荒川紘『東と西の宇宙観 東洋篇』

f:id:ikoma-san-jin:20190415132404j:plain
 

荒川紘『東と西の宇宙観 東洋篇』(紀伊國屋書店 2005年)

 

 宇宙論の続き。この本は、インド、中国の宇宙論を古代から近代にいたるまで解説していますが、宗教思想史のようなところがあり、国の興亡や社会の変遷とともに記述していて、久しぶりに東洋史を勉強し直した気分になりました。

 

 いくつかの論点を大雑把にまとめると、次のようなところでしょうか。

①草原で遊牧的な牧畜の生活をしていたインド・ヨーロッパ語族が共有していた宇宙意識と、肥沃な土地で農耕生活をしていた民の豊饒と生殖力への信仰の対比。ユダヤ教キリスト教イスラム教の天なる神や、儒教の天は前者の系譜上にあり、古代インダス文明ヒンドゥー教老子荘子、陰陽説、五行説は後者の系譜に属する。

②インドの宇宙論の中心にある巨大な高山はヒマラヤ信仰が背景にある。メール山(バラモン教)―カイラス山(ヒンドゥー教)―須弥山宇宙(上座部仏教)と続き、さらに中国の道教における崑崙山にもつながっている。

ヴェーダブラーフマナ老子、陰陽説、初期の五行説などでは、宇宙を生み出した根源のものは水とみなされていた。これに対し、釈迦や荘子は宇宙の創成については問わない態度を表明している。孔子孟子も宇宙についてはまったく触れていない。

④中国では、天が地上を支配していて、旱魃をひき起したりするとされ、その意志を予見できるのが王であった。王は慈雨と豊穣を求めて天に祈る祭祀者でもあり、政治と祭祀は一体となっていた。→これは日本の天皇にも受け継がれた考え方だろう。

⑤釈迦は、輪廻や我の思想を否定する縁起という考えを唱道し、快楽や苦行による解脱ではなく中道の智慧を説いたが、その後の仏教は時代を経るにつれ、上座部仏教小乗仏教)が輪廻の考えを認めたり、密教が苦行を取り入れたり、釈迦の教えに忠実だった大乗仏教においても空の哲学が生まれるなど、形を変え、最後はインドや中国からも姿を消した。(戦後またインドで復活しつつあるとのこと)

⑥数多くの影響関係が推測されている。インドの『リグ・ヴェーダ』の天の神ディアウスはギリシアの主神ゼウスと、ヴァルナやミトラがゾロアスター教アフラ・マズダーやミスラと起源が同じこと、インドの洪水神話はシュメールやバビロニアから伝播したこと、西のエデンの園の観念がアショカ王の時代にインドに伝えられたこと、海上交易のルートに乗ってギリシア時代の天文学とともに占星術がインドに導入されたこと、メソポタミアの地獄がギリシアの地獄や仏教の地下の地獄に影響を与えたこと、西方から影響を受けて古代中国が青銅器や馬車を作るようになったこと、ギリシアプトレマイオスの天体理論がインドのヴィシュヌ派や中国の渾天儀へ影響を与えたことなど。→だいたい中心はバビロニアメソポタミアあたりのようです。

 

 いくつかの面白い指摘がありました。

①初期仏教では、西だけでなく、東や北の方角にも浄土がある考えられていたが、浄土が死後の往生と関連づけられてから西の浄土への憧憬が強まった。というのは、死の地は太陽の没するところにあるのがふさわしいからで、古代のエジプトでも、ギリシア神話でも死後の国は西に想定されている/p99。

②永遠と光明の浄土に住む唯一仏である阿弥陀信仰と唯一神であるキリスト教との類似性。これは極楽浄土とエデンの園の共通性にも見られる/p99。

③インドの上座部仏教の天界である須弥山頂上には、芳香をただよわせる樹木の庭園があり、美女も多くいる楽園があるとされていたが、これはインドの王族の王宮生活から想像された世界/p78。

上座部仏教では数多くの天が想定されていたが、そのなかで最高の天は非想非非想処、別名は有頂天/p82。→ここから来ていたのか

儒教は社会秩序の維持のための倫理を追求する思想であり、道教は個人の幸福を追求する宗教であったので、政治的には儒教を支持し、個人の幸福のために道教を信奉する形が多かった。日本では思想や宗教が国家主導で輸入されたため、反権力的な道教などは排除されたが、仙薬や陰陽寮の形で日本に移植された/p187

⑥インドから中国に仏教が入って来た時、解脱を求める仏教は自然との融合を理想とする道家に通ずるとして、道家の思想をもとにして仏教を受けとめようとした。「空」は道家の「無」として、「涅槃」は「無為」、「菩提」は「道」と訳され、「一切衆生悉有仏性」も『荘子』の「万物斉同」と重ねて理解された/p223

 

 他に、この本を読んでいて思ったことは、道教や陰陽説、五行説に出てくる「気」は、エントロピーの反対概念のネゲントロピーではないかということ。また、東大寺の大仏が毘盧遮那仏であり、空海が中国から持ち帰ったのが密教だった理由は、それぞれ当時の中国で最新流行の仏教が華厳宗であり、密教だったからということが分かりました。なんでも最先端のものを欲しがるわけですね。

 

 最後に、神話的想像力に富んだ魅力のある文章を引用しておきます。

虚空のなかで有情の業の力がはたらきだすことで、風が吹きはじめ、この風が密度を増して、風輪が形成される。この風輪の上の雲が凝集して雨となって水輪が形成され、水からは金輪が生まれ、その上に須弥山をはじめとする九山八海や四洲が出現した(『倶舎論』)/p87

極楽浄土には太陽も月もないが、光の仏に照らされた光明の浄土である/p97

バビロニアでも天は碧玉などの堅い物体からなると考えていた。水を湛えることができるほど天は堅固でなければならないというのである/p200

『古代の宇宙論』

f:id:ikoma-san-jin:20190410071311j:plain

C.ブラッカー、M.ローウェ編矢島祐利/矢島文夫訳『古代の宇宙論』(海鳴社 1978年)

