない。かろうじて太陽は黄金に姿を変えて民話などに形跡をとどめている、とする。

 

 他にも、春日一族や日下一族、物部一族、ワニ族などの家系に関する話があったりしましたが、私には正直よく分かりませんでした。私の住んでいる生駒周辺の地名が頻出していたのは嬉しく思いました。

 

 『日本神話の原像』で強く主張されているのは、日本神話が縄文の感性や精神に貫かれているということで、縄文は、血や糞尿にまみれ、恥部をさらけ出し、残忍で非合理な世界であるが、生命の根源に根ざすエネルギーに満ちたものであり、それが原日本的な姿であるとしています。

 

 もう一つの論点は次のようなものです。日本神話の女神は冥界に住み性と死にかかわり合う異様な存在で、主体的積極的であるのに対し、男神はスサノヲを除いて、ごくまっとうな現実的な存在として描かれている。これは現実においても、男が女性のもとへ許されて通うという女性優位の社会であったためで、略奪をもっぱらとする父性系の他国とは異なっていた。そうした母系社会が記紀成立頃から崩れてきたが、中国からの儒教の伝来が原因ではないか、ということです。また、日本神話では、火と水が重要な役割をしていることも指摘していました。

 

 神話的なイメージでは、雷は、「稲妻」というように、稲を孕ませ実らせる男性的なエネルギーであり、雷光がひらめき大地がおののくのは天と地が交接していると考えたこと(p181)。八岐大蛇の八つの頭、八つの尾は太陽の放射状の光線であり、退治されることは、滅び去る古い太陽神を意味していること(p184)。父神が火の神カグツチを斬ってほとばしった血の飛沫の付着したところすべてが燃えるという情景。暗闇の中で岩石が燃え、草が燃え、樹木が燃える(p214)。

 

 面白かったのは、ヘルメース神の神託のあり方で、聞きたいことを神像の耳にささやき、自分で耳をしっかりふさいだまま場外へ出、そこで耳のふたを取り、最初に耳に入った言葉を神託としたこと(p132)、中国では美女の正体が野狐であったり、幽魂であったと分かっても愛の破綻の直接原因とならないが、日本の神話では、女性たちは正体を知られることを全存在の否定のごとき衝撃として受けとめていること(p60)。

 

 ほかにも面白い語源的な話が幾つかあり、こじつけのような気もしますが書いておきます。男を獲得するために、美しく魅力ある女性を餌にして誘い込もうとする。そうした女がオ・トリ(男取)であり、反対語がメ・トリ(娶)になる。女たちはできるだけエロスの魅力を発揮し、男の心をとろかし誘い込もうとした。それがオトリに由来する踊りである(p89)、日本古来の製鉄技術タタラ、この言葉は、タータール族やギリシア神話ダイダロスに至る広いひろがりを持つもの(p186)。

 

 水が重要というところで、「人生は産湯に始まり、死水で終わる」(p267)という言葉が印象に残りました。