 

 『天地創造神話』からのつながりで、古代の宇宙論に関する本を読みました。古代エジプトからバビロニアユダヤ、中国、インド、イスラム、スカンジナヴィア、ギリシアなどそれぞれの専門家9名が執筆しています。宇宙論といっても幅広く、霊魂や死後の世界まで入っています。対象とする国々が異なり、またそれぞれの地域を専門とする執筆者の資質の違いもあるために、神話の天地創造に関する部分を紹介した体裁のものや、哲学的な深い味わいのあるもの、やたらと人名が出てきて学説の紹介に終始したもの、天文学的な考察に富んだものなど、テイストの異なる諸篇が集められています。理科系の専門的な話題があるうえに、翻訳なので読みにくいところがあり、理解できない所も多くありました。

 

 いくつかの大雑把な印象を述べますと、エジプトやインドなど、古代人の原初的な知のあり方の素朴だが力強い想像力に感銘を受けたこと、それぞれの著者がそのことを尊重しながら語っているのが好感が持てました。また古代ギリシア宇宙論にはすでに科学的な片鱗が多々含まれていること、インドでは、古代神話、ヒンドゥー、ジャイナ、仏教が複雑に絡み合っていること、イスラムプロティノス神秘主義の影響が大きいこと、スカンジナヴィアの神話がケルト神話と似たところがあるなど。

 

 神話や宇宙論には、その国の風土が反映していることがよく分かりました。古代人が自分のまわりの世界を見渡して、それに基づいて物語を作るわけですから、当たり前なことではありますが。例えば、エジプト神話では太陽讃歌が多く、その一つに空に太陽の火球を転がし進む巨大な甲虫を見たりする一方、スカンジナヴィアの神話には、通路をはばむ大きな山や急流が出てきて、暗黒・寒冷の世界が描かれるという具合です。

 

 自分の体験からものごとを考えるということがいかに根本的なことかということで、古代人が月の満ち欠けを見て太陰暦を作ったり、犬狼星の出現が年ごとの洪水のはじまりと関連していることに気づいたり、海や川以外に地下からも水が湧き天からも水が降ってくるので「原初の水」というものを想定したり、春になると植物が芽生えるのを父なる天が母なる地に注ぎ込んだ結実と考えたりしたその心の動きがよく分かります。そして大航海時代になって、航海家が初めてプリニウスの大きな誤りに気づいたように、新しい経験が過去の権威的な知識を塗り替えて行くわけです。

 

 また昔の人も進んだ考えを持っていて、古代中国ですでに天はまったく空虚という考え方の宣夜派の人たちがいたこと、前三世紀のサモスには太陽中心の学説を唱えた天文学者がすでに居たこと、中世イスラム天文学者が太陽中心の体系にもとずいてアストロラーブを製作していたこと、また中世では教育のある人は地球が球形であると認めており、教育のある人で地球が平面という人は奇人とみなされたこと、その証拠に、フランス語のmonde(世界)はイギリス国王の持つ球をマウンドと呼んでいたことから来たことなど、意外でした。

 

 いくつかの面白い指摘がありましたので、簡略にしてご紹介します。

ギリシア・北欧・中国の宇宙体系では時間は周期的である。直線的な時間を考えているのは『旧約聖書』の宇宙だけ/pⅷ

②井戸水の観察から、地下の近くのところに巨大な淡水のかたまりがあると考え、一方、死後に行く地下界を想像していたので、地下界へ行くには川を渡らなければならないという発想が生まれた(シュメール神話)/p39

③中国やインドに共通するのは、時代を経るにしたがって、善人と悪人を分け善人を尊び悪人を罰するという裁断の思想がしだいに入りこんで来ること/p89、p113

④不死の薬というのは中国のみに見られる不思議な現象だが、これはグノーシス派の教義に「不死の薬」という言葉があり、比喩的に使っていたのを額面通りに受け取った結果であった/p92

⑤太陽が季節に、月が潮汐に影響するのなら、恒星と惑星の動きが国家や個人の運命を左右しないわけはないというところから、占星術が誕生し、中世末から16世紀に天文学が流行した一因となった/p258

 

 恒例により、神話的な想像力の魅力を感じさせられた文章を引用しておきます。

太陽は天空の眼であって、地を見下ろしている(エジプト神話)/p7

夜明けに天空の女神の子として生まれてから、太陽の船に乗って天の大海へと昇り、日中になると急速に大人になり、次には老人として西方に沈む(エジプト神話)/p7

原初の水から蓮の花が咲き出た・・・その花びらは、原始の暗闇では閉じていたが、これが開くと、美しい子供の姿をした世界創造者が蓮の中心部から飛び出した/p14

そこには存在せぬものも、存在するものもなかった・・・そこには死も不死もなかった・・・昼のしるしも夜のしるしもなかった・・・そのものは風はないのに自分の力で息をした・・・暗闇は初めに暗闇によってかくされた・・・あるようになったものは空虚で覆われた。そのものは熱の力で立ちあがった。願望が初めにその上へやって来た・・・この創造は何処から起こったのか。何処へ彼はそれを築いたのか、あるいは築かなかったのか・・・彼だけが知っている。さもなければ彼は知らない(リグ・ヴェーダ)/p111

われわれの永劫の前には最も多い五人の仏陀がいて、ゴータマ・ブッダはその第四番であった。もう一人来るはずである、何時来るかは誰も知らない/p143

動くものが知性であって、直接に動かす力は霊魂である・・・磁石自身は動かないが、鉄を動かし・・・風は木のまわりに渦をまいて木を動かす/p170

G.-O.CHÂTEAUREYNAUD『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』(G・O・シャトレイノー『腕を負傷した英雄』)

f:id:ikoma-san-jin:20190405072948j:plain

GEORGE-OLIVIER CHÂTEAUREYNAUD『LE HÉROS BLESSÉ AU BRAS』(BABEL 1999年)

 

 15篇からなる短篇集。うち一篇「Essuie mon front, Lily Miracle(額を拭いてくれ、リリー・ミラクル)」は、読んでいるうちに聞いたことがある話のような気がしてきて、調べてみたら、以前「Roman13―fantastique」誌で読んでいたことが判明。

 

 15篇のうち、幻想味が濃厚なのは、「Le voyage des âmes(魂の旅)」、「Le petit homme d’or(金の小人)」、「Essuie mon front, Lily Miracle」、「La demeure de l’amour est vaste(広大な愛の館)」、「Le verger(果樹園)」の5篇。SF的な味わいがあったのは、「Le gouffre des années(年月を越えて)」、「Underman(臨時派遣の男)」、「Le jeune homme au saxophone(サキソフォンを持つ若者)」の3篇。あとは、普通の小説ですが、少し変わった味わいのものが多く、いずれも語りのうまさが感じられました。

 

 とりわけすばらしかったのは、冒頭の「Le voyage des âmes」で、死後の一瞬の猶予の世界を夢のなかのできごとのように語り、グロテスク・ユーモアが溢れていました。長くなりますが各篇を紹介しておきます。

                                   

◎Le voyage des âmes(魂の旅)

ある老人のところに、夜お迎えが来て馬に乗ると橋を渡ったところで置き去りにされる。と閻魔帳を持った御者が現れ、名前を聞き帳簿に印を書き入れる。気がつくと若くなっている。翌日、男女入り混じって馬車に乗り途中ピクニック休憩。自然とカップルができ森の中で抱き合う。また馬車に乗せられ寂しい国境に着く。そこから先は真っ暗で歩いて行くと突風が吹き体は霧散する。国境はこの世の果てだった。

 

Mer belle à peu agitée(海は穏やかだがやや荒れ)

従兄弟の家で祖父と一緒に暮らしている男の子。母親は遠くパリにいて、ときたま父親が帰ってくるのが待ち遠しい。父親が戻って来て、夜、祖父や叔母、従兄弟らと海へ海老や貝を取りに行く。男の子が蟹を追いかけているうちに霧が出て、皆とはぐれて岩の上に一人取り残されたとき、満潮になって水嵩が増してくる。賑やかな日常と夜の海での孤独の対比が恐ろしい。

 

◎Le gouffre des années(年月を越えて)

小学校へ行く途中の過去の自分を待ち伏せし、戦死した父さんの従兄弟と偽って、懐かしい家に過去の自分と手を繋いで二人で戻る。あと1時間でドイツ軍の爆撃があり、母さんは死に家は破壊されるはずだ。懐かしいおやつを食べ、昔遊んだ玩具を手にしていると、警報が鳴った。母子と一緒に地下へ逃げ込むと、家の前のガス車に爆弾が落ちた。男は吹き上げる炎から護ろうと二人に覆いかぶさる。男の気持が読後強く残る佳篇。

 

La chamber sur l’abîme(崖っぷちの部屋)

父が失踪し母が精神を病んでいるので、6歳の主人公は寄宿舎に預けられている。そこでは皆からからかわれる毎日だが、一人字の読み方を教えてくれる子がいた。週末家に帰って、本棚の本を前にしたとき、新しい世界が広がったと実感する。

 

〇Le petit homme d’or(金の小人)

売れない作家が、ある編集者から飛躍のためには別の生活をすべきと提案され、書店経営をしながら見知らぬ女性と住むことになる。提案の際トンネルの陰に立つ裸の女性の写真と金の人形を渡される。写真の顔は塗りつぶされているがそれは紛れもなく作家の体験の一場面だった。車の事故に遭い、気付け薬を飲みに入った女性の家で、金の人形が立つトンネルのミニチュアを見つける。数日後、女性宅へ行き自身の持っている人形と写真を見せると、女性は黙って庭の奥にあるトンネルへと誘った。謎めいた魅力があるが、読解力が悪いせいで結末部がよく分からず。

 

La ville aux mille musées(博物館だらけの町)

美術館や博物館の地下にねぐらを借りている浮浪者たちは詩人でもあり、警察が取り締まりをかけるのを巧みにかわしながら生きている。ある美術館の老館長が一人の浮浪者の詩を読み、多大な才能に期待をかけるが、その浮浪者は市長命令の一斉検挙の際、逃げようとして屋根から落ちて死ぬ。それを知った館長は市長を公衆の面前で平手打ちした。浮浪者の眼から町の光景を綴る。

 

〇Le héros blessé au bras(腕を負傷した英雄)

戦争で腕を負傷し、勲章と年金はもらったが、画家への道を閉ざされた男。友人の画家からも愛想をつかされ、孤独で文房具のセールスを続けている。慰めは夜の舞踏会の酒と女だけだ。ある女性との数回にわたる逢引きを語る。男出入りの激しい彼女は男の顔を覚えておらず腕の傷を見て初めて彼と知る。画家の夢破れ落ちぶれた男の悲哀が漂う一篇。

 

◎Essuie mon front, Lily Miracle(汗を拭いてくれ、リリー・ミラクル)

:雑誌「Roman 13―Le Fantastique」(「小説 13号 幻想小説特集」) - 古本ときどき音楽

 をご覧ください。

 

〇Le marché aux esclaves(奴隷市場)

富豪の会長の運転手として奴隷市場に通う主人公。会長に気に入られてすべてを任され今や名士の仲間入りをするまでに。美人の奴隷を市場へ解約に行く命令を受けるが、二人で貧しく暮らす道を選ぶ。ネルヴァルがたしかカイロで女奴隷を買って一緒に暮らしたことがあったことを思い出した。あるいはロチの『アジアデ』の雰囲気もある。短いが珍しい風俗を描いた一篇。

 

〇Trois autres jeunes tambours(3人の若者鼓手)

文壇へのデビュを夢見る三人の若者を、零落した酔っぱらいの文士が文壇に引入れる。別れ際、その文士は、名声を得てからの苦難を予言する。それから10年後、その文士の葬儀の後、今や文壇の寵児となっている若者は文士の言葉を思い出す。文壇パーティの華やかさが印象的。

 

◎Underman(臨時派遣の男)

臨時派遣で各地を出張で渡り歩いている男。ある変哲もない町の玩具会社に派遣されるが、奇妙なことに至る所で焼け焦げた建物を修復している。夜爆発が起こり、駆けつけると、怪物たちが二手に分かれて見たこともない火器で戦っている。翌日、建物は破壊されているのに、人々は何事もなかったように振舞い、新聞にも何も出ていない。聞き出せば毎月13日に起こるという。翌月爆発現場を撮影すると、現像した写真には玩具会社社員の仮装した姿が写っていた。地方紙の記者に協力を求め、この町の秘密を暴こうとするが、やがて命を狙われるように。末尾の別れの手紙が悲しい。

 

Sortez de vos cachettes(出てきてよ!)

夏に孫たちが集まるのを楽しみにしていた老人。自分も子どもの頃隠れん坊をして、誰も出てこなくて泣いた思い出がある。しかし夏も終り、来年はもう孫たちも大きくなって、もうはしゃぎまわるのを見ることもないだろう。回想に耽りながら「出てきてよ」と叫ぶと、森から怪物がぞろぞろ出てくる。最後の場面が唐突。

 

◎La demeure de l’amour est vaste(広大な愛の館)

本国では貧乏だが異国では王様だ。3年の休暇中に異国で広大な館を買い、ゴルフやブリッジ、女性たちとの社交を楽しんでいる。女性を引き入れる部屋を探そうと迷路のような館をさ迷って高熱を発する。広大な館には何か気になる彫像がある。革命が起こり、這う這うの体で船で逃げ出すが嵐に遭い、なお悪いことに持ち帰ろうとした彫像が船底を突き破ってしまった。悦楽郷、迷路の館、彫像の呪いの三拍子そろった私好みの一篇。

 

〇Le jeune homme au saxophone(サキソフォンを持つ若者)

下手なサキソフォンだけが趣味の自堕落な若者。南仏の別荘に行くと、隣の美人女性から、深夜テレビの放送終了後に、若者がサックスを演奏している姿が流されていると言う。たしかに自分とそっくりな男が凄い演奏をしていた。次第に深夜のテレビジャックが話題となりいろんな人から声をかけられるようになって外に出るのも大変に。すると今度は隣の女性のそっくりさんの姿も一緒に画面に映るようになり…。最後は警察に追いかけられ、二人で海へ脱出する。無為を愛する男の造型は魅力的だが、若干設定に無理がある。

 

Le verger(果樹園)

ナチのユダヤ人収容所を想定した場所。運ばれてきた人々は裸になり、シャワー室に入って行く。兵士に追いかけられた男の子が兵士の目の前で突然消える。暖かく、りんごと魚が毎日手に入る異空間に落ち込んだのだった。数日後、不用意に男の子が外へ出て銃撃を受けるが、犬を連れた捜索隊が探しても見つけられない。男の子は囚われた人たちが庭に出た時にりんごを投げてやったりする。が数か月後、何も知らない子はみんなと一緒になろうとしてまた収容所の列に戻る。ガス室の煙突を見て次から次へと人が送り込まれる巨大な工場だと思い込む男の子がいじらしい。

吉田敦彦『天地創造神話の謎』

f:id:ikoma-san-jin:20190331072208j:plain

 吉田敦彦『天地創造神話の謎』(大和書房 1985年)

 

 引き続き、吉田敦彦を読みました。この本は『天地創造99の謎』(サンポウブックス、1976年)に加筆・増補したものということなので、前に読んだ二冊よりは古いものです。オイディプス神話の構造分析や南米ボロロ族やアピナイェ族の神話についてのくだりは『神話の構造』と同じ内容。入門書的な体裁で、見開き2ページでひとつの項目を解説し、各項の冒頭で前項の復習を簡単にしながら次の説明に移る方法は、簡潔さと全体の流れを両立させるうまいやり方だと思いました。

 

 また、世界の神話をテーマごとに区切って考えているのが特徴で、全体は9章からなりますが、大きく二つに分かれ、ひとつは世界の初源についてのテーマ(世界の創造、人類誕生、太陽と月・霊魂・火・死の起源など)、もうひとつは神話自体についてのテーマ(東西神話の類似、神話はなぜ生まれたか)を取りあげています。

 

 一点気になったのは女性蔑視的な視点。とくに、第6章「霊魂は、なぜ生まれたのか」と第7章「女性は、なぜ罪と関係あるのか」に顕著。第6章では、人間の霊魂というものは、天に属する男性的部分と、大地に属する女性的部分に分かれ、男性的部分は天に飛翔しようとするのに、女性的部分が誘惑の手段を使ってそれを阻止しようとしているとするグノーシス神話と、天から来た魂と地下から来た魄が身体の中で結合したのが人間で、汚濁の世界から天上に帰ろうとする魂の要素が強いのが男性で、それを引き留めようとする魄の要素の強いのが女性という中国の魂魄説を紹介し、両者が類似しているが、これが人間存在の真相だと書いています。第7章では、「神に近い生活を送っていた男が、あとから出現した女の犯した過ちによって、苦しみに満ちた生を送った末に死ななければならぬ運命を持つようになった」とか、「なぜ男は女のために一生苦しみ、働くのか」とか妄言を吐いています。吉田敦彦は私よりかなり上の世代なので、戦前の気風が奥深く残っているということでしょうか。

 

 いくつかの面白い指摘がありましたので、我流の要約で紹介しておきます。

①神の意志で、神がなにか言葉を発すると、そのとおりに、天地の万物が生まれたり(古代ヘブライ神話)、神の名前を知るだけで絶大な力が授かったり(日本の伝説)、と言葉の重要性を指摘しているところ。

②卵の中から宇宙が生まれたというフィンランド神話を取りあげ、卵から生物が出現する奇蹟を見て、科学的説明のなかった時代の古代人の想像に思いを馳せているところ。また、卵から雛鳥が出現し蛹から蝶が飛び立つという神秘を前にして人類は霊魂の存在を信じるようになったというスペンサーの考え方を紹介している。

③海に矛をさし入れ海水を攪拌して引き上げた時に、矛の先端から滴った塩水が積もってオノゴロ島ができたという日本神話について、魚を釣るように陸地を釣り上げたという南洋の神話の一変種とする見方と、矛は男根で塩水は精液をシンボライズしており、男性器が創造の源とするインドやエジプト神話と共通しているとする見方を紹介している。

④人間の霊魂を神の息と同一視する観念は、ユダヤキリスト教に一貫するとしている。

⑤近親婚のタブーは人類のすべての文化に共通して見られるのに、いくつかの神話では、人類が原初の男女によってなされた近親婚から発生したことになっている矛盾を指摘しているところ。

⑥人類の諸文化の間に優劣の差はなく、人間はいつの時代どの場所においても、つねに偉大で崇高な神性と野蛮で低劣な獣性を兼ね備えた矛盾に満ちた存在であり、その矛盾を解決しようと痛ましい努力を続けてきた。神話はそうした人間の努力の証言だ、と最後に力説しているところ。

 

 恒例により、不思議な神話的想像力が感じられ文章を引用しておきます。

卵・・・割れた殻の上半分は天空となり、下半分からは堅固な大地ができた。卵の黄身からは太陽が、白身からは月が発生し、卵の中のまだらな部分は星に、黒っぽい部分は雲になった/p25

悪魔が神の身体を転がすにつれて、陸地はどんどん面積を増し、しまいには海は陸によってすっかり覆われてしまった/p27

マルケサス島の神話によれば、世界のはじめにはただ海だけがあったが、その上にカヌーに乗って浮かんでいたティキ神が、海底から陸地を釣り上げた/p28

世界が創造されるべき時がくると、この大洋に浮かび眠っているヴィシュヌの臍から、蓮が芽を出し、やがて黄金色に光り輝く一輪の花を咲かせる・・・この蓮の花が大地となり、また万物を生み出す大地女神の女陰ともなって、ヴィシュヌの内にある世界が、現実のものとして創造される/p35

アルメニアの伝説・・・毎年昇天節の晩に・・・岩から、馬に乗り一羽の漆黒の鴉をともなったメヘルという名の巨人が出てきて・・・また岩の中へ帰る・・・割れ目は、巨人が通るときは大きくなるが・・・岩の中へ帰るとまた元通り閉じる・・・かれのかたわらには、たえず二本のろうそくが燃え、また、かれの面前では宇宙を象徴する一個の車輪がまわり続けている。この車輪の回転が止まると、世界の終わりがくる/p51

アイヌの神話・・・悪神は、日の出の時にも日の入りの時にも、太陽を呑もうとして大口をあけるので、神々はその口の中に、朝には狐を二匹投げ込み、夕方には烏を一二羽投げ入れて、そのすきになんとか日神を無事に通過させていた/p70

むかし天には十個の太陽があった。弓の名人が地上の熱さを和らげようとして、そのうちの九個の太陽を射落としたところが、残った一個の太陽は射られることを恐れ、山のうしろに逃げ去り・・・二年間暗闇が続いた/p75

水の都の古本市とたにまち月いち古書即売会など

 今月は二つの古書市を覗いてきました。ひとつは、3月中旬の「水の都の古本市」で、二日目がうまく大阪の麻雀会と当ったので行ってきました。二日目ともなると、朝なのに客の姿は少なく、のんびりと見ることができました。室内が暗く、私の視力では背文字が読み取りにくいのが瑕ですが。ここでは念願の探求書を入手。

矢野峰人譯『シモンズ選集』(アルス、大正10年12月、2000円)→少し傷んでいるが致し方ないか。

佐藤彰『崩壊について』(中央公論美術出版、平成18年8月、1000円)→こんな本が出ていたのは知らなんだ。建築史が専門で、教会の塔など東西の建物の崩壊について書いたもののようで、M・デシデリオやW・ベックフォード、J・ロマーノなどの名前が散見されます。

f:id:ikoma-san-jin:20190326113309j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113358j:plain


  先週末、大相撲大阪場所観戦日がちょうど「たにまち月いち」の初日で、朝一に駆けつけました。いつもの矢野書房と寸心堂で購入。

モーリス・メーテルランク杉本秀太郎訳『温室』(雪華社、85年4月、1500円)

寺山修司歌集 帆歌』(短歌新聞社、昭和58年7月、300円)→自選歌集と謳っているのに、「ノート」には「歌の選択から配列まで、すべて岸田理生さんにおねがいした」と書いてある。

「本の手帖 特集:詩の雑誌」(昭森社昭和36年5月、300円)

「本の手帖 特集:豆本」(昭森社、昭和37年8月、300円)

「本の手帖 特集:詩と版画の交流」(昭森社、昭和37年11月、500円)

山崎正一『幻想と悟り―主体性の哲学の破壊と創造』(朝日出版社、昭和54年7月、300円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113450j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113539j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113626j:plain


 別の日、南森町の飲み会に合わせて、天神橋筋古書店を回りました。駄楽屋書房で下記。

井口正俊/岩尾龍太郎編『異世界ユートピア・物語』(九州大学出版会、01年4月、1000円)

 天牛書店では探求書が安く買えました。

小日向定次郎『D・G・ROSSETTI』(研究社、昭和9年4月、200円)

アーネスト・ダウスン小倉多加志訳『悲恋―ディレンマ』(白帝出版株式会社、54年7月、100円)

ロビン・スペンサー愛甲健児訳『唯美主義運動―Aesthetic Movement』(PARCO出版、80年6月、100円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113731j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113804j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326113845j:plain


  大津在住の古本の師の病気見舞いに行く途中、奈良まで足を延ばして「柘榴ノ國」へ。ここも店主が退院したばかり。古い文庫本を二冊。

折口信夫『世々の歌びと』(角川文庫、昭和42年1月、380円)

栃折久美子『モロッコ革の本』(集英社文庫、昭和55年1月、150円)

 

 オークションでは、珍しい本をいろいろと入手することができました。

下條雄三譯『ペルシヤ・デカメロン』(文藝市場社、昭和4年11月、1080円)→内容は、葉巻蘭也『ぺるしゃでかめろん』と同じで、フランツ・ブライ編の『ペルシャデカメロン』(独文)を訳したもののようだ。

出品者のikakonbu3838さんは、「いかこんぶ」を逆さ読みすれば分かるように、「文庫櫂」さんで、このブログをご覧いただいているとのこと、ありがとうございます。日本橋電気屋街の裏手にあるお店には2回ほど行ったことがありますが、また一度寄せていただきます。

アンリ・ドゥ・レニエ鈴木斐子譯『生ける過去』(新潮社、大正15年5月、500円)→この本の存在は知っていたが、初めて見た。

塚本邦雄『樹映交感』(季節社、83年11月、1630円)

高貝弘也『露光』(書肆山田、10年10月、500円)

安齋千秋『フランス・ロマン主義とエゾテリスム』(近代文藝社、96年1月、716円)

吉田敦彦『鬼と悪魔の神話学』(青土社、06年5月、500円)

f:id:ikoma-san-jin:20190326113949j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114028j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114108j:plain

f:id:ikoma-san-jin:20190326114145j:plain f:id:ikoma-san-jin:20190326114219j:plain

 

吉田敦彦『神話の構造』

f:id:ikoma-san-jin:20190321130039j:plain

 吉田敦彦『神話の構造―ミト‐レヴィストロジック』(朝日出版社 1978年)

 

 前回読んだシンポジウムの報告と違い、学術的で、扱っているテーマも専門的な話題になり、難しくなっています。内容は、4つの論文から成り、そのいずれもが副題にあるように、レヴィ=ストロースの神話論のいくつかを紹介するもので、とくに最初の3論文ではその欠陥を厳しく指摘していて、レヴィ=ストロースに果敢に挑んでいる印象があります。恥ずかしながらレヴィ=ストロースはまともに読んだことがなかったので、その理論の大胆さに驚いたというのが本音です。

 

 まず冒頭の論文「神話の時間と構造」では、レヴィ=ストロースが、神話を通時的に読むだけでなく、その構造を共時的にも捉えるべきという理論をもとに、オイディプス神話を題材に分析した論文を紹介した後、それを検証し、その試みが破綻していることを指摘しています。複雑でとてもここでは紹介しきれませんので詳しくは読んでいただくしかありませんが、レヴィ=ストロースの神話の分析はとてもドラスティックで鮮やかで、推理小説を読んでるがごとき印象がありました。著者が言うように、たしかに強引な解釈が見られたり、通時的な読み方を捨象するなど無理があることは理解できますが、基本的な考え方には魅力を感じました。

 

 二番目の論文「神話と謎」では、レヴィ=ストロースによるオイディプス神話とペルスヴァル神話を比較した分析を取りあげています。その分析を簡単に紹介しますと、

①まず神話に現われる謎のあり方には、「答えが与えられぬことを予想して出される問」と、その要素を反転させた、「そのための問いが発せられなかった答」の二つがあるとし(p74)、

スフィンクスの謎を解くオイディプス神話は前者で、「聖杯が誰のため何に使われるのか」という質問を最後まで発しなかったために呪いを解けなかったペルスヴァル神話は後者であると指摘(p75)。

③知者でありかつ性的タブーを犯したオイディプスと、無知で性的純潔さを持ったペルスヴァルは、正反対の性質を備えていることに着目し(p76)、

④その隠された意味は、答えられないだろうと出された問に答えてしまうことは、結合してはならぬ者同士の性関係につながり、必要な問を発しないということは、性関係の不毛と純潔を表わすものとしたうえで(p77)、

オイディプスの近親婚によってテバイに引き起こされた疫病の猖獗は自然力の跳梁状態で「過剰な夏」を表わし、反対に、ペルスヴァルが解消できなかった自然力の凍結状態は「恒常的冬」を表わすとしています(p77)。

⑥夏の極端化は腐敗、冬の恒常化は不毛と結びつき、結局はどちらも人間の生を不可能にすることを人々に示し、現行の季節の平衡とその規則的な交代を好ましいものとして、これに従うべきことを教えているというのが結論で(p78)、これもなかなか鮮やかなものがありますが、これに対して、著者は、

レヴィ=ストロースのこうした分析は、各々のケースでいろんな方法を試すという試行錯誤的なもので恣意的であり、何か画期的な新しい科学的分析法が確立されたと思うのは間違いであると警告し(p81)、さらに、

②そもそもテバイを襲った疫病については、もともとオイディプス神話にはなく、後世にソポクレスがペロポネソス戦争の悪疫をヒントに付け加えたものであるとし(p84)、細かい部分で間違いを犯していると指摘しています。

 

 次の論文「ボロロ神話の論理」も詳細を説明するのは大変なので、大雑把に紹介しますが、レヴィ=ストロースがブラジル中央のボロロ族の二つの神話を取りあげ、①親族の内部で過剰な結び付きがある、②それが原因となって宇宙が分離される、③しかしその分離は新しい媒介者の出現によって補填される、という三段階の共通の構造があると分析していること(p104)、また、ボロロ族と、北米のオジブワ族、ポリネシアのティコピアには、もともと多数あった部族が現在の部族数になる原因を語る神話があるが、共通の構造として見られるのは、連続が不連続になる経緯が説明されていることで、無作為に選別がなされ不連続になるのと、何らかの基準があって選別され不連続になる二つのパターンがあることを指摘していると紹介し(p124)、そのうえで、また細かいところで作為的な誤謬を犯していることを暴露しています(p183)。

 

 最後の「死の神話の起源」は、上記3論文とは毛色が異なり、死の起源神話についての著者自らの考察が中心で、火の起源と死の起源を同時に説明する神話が日本でも世界でも見られることから始まり、男が女と性の交わりを持つようになって死が始まったという話も世界共通で、さらに、死の起源が農耕と結びつく神話も多いことが指摘されています。

 

 この章では、レヴィ=ストロースの理論については最後に少し紹介されているだけですが、ここでもレヴィ=ストロースの眼力は鋭く、ブラジルの各地にある神話をいくつか取り上げ、「腐木の呼びかけに答えた」や「蛆のわいた肉を持つサリエマ鳥の鳴き声に誘惑された」ことで人間に死が訪れるようになったという神話や、「臭いフクロネズミを食べた」途端に老人になる話の共通要素として、「腐ったもの」が人間の聴覚、味覚、嗅覚に触れたことが人間の死の原因になるという構造を見抜いています。

 

 いくつかの魅力的な神話的断片を引用しておきます。

竜の歯を抜き取り、それを作物の種を播くようにして、耕した地面の上に播いた。すると竜の歯が播かれた畝の中から、完全武装した戦士たちが生じた/p12→ハリーハウゼンの特撮映画を思い出します。

子供は母をもっとよく探そうとして、一羽の鳥に変身し、バイトゴゴの肩に糞をかけた。するとその糞から、彼の肩の上に、ジャトバの大木が生えた/p91

ボロロ族の間では、死者の遺体はまずいったん、村の広場に埋葬され、その後でまた掘り出されて、肉を取られた骨だけがきれいに洗われ、色をぬられ、モザイク状の羽飾りを貼りつけられて、籠に入れられ、湖か川の水に沈められる・・・ボロロ族が水中にあると信じている霊魂の村に行って、死後の生を生き、かつまた地上に再生する可能性を持つことができる/p96

ついに好奇心を押さえきれなくなって、目隠しを持ち上げ、一人の男を見た。すると彼の視線を浴びた男は、雷に打たれたように、たちまち死んでしまった/p118

少年たちは、途中でフクロネズミを殺してその肉を食べた。すると彼らはたちまちよぼよぼの老人に変わってしまい/p158

地下の世界では、地上が夜の間太陽が輝き、地上が昼になると夜になった/p160

Claude Seignolle『La Malvenue』(クロード・セニョール『異子』)

 f:id:ikoma-san-jin:20190316102557j:plain

Claude Seignolle『La Malvenue』(Phébus 2000年)

 

  これまで読んだセニョール作品のなかでは最高作と思います。物語の展開がとても興味を惹くようにできていて、これが日本語なら巻措く能わずというところでしょう。フランスの横溝正史、あるいは夢野久作か。長編の醍醐味が堪能できました。

 

 少し長くなるかもしれませんし、要領が悪いので意味が分かりにくいかもしれませんが、ストーリーを記しますと、

(現在)ソローニュの農場が舞台。祖父の代から、禁忌の沼の伝承がある。17歳のジャンヌはみんなから「異子」と呼ばれ、額に星印がある。どうやら生まれる時に何かあったらしい。行くなと言われていたマルヌーの沼から顔の一部のような石のかけらを拾ってベッドの下に隠している。麦の収穫が終わり、みんなでお祝いをしようという前の晩、ジャンヌは何かに導かれるようにして麦束の山に火を点け、臨時雇いのよそ者の老人の靴にその火種を入れる。使用人がその一部始終を目撃している。翌朝、よそ者が警察に連れていかれ、使用人がジャンヌに見たと言うと、誰にも言うなと命じる。使用人はジャンヌが好きだったが、ジャンヌは隣家の息子が好きだった。使用人に命じて、マルヌーの沼の茂みに捨ててある石のかけらを集めて家まで運ばせる。使用人は以前のある事件を思い出して恐怖に震える。

 (過去)それは先代の主人がヌーの沼の土地を耕している時、埋まっていた古代の石像に犂が当って、首が捥げ、それを持ち帰ったことから始まった。女中に命じて石を洗うと美人だが意地悪な微笑が浮かんでいる。石を犬小屋の前に置いたが、その晩犬が呻く声がして、翌朝見ると犬は消え、石の口には犬の毛がこびりついている。主人が石を骨董屋に売りに行くと、骨董屋はマルヌーの沼は昔ガリア人が信仰した泉で、石像に触ると子宝に恵まれるという伝承があると言う。翌年、妻から身ごもったことを知らされる。

 (現在)使用人は石のかけらの入った袋を豚小屋に隠す。ジャンヌは沼で隣家の息子と出会い言い寄られるが、悪魔が乗り移った彼女は自分の家に火を点けるのと交換よと告げる。しばらくしたある夕方、ジャンヌと使用人がまた沼に行き、兎を追いかけて沼の深みに入った時、頭のない洗濯女が白い布を沼で洗っている姿を見る。使用人はジャンヌを置いて恐怖で家に逃げ帰る。

 (過去)春になり粉屋が麦を挽いた粉を持ってきた時、主人は納屋にまた石があるのを見つけ、聞くと、骨董屋が恐れをなして戻して来たと言う。粉屋も沼から出てきたものは危険だと忠告する。実際、屋根裏に上げようとした石が落ち、危うく粉屋に当たるところだった。二日続けて夜屋根裏から物音がするので、主人は見に行くが、戻ってくると高熱を発してうなされ祈祷師を呼べと言う。石が動きまわっていたらしい。祈祷師は、石の呪いがかかっていると言い、高熱を下げる呪文を書いた紙きれを飲むように処方する。

 (現在)ジャンヌは沼に沈むところを駆けつけた家の者に救い上げられる。一方、使用人は夜うなされて石のことを喋ったので叩き起こされ詰問される。ジャンヌに唆されて沼から運んだと告白し、ジャンヌは石のかけらを沼に捨てに行くよう命じられる。途中で隣家の息子と出会い、石を捨てるのを手伝ってもらうが、捨て終わった途端、雷雨となり、二人は泥の中で結ばれる。約束は守るよと隣家の息子は言うが、悪魔が去ったジャンヌには意味が分からない。家に帰ると、ベッドの下の石のかけらを捨てるのを忘れていたことに気づく。用事のついでに父の墓に詣でると、墓石が持ち上げられた痕があり石が欠けていることに気づく。その夜、娘のことを悪く言われた主人が使用人と取っ組み合いの喧嘩をし使用人は追い出される。ジャンヌが夜寝ていると、郊外の墓の方角から何者かが近づいてくる気配が、次々に犬が鳴くことで分かる。床を見ると例の石片が落ちていたので、外へ捨てに行くがすぐ誰かによって窓から投げ返される。外を見ると隣家が燃えている。

 (過去)主人は紙切れを飲んで復調したので、沼を見に行く。帰ってから屋根裏で物音がするので見に行くと、雇人頭が気まずそうに出てくる。追い返した後奥に誰かいるので見ると、妻が顔を伏せて泣いている。その夜、主人は石の頭を石像にくっつけようとして沼で溺れる夢を見たので、慌てて祈祷師の所へ相談に行き、帰って来ると麻縄で石を柱にぐるぐる巻きにする。すると家全体が大きく揺れる。次に沼へ走って石像を見つけた場所を掘りあてようとするが見つからない。今度は石の頭を沼に返そうとするが、屋根裏から石を持って階段を降りる際、石が女のように絡みついてきて転落して死んでしまう。女中は石の頭をハンマーで小石に砕く。と同時に妻が額に印を持つ女の子を出産した。それが異子だ。

 (現在)追い出された使用人が隣家の火事を見て、これもジャンヌの仕業と思い警察に行く。警察署では署員一同がよそ者の老人の言動に心酔していたが、老人に声をかけようとして牢から消えているのを発見する。一方、隣家では火を点けた犯人を銃で撃ち皆で追う。途中でジャンヌの妨害に遭うが、結局息子が犯人だと分り全員呆然とする。ジャンヌは自分が命じたと言って家に逃げ帰る。と部屋によそ者が現れて「石を沼に戻しなさい」と言う。そこへ使用人が警察を連れてやってくる。ジャンヌは石を持ったまま沼に向かって走り、石とともに沼に沈む。主人と警察らで沈んだ辺りを捜索し、手ごたえがあったので引き上げると、それは古代の石像で頭がなかった。

 

 小説の構成としては、現在と過去が交互に語られていく形で、しかもその二つの話が同じ構造を持っています。というのは先代の主人は元雇人頭が先々代主人の娘と結婚して跡を継いでおり、現在の主人も元雇人頭で、先代主人の妻と浮気をしていて、先代主人が階段から落ちて死んだ後、結婚して主人となっています。二つの物語に共通するのは石の呪いや沼の禁忌が主人と一家を圧迫していることで、先代と現在の主人に共通して仕えているのが女中と使用人。

 

 幻想小説のパターンとしても、いくつかの読み方ができるようです。基調となっているのが石の呪いで、これはメリメの「イールのヴィーナス」を思わせるところがあります。頭のない夜の洗濯女や墓から抜け出た魂がさまよう場面をみると幽霊小説ですし、ジャンヌ対よそ者という悪魔と神の対決物語とも読めます。あるいは普段は穏やかな美人なのに悪魔が憑りついたときは額の印が赤くなり邪悪になるジャンヌを見れば、「ジキル博士とハイド氏」のような二重人格小説の要素もあります。雰囲気を盛り上げるお膳立てとしては、田舎の農場、禁忌の沼、骨董屋、祈祷師、墓場、数々の伝説、紙に書かれた呪文、霧、雷雨など。

 

 もっとも印象的だったシーンは、深夜、墓地から帰ってきたジャンヌが布団の中にいると、遠くの墓地で犬が鳴くのが聞こえ、次に途中の犬が連鎖するように鳴く。何かが近づいてくるようだ。なぜか分からないまま歩数を数えてみると、ちょうど隣家の辺りへ来たところで、隣家の犬が鳴く。さらに数えていると、どんどん近づいてきて、ちょうど家に着いたぐらいと思っていると、家の扉が開き、自分の部屋の方へ歩いてきてついに戸が開き、ベッドの方に向かってくるという恐怖を煽る描写。これは幽霊小説でも珍しいパターンではないでしょうか。

 

 この本でも先日読んだ本と同様、J.-P.Sという人が序文を書いていますが、的確にセニョールの魅力を言い当てているので、当方で脚色した形で紹介しておきます。「セニョールは若くして師のヴァン・ジュネプについて多くの民間伝承を蒐集し、いつかは民俗学の知識を使って小説を書こうとした。ちょうどバルトークが作曲するのに、収集した民俗音楽から出発したように。だからセニョールの創りだす幻想は薄っぺらな幻想でなく、土壌に根づいた集合的無意識的な迷信の力を利用したもので迫力がある。当初は、サンドラルス、マッコルラン、ロレンス・ダレル、ユベール・ジュアンなど一部の識者から激賞されたものの一般からは評価されなかった。マラブの幻想小説叢書に入ってから、多くの読者の熱狂に迎えられた。がこれは逆に文学を重んじる人たちからは下位ジャンルに属するものとして軽蔑の眼で見られることになった。本来は質の高い文学作品であるのに」。

 

 民間伝承の雰囲気を色濃く残しているフランスの文学作品は、これまで読んだなかでは、ジョルジュ・サンドの『フランス田園伝説集』(岩波文庫)がありますが、ここでも石ころが目を開けてこちらを見るという話や夜の洗濯女が登場していました。また、アレクサンドル・デュマの『Les mille et un fantômes(千一幽霊譚)』にもそうした味わいの作品があったように思います。

 

 原題の「Malvenue」は辞書を見ると、「発育の悪い人」という名詞と、「場違いな、発育の悪い」という形容詞がありましたが、普通の子ではないという意味で「異子」と訳してみました。異子が果たして誰の子か、というのもこの本を読んでいての興味のポイント。先代主人か、奥さんと浮気をしていた雇人頭(現在の主人)か、それとも奥さんが少し触れただけの石像か? 私が思うには石像の子